「真摯さは修得できない。仕事についたときにもっていなければ、あとで身につけることはできない。真摯さはごまかしがきかない。一緒に働けば、特に、部下にはその者が真摯であるかどうかは数週間でわかる。」
ドラッカー
日本の雇用環境では働き始めてからわかっても遅い。
私の経験でも外側(学歴、経歴、業績)からは人間の本質をうかがい知ることが出来にくいし、言ってることはほとんど意味がないし、何の担保にもならない。ただやってきたことだけは変えられない客観性を持つ。やってきたことを自慢話のように言う人もいれば、箇条書きや分類項のようにしか言わない人もいる。だから利害関係のない第三者を通じてその人の真摯さを知るすべが必要となる。しかしほとんどの推薦人は利害関係者であるから、履歴書から2つ前のポジションを探して探ることが出来ればそれが一番望ましい。悪く言う人はほとんどいないが、印象に残ってない人、普通としか形容のしようのない評価は基本的に落第。
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「君主にとって使用人を選らぶことはかなり重要なことで、使用人の良し悪しは君主の眼識にかかっています。人が君主について、それに彼の知力について抱く最初の評価というものは、その側近を観察して得られるのです。側近が有能で信頼できるなら、君主は賢明だと思われるのが常です。なぜなら、その君主は有能かどうか見抜く方法と、彼らに忠誠を守らせる方法を知っているからなのです。しかし側近がそうではないときには、その君主について良い評価を下すことはできません。というのは、その君主の犯した第一の誤りは、そうした側近を選んだことにあるのでから。
シエナの君主パンドルフ・ペトルッチの使用人であるアントニオ・ダ・ヴェナフロ卿を知っている人はだれしも、ヴェナフロを使用人にしたことで、パンドルフを大層賢明な人物と思わざるをえませんでした。なぜなら、知性には三つの種類があり、一つは自力で理解するもの、もう一つは他人が理解したことの真価がわかるもの、そして第三は自力でも他人が示すことによっても理解しないものの三つですが、最初のものがもっとも優れており、第二のものはまあまあのもので、第三のものは無益です。だから、それから必然的に言えるのは、パンドルフは第一の等級ではないにせよ、第二の等級であるということです。というのは、言われたり為されたりしたとき、その良し悪しについての判断を求められると、彼は主導権をもつことはなかったとしても、その使用人の良い行いと悪い行いはよく分っており、良い行いは褒め、悪い行いは矯正したからです。こうして使用人たちは君主を欺くことを望むべくもなく、正直にふるまうのです。
しかし、君主がその使用人について評価を下すことができるためには、絶対失敗しない見分け方があるのです。使用人が君主の利害より自分の利害のことを考え、内心ではなにをさておき自分の利益を追い求めていることがわかれば、そうした人間は良き使用人には決してならないし、また信頼するわけにはいきません。なぜなら、別の人から国家の支配責任を任されている人は、自分のことなど決して考えず、ひたすら君主のことを考えるべきであり、君主が関わりをもたないことに注意を払ってはならないからです。」
マキャベッリ 「君主論」第22章 君主の秘書官について
ドラッカー
日本の雇用環境では働き始めてからわかっても遅い。
私の経験でも外側(学歴、経歴、業績)からは人間の本質をうかがい知ることが出来にくいし、言ってることはほとんど意味がないし、何の担保にもならない。ただやってきたことだけは変えられない客観性を持つ。やってきたことを自慢話のように言う人もいれば、箇条書きや分類項のようにしか言わない人もいる。だから利害関係のない第三者を通じてその人の真摯さを知るすべが必要となる。しかしほとんどの推薦人は利害関係者であるから、履歴書から2つ前のポジションを探して探ることが出来ればそれが一番望ましい。悪く言う人はほとんどいないが、印象に残ってない人、普通としか形容のしようのない評価は基本的に落第。
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「君主にとって使用人を選らぶことはかなり重要なことで、使用人の良し悪しは君主の眼識にかかっています。人が君主について、それに彼の知力について抱く最初の評価というものは、その側近を観察して得られるのです。側近が有能で信頼できるなら、君主は賢明だと思われるのが常です。なぜなら、その君主は有能かどうか見抜く方法と、彼らに忠誠を守らせる方法を知っているからなのです。しかし側近がそうではないときには、その君主について良い評価を下すことはできません。というのは、その君主の犯した第一の誤りは、そうした側近を選んだことにあるのでから。
シエナの君主パンドルフ・ペトルッチの使用人であるアントニオ・ダ・ヴェナフロ卿を知っている人はだれしも、ヴェナフロを使用人にしたことで、パンドルフを大層賢明な人物と思わざるをえませんでした。なぜなら、知性には三つの種類があり、一つは自力で理解するもの、もう一つは他人が理解したことの真価がわかるもの、そして第三は自力でも他人が示すことによっても理解しないものの三つですが、最初のものがもっとも優れており、第二のものはまあまあのもので、第三のものは無益です。だから、それから必然的に言えるのは、パンドルフは第一の等級ではないにせよ、第二の等級であるということです。というのは、言われたり為されたりしたとき、その良し悪しについての判断を求められると、彼は主導権をもつことはなかったとしても、その使用人の良い行いと悪い行いはよく分っており、良い行いは褒め、悪い行いは矯正したからです。こうして使用人たちは君主を欺くことを望むべくもなく、正直にふるまうのです。
しかし、君主がその使用人について評価を下すことができるためには、絶対失敗しない見分け方があるのです。使用人が君主の利害より自分の利害のことを考え、内心ではなにをさておき自分の利益を追い求めていることがわかれば、そうした人間は良き使用人には決してならないし、また信頼するわけにはいきません。なぜなら、別の人から国家の支配責任を任されている人は、自分のことなど決して考えず、ひたすら君主のことを考えるべきであり、君主が関わりをもたないことに注意を払ってはならないからです。」
マキャベッリ 「君主論」第22章 君主の秘書官について