2023年3月のタスマニア7日目
対立か統合かにかかわらず、
南北の往来が増えるにつけ中
継地ロスの重要性は高まり、
1824‐54年の30年間は英陸軍
の駐屯地として、軍隊の村に
(※1929年に建設された兵舎
流刑囚導入以前の労働力がほ
とんどなかった時代の建物。
兵士自ら建てたのだろうか)
いくつもの軍の建物が歴史的
建造物として残っています。
1833年に本国からタスマニ
アへの流刑囚移送が始まるや
囚人たちはロスにも送り込ま
れ、マッコーリー川の石橋建
設に従事させられました。橋
は1836年完成。サンドスト
ーン製のロス橋は国内で3番目
に古い現役の橋だそうです。
橋には186ヵ所の彫刻があり
これらは囚人の中の石工たち
により掘られたものでした。
この功績により石工たちは恩
赦を受けたという質の高さ。
橋の上の壁の内側には左右に
ホバートまで69マイル(111km)
ローンセストンまで48マイル
(78km)と彫られています。
一見古の道標ですが、この橋
こそが南緯42度の存在を確定
する場となり、見えない42度
を「見える化」したことで南
北の心理的対立を恒久化した
境界線だと言われています。
1812年に南北2州は統合され
全島が1州になったにもかか
わらず、その24年後に見える
境界線ができたことで、人々
は石を積み、生垣を植えて橋
からの境界線をずっと先にま
で伸ばしていったそうです。
(※橋周辺の石の塀)
かなり古い石。橋と同時代の
ものではないかと思います。
1830年代までの南北の対立
は、ホバートが植民地政府の
議席を持ち中央とのパイプを
築くことで、土地や労働力と
しての流刑囚の分配により発
言権を持っていた点でした。
しかし、1834年にローンセス
トンの民間人ヘンティー一家
が現在のビクトリア州に移り
住むや、状況が一変します。
対岸の開発が急速に進むこと
で北部は恩恵を受け、1850
年代にはビクトリアでゴール
ドラッシュが巻き起こり、そ
の後タスマニア北部でも鉱山
ブームが起きたことで、ロー
ンセストンはホバートをしの
ぐ経済成長を実現しました。
ローンセストン万博(1891~
92年)がホバート万博(1894
~95年)に先駆けたことに、
『北』の意地を見るようです。
万博当時の『北』は鉱山ブー
ムの終焉で景気停滞に見舞わ
れ、万博での景気梃入れに一
縷の望みを託していました。
(※会場のアルバートホール)
時代は下り第2次大戦後の19
59年に双方の代表が『南北対
話』に臨みましたが、対話は
「対立はなく違いがあるのみ」
と締めくくられ関係は平行線
展示には「ライバル意識は消
滅しても今も緊張は続く」と
あり、これが『北』の本音か
ちなみにロスは『北』です