2023年3月のタスマニア7日目
1804年に政治的な理由で爆誕
したタスマニアの2州。北の
コーンウォール州と南のバッ
キンガムシャー州は当初より
南緯42度を境界線に双方とも
没交渉に存在していました。
しかし、1807年に北部で食料
不足が起きると南部へのアク
セスの重要性が浮上します。
今なら対岸のビクトリア州か
ら支援を受ければいいという
話なのですが当時は島内頼り
対岸は1803年にコリンズが
流刑植民地建設を放棄し、ホ
バートに移って行ったばかり
(※コリンズ海軍中佐1804年)
当時は近くて遠かった本土
(※出所:ウィキペディア)
対岸にローンセストンからの
最初の入植者が定住するまで
さらに25年が費やされます。
食料不足の同年、植民地政策
の大本営ニューサウスウェー
ルズの初代測量監督チャール
ズ・グライムズは、島の縦断
ルート開発と南緯42度地点確
定を目的に、ホバートからロ
ーンセストンに出発します。
一行は12日間でローンセスト
ンに到着。行程は肥沃な平原
や谷を行く容易なもので、測
量や地図を制作しつつ北上。
(※今も大半が平原のままです)
これが今のミッドランドハイ
ウェイの雛形になりました。
(※出所:ウィキペディア)
今では一帯がミッドランズと
呼ばれ行けども行けども平野
(※ミッドランドハイウェイ)
グライムズらは今のロスにも
到達し、南緯42度近くで現在
のマッコーリー川を渡りまし
た。これが後年、ここを境界
線にすることの布石だったの
かは定かになっていません。
(※マッコーリー川)
3年後の1810年、当時の測量
監督ジョン・オクスリーは、
「2州を維持することは負担
が大きく必要性もない」とし
「(北の)パターソンの帰任と
(南の)コリンズの急逝は2州
を統合するまたとない機会」
と報告し、これを受け2年後
には全島を統括するトーマス
・デイビー副総督がイギリス
から送り込まれてきました。
これで南北対立は解消された
かに見えますが、あくまでも
政治面だけで、地域感情はむ
しろこれからライバル意識を
高めていくことになります。
植民地時代の最も著名な総督
とされる第5代総督ラクラン
・マッコーリー(任期1810‐21
年)は任期最後の年にこの地
を訪れロスと命名しました。
その間なんと呼ばれてた?
(※マッコーリー総督)
同年彼の名を冠したマッコー
リー川に掛かる木造橋が建設
され、後年橋は石橋に掛け替
えられ、心理的な南緯42度を
恒久化することになります。
うぇ~ん😭またまた書き終
えられず、さらに続きます。