入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     ’19年「冬」 (32)

2019年02月03日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 雪のせいで、キャンプ場のCサイトがこんなにも狭く、寂しく見える。春から夏、そして秋、あの頃の賑わいをまるでこの風景は忘れてしまったかのようだ。春の光の中で、夏の星空の下で、秋の日のやわら日に寛いだあの人たちは今、どこでどうしていることか。この辺りの山も冬の眠りに就いた。芝平の谷もそうだ。しんしんと降る森や林を想い、雪の中に孤立しながらも人々の生活の場であった集落を、まるでそこに暮らしていた者かのように懐かしむ。
 
 頬被りして、背を丸め、雪の中、山室川の川端を行く村人の姿。薄暗い土間、その奥からする人の声「お入りな」。雪を払い、言われるまま上がる。囲炉裏の傍に座り、かじかんだ手を火にかざす。老いた父親の具合が悪化したので、医者を呼びに行く相談だった。そのためには馬がいる。医者を乗せてこなければならない。いるかも分からなければ、来てくれるかも覚束ない。山を越え、藤沢の谷の医者を頼むのが一番早い。と言っても、行って医者を連れてきて、そしてまた送り返すから二往復、早くても半日以上かかる、いや一日仕事になる。医者がいなければ玄関先で待たなければならない。病人が出た時が一番大変だったろうが、医者は多くの場合、気休めにしかならんかったのではないのか。それが集団離村を決断する前の、山奥の暮らしだったと「芝平史」にあった。
 これはとても「懐かしむ」話ではないが、あの集落を行き来する中で、いつしか一人の村人になったような気がして、そんな不自由な時代のことを時に想像してみたりした。あの貴重な村の歴史を綴った1冊の本のお蔭である。
 かつて分校の前の庭で遊ぶ半纏(はんてん)姿の子供の一群には、北原のお師匠に似た少年の姿もあっただろう。

 今週末の3連休、まだ予約はないけれど上に行くことにします。一人でも二人でも、どうぞ。

冬の営業案内」をご覧ください(下線部を左クリックしてください)。予約は早めに頂ければさいわいです。




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     ’19年「冬」 (31)

2019年02月02日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 この部屋から、四季折々に変化する自然を眺め、12年が過ぎていった。丁度1週間前、上がっていった時に撮ったものだが、この時の外気の温度は正午だというのにマイナス5度、ようやく前夜だったかに降った雪のせいで、キャンプ場も周囲も期待通りの冬らしい白い世界に変わっていて安堵した。ただ、この小屋の中にいると、つい過去のことを思い返したり、これから先を思い煩うことになり、そうなると気が重くなるだけなので長居は避けた。泊まると決めて上がってきたのならドロドロのウイスキーで景気を付けたり、その辺をウロウロしたりすることもできるのだが、沈滞した小屋の冷気に追い立てられるように、あの日は帰ってきた。
 
 予定通りならきょうのこの呟きは、小屋に置いてあるもう1台のPCから発信したはずだが、思うようにいかないこともある。来週末は3連休、まだ雪の状態は分からないができれば車で林道を行ける所まで行って、そこからはスキーで行こうかと考えている。法華道も登るのはいいが、シールを付けたスキーであそこを下るのは厄介な気がする。登りを法華道にして、下りを林道という手もあるが、そうなるとかなりの距離をスキーを担ぎ歩かなければならなくなる。あの山靴兼用をうたうスキー靴で、長い距離を歩く気にはとてもなれない。


  靴底以外はほぼスキー靴
 
 何故スノーシューズにしないのかというもっともな声が聞こえてくる。確かに扱いやすいスノーシューズで法華道を往復するのが最善手ではあるとは思うが、この段階では車に頼って、少しでも楽をしたいと軟弱なことを考えている。果たしてそれが可能かどうか、まだ決めたわけではない。1年ぶりの雪の法華道も捨てがたいし、HALはどっちがいいのだろう。もう年(12歳)だから、それも考えてやらねばならない。それにつけても、2014年の12月、牧場へ行く夜の雪道で消息を絶ってしまったもう1匹の犬、キクのことをまた思い出した。

冬の営業案内」をご覧ください(下線部を左クリックしてください)。予約は早めに頂ければさいわいです。




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     ’19年「冬」 (30)

2019年02月01日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 里にも雪が積もった。昨夜あれだけ飲んだのに、今朝また雪見酒を怠らない律義さ、感心である。これで今日は、どこへも行かない。

 Fさんは、そこまで東駒(甲斐駒)が好きだったんだね。彼女の希望は、そこを「永遠の臥床」とすることだと。それに対して赤羽さんは、火葬もせずに深い海の中に沈んでいくことが理想だとか。フランス映画「冒険者たち」だったか、二入の男たちが愛した女性の遺体を、潜水具を着せ、深い海の底に沈める情景が、曲とともに甦ってきた。泣ける。
 
 山に来て、人は山を語る。しかしいつの間にか知らずしらずのうちに、人生について、生き方について語っている。若くして思い半ばで生命を落としたクライマーに仮託してみたり、あるいは山への想いと繋げてみたりして。だから、山と人生が重ならないような山行は、味気ない。日常にはない不安や、危険を押しても山に行くことで、安直に過ぎていく時間に抵抗したり、日ごろ気にかけない意識の深い所へ降りていくこともできる、それが山だ。河童橋から眺める雄大な景色は魅力だろうが、あの人たちは恐らく、そのとき人生のことなど考えてはいない。穂高の山並みも、梓川の清流も、岸辺のヤナギも、銀座の電飾やショーウインドウと同じかも知れない。
 いや確かに、人生などいくら考えてもキリがないといえばそうだ。しかしだからといって、遠いか近いかは別にして、誰にも終局が訪れるという自明の前に、考えないでは済まない。しかも、それがかなり非情残酷なやり方だから余計に悩ましい。美女は老醜をさらし、美男は痴呆を知らず徘徊する、そういう例をたくさん見てきた。
 あの人たちが、いとも呆気なく山で生命を失ったと思えても、その時本人たちにどれほどの濃密な時が流れたかは分からない。朝から酒を飲み薄い時間を呆けていると、あの時死んだ方が良かったのにと、どこかで囁く声を聞いたような気がした。

 k山君、心配かけました。今朝も早くに、雪に関する〝山奥情報″が入り起こされました。隠れ家付近は30センチほどの積雪があったようです。いつもなら、2月は冬季営業の最盛期です。こうなれば一人でも二人でも、できる限り受けるつもりでいます。まだ鹿肉もあるし、前回同様、法華道から来なはれ。

 廃屋の入り口に置き去りにされたままの柱時計、時を刻むのを止めたのはいつだったろう。

今週末の2月2,3だけは、予約を受けることができません。
冬の営業案内」をご覧ください(下線部を左クリックしてください)。予約は早めに頂ければさいわいです。







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