前回の続きです。
巣鴨の三年目昭和23年は既決組と不起訴組がはっきりして、東條英機の死を覚悟した後ろ姿は現役の頃のイラツキもなく冷静であったらしい。昭和二十三年十二月二十三日東條英機らは処刑され、不起訴組は翌日のクリスマスイブに釈放となった。どこでこの見せしめ裁判の有罪と不起訴の線を引くかは推移があったように窺える。当初は満州のニキ、三スケを追求していた連合国側も、結局は開戦を決定した政府大本営連絡会議に参加していた大臣が対象であったらしく。岸信介も大臣だったから疑われ、東條英機も出席を要請したと話していたせいもあり終身刑か死刑になる可能性が高かった。宮中で開催されていたこの会議の場所が幸いし、門衛の記録に岸信介の名前がなく、同会議の連座とはならなかった。運良く広島にも行けず終戦前に死ぬことも無かった。逆に文官でも星野、賀屋、東郷は居合わせたために起訴された。
↓この時代のアイドル
グラビアアイドルの嚆矢
アグネス・ラム
矢次や自分の方が実質ワルだったのではないかと笑う。「政治家の運は悪運でないといけない。」とは矢次の談。
『矢次 国防国家が全体的な国策にはなっていなかったけれど、そういう方向へもっていこうと考えていたグループはありましたね。当時の企画院の秋永月三、毛里英於菟、迫水久常といった、いわゆる革新官僚たちです。彼らは岸さんが帰ってきたというので、歓呼して迎えた。その頃は支那事変がだんだん泥沼に深入りして、にっちもさっちもゆかなくなってきている。それにどう対処するかということで皆手探りしている時に岸さんが帰ってきた。それと十四年の秋には陸軍の武藤章が北支参謀副長から軍務局長になって帰国している。そこで岸さんを中心に何かやろうではないかというので、私もその一人だったけれど、秋永とか、陸軍省の軍事課長・岩畔豪雄、大蔵省の谷口恒二、農林省の重政誠之、鉄道省の柏原兵太郎といった連中が十数人集まって月曜会という革新官僚の会をつくった。ここで月曜日に政策論議がたたかわされ、翌火曜日が閣議の日なのです。ですから月曜会の議論が、あるものはストレートに閣議の席で出て、だいぶ問題を起したことがある。
そしてこの連中が結集したようなかたちで活発に動いたのが、阿部内閣に対するものだったと思う。特にこの内閣が、行政改革をスローガンとしたことで、これを実現させようという意気込みだった。しかし間もなく阿部では何もできないということになって、早期退陣を求める方向に動いたのです。そうすると、革新官僚はアカじゃないか、岸はアカじゃないかという批判が財界などから出始めた。そういう騒然とした時代があったということは、岸さんを語る場合はずせない。企画院事件(昭和十三年から十六年にかけて左翼運動という理由で企画院の革新官僚が検挙された事件)が起こったのもそういう社会的背景をみる必要がある。この事件では和田博雄(当時農政課長)や勝間田清一(同企画院事務官)らの諸君が捕まえられたけれど、狙いは岸さんを捕らえることにあったと思う。(p.38~39)』『矢次 企画院事件は狙いは新経済体制で、元兇は岸だというので、岸さんを引っ張ろうとする計画がたしかにあった。美濃部、迫水といった諸君が何かの口実で警視庁に呼ばれ、当時私は両君から話を聞いたけれども、私自身も狙われて、いつ引っ張られるかというところまでしばしばいった。もともとこれは陸軍の内紛とも関連するんです。武藤軍務局長対田中隆吉兵務局長、そして平沼内相のもとにいる橋本清吉警保局長対内閣にいる富田健治書記官長の大きな暗闘が昭和十五年に渦巻いた。そして橋本・村田五郎保安課長のコンビで企画院事件が起る。経済新体制派官僚に対する弾圧が計画される一方では田中が武藤排斥をやる。橋本は富田排斥をやる。当時伝えられた話では、橋本が書記官長を狙い、田中が軍務局長を狙っているということだった。岸グループを一網打尽にするという計画と、私は富田・武藤と親しいというので、私を引っ張れば何か出るだろうということだった。だから、昭和十五年は毎日不愉快だったね。(p.46)』
和田 博雄(わだ ひろお、1903年2月17日 - 1967年3月4日)は、日本の政治家。第1次吉田内閣で農林大臣、片山内閣で国務大臣経済安定本部総務長官、その後、日本社会党書記長、日本社会党副委員長を歴任する。和田が一時籍を置いた企画院は、戦争遂行のために経済統制をすすめる役所であり、かつて社会主義運動に参加した者が多い所だった。和田は経済統制の必要を感じていたが、彼自身は社会主義運動に参加したことはなかった。しかし、企画院の調査官たちは、経済統制を通じて日本の社会主義化を図ったとして1941年警察に検挙され、和田はその首謀者とされた(企画院事件)。この事件は、検察のでっち上げであるとして、敗戦直後の1945年9月に無罪判決がおりている。
勝間田 清一(かつまた せいいち、1908年2月11日 - 1989年12月14日)は、日本の政治家。宇都宮高等農林学校時代に、マルクス主義に触れ、社会主義的思想を持ったという。日本社会党委員長、政審会長、国対委員長、衆議院副議長を歴任した。正三位勲一等旭日大綬章。1947年総選挙に社会党から立候補して初当選し、片山哲内閣では経済安定本部総務長官に任命された和田博雄の秘書官をつとめた。和田が社会党に入党すると、和田派に属し、社会党分裂時も和田とともに左派社会党に属した。
矢次一夫や賀屋興宣、井野 碩哉の方がよほど岸信介の謀議者的盟友だが、連合国はどうもその戦端を開く共同謀議を立証するにしても、当時の日本には首都ワシントンを占領する計画が無かったことで、通常の世界征服と考えられるようなアメリカ側が考えていたような共同謀議が立証できなかった。当たり前なんだけど米国民は宣伝を信じ切っていた。
つまり調べるほどに、統一プランも戦争目的も存在しない反射的防衛に陸軍海軍縦割りバラバラに、しかも関東軍が相対的に独立的に行動し、汲々とした防衛戦争を現地利害を吸収しながらそれぞれ勝手に選択したことが明らかになる。ただし戦争を総力戦で戦う統制経済化の謀議は、矢次が述懐するように革新官僚らを中心として昭和十三年くらいから企画院事件にかけてかなり長期にあったはずで、そこを立証する方針であれば岸の運命もわからなかった。
岸は当時の官房長官、弟の佐藤栄作が用意したマグロよりも巣鴨の中でたまに出た数切れの方が美味かったらしい。目黒のサンマならぬ巣鴨のマグロなんてこれはネタかな。食事の事情はよかったようで、賀屋興宣は規則正しい生活で喘息が治ったそうだ。巣鴨の生活は医者いらずだ。二人とも結果的に長生きだった。賀屋興宣は1977年4月28日まで生きた。奇しくも日本の独立記念日だ。
弐キ、参スケ
東條英機(とうじょう ひでキ、在満期間:1935年 - 1938年、離満前役職:関東軍参謀長)
星野直樹(ほしの なおキ、在満期間:1932年 - 1940年、離満前役職:国務院総務長官)
鮎川義介(あいかわ よしスケ、在満期間:1937年 - 1942年、満業(満州重工業開発株式会社)社長)
岸信介(きし のぶスケ、在満期間:1936年 - 1939年、離満前役職:総務庁次長)
松岡洋右(まつおか ようスケ、在満期間:1921年 - 1930年、1935年 - 1939年、離満前役職:満鉄総裁)
賀屋 興宣(かや おきのり、1889年(明治22年)1月30日 - 1977年(昭和52年)4月28日)は、日本の大蔵官僚、政治家。A級戦犯として終身刑が、1955年(昭和30年)9月17日に鈴木貞一、橋本欣五郎らと共に仮釈放。1958年(昭和33年)4月7日付けで、同日までにそれぞれ服役した期間を刑期とする刑に減刑された。同年第28回衆議院議員総選挙に旧東京3区から立候補し当選(以後5回連続当選)。彼もまた右派フィクサーとなった。
井野 碩哉(いの ひろや、1891年(明治24年)12月12日 - 1980年(昭和55年)5月19日)は、日本の政治家、官僚。農林大臣(第20代)、拓務大臣、弾劾裁判所裁判長(第30代)、衆議院議員(1期)。戦後の公職追放解除後、参議院議員(3期)、法務大臣などを務めた。兄は満州国最高法院長の井野英一。
三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(1885年)8月29日 - 昭和31年(1956年)2月14日)は、日本の実業家、政治家。元衆議院議員、参議院議員。元国務大臣北海道開発庁長官。鳥取県米子市名誉市民。三好家第10代当主。鳥取県平民。
大正13年(1924年)衆議院議員に初当選し、戦前に6回の当選を重ねた。地元振興の貢献としては、山陰鉄道開通記念の博覧会に尽力したのをはじめ、山陰実業銀行を設立、戦後はラジオ山陰(現山陰放送)の開局に携わるなど調整能力、行動力は抜群であった。家系は清和源氏、小笠原氏の支流・三好氏。
1951年に三好英之ら戦中からの岸信介の謀議盟友らが「新日本政治経済研究会」を結成し、これは翌年、文化団体「日本再建連盟」に改組される。個々の政治家評の抜粋は他のブログのほうが読みやすいので、そちらを参照してください。
パケナムもハリー・カーンも出てくるが、その役割は幕の向こう側の謀議にある。実際一年に二、三回は日本にやってきて、必ず岸事務所をおとずれていた。
彼のネットワークで除外されているのは松村謙三だけだろう。
昭和三十四年の矢次がインタビューした外遊後のチャーチルとの対話の思い出話しにも出てくるが、日英同盟は米国の反対があってやめることにした。これは私も歴史の前後から予想した通りだが、こう言うチャーチル本人の証言ははじめて見る。矢次もチャーチル回顧録に残すべきと言ってるが、そうはなっていない。
巣鴨の三年目昭和23年は既決組と不起訴組がはっきりして、東條英機の死を覚悟した後ろ姿は現役の頃のイラツキもなく冷静であったらしい。昭和二十三年十二月二十三日東條英機らは処刑され、不起訴組は翌日のクリスマスイブに釈放となった。どこでこの見せしめ裁判の有罪と不起訴の線を引くかは推移があったように窺える。当初は満州のニキ、三スケを追求していた連合国側も、結局は開戦を決定した政府大本営連絡会議に参加していた大臣が対象であったらしく。岸信介も大臣だったから疑われ、東條英機も出席を要請したと話していたせいもあり終身刑か死刑になる可能性が高かった。宮中で開催されていたこの会議の場所が幸いし、門衛の記録に岸信介の名前がなく、同会議の連座とはならなかった。運良く広島にも行けず終戦前に死ぬことも無かった。逆に文官でも星野、賀屋、東郷は居合わせたために起訴された。
↓この時代のアイドル
グラビアアイドルの嚆矢
アグネス・ラム
矢次や自分の方が実質ワルだったのではないかと笑う。「政治家の運は悪運でないといけない。」とは矢次の談。
『矢次 国防国家が全体的な国策にはなっていなかったけれど、そういう方向へもっていこうと考えていたグループはありましたね。当時の企画院の秋永月三、毛里英於菟、迫水久常といった、いわゆる革新官僚たちです。彼らは岸さんが帰ってきたというので、歓呼して迎えた。その頃は支那事変がだんだん泥沼に深入りして、にっちもさっちもゆかなくなってきている。それにどう対処するかということで皆手探りしている時に岸さんが帰ってきた。それと十四年の秋には陸軍の武藤章が北支参謀副長から軍務局長になって帰国している。そこで岸さんを中心に何かやろうではないかというので、私もその一人だったけれど、秋永とか、陸軍省の軍事課長・岩畔豪雄、大蔵省の谷口恒二、農林省の重政誠之、鉄道省の柏原兵太郎といった連中が十数人集まって月曜会という革新官僚の会をつくった。ここで月曜日に政策論議がたたかわされ、翌火曜日が閣議の日なのです。ですから月曜会の議論が、あるものはストレートに閣議の席で出て、だいぶ問題を起したことがある。
そしてこの連中が結集したようなかたちで活発に動いたのが、阿部内閣に対するものだったと思う。特にこの内閣が、行政改革をスローガンとしたことで、これを実現させようという意気込みだった。しかし間もなく阿部では何もできないということになって、早期退陣を求める方向に動いたのです。そうすると、革新官僚はアカじゃないか、岸はアカじゃないかという批判が財界などから出始めた。そういう騒然とした時代があったということは、岸さんを語る場合はずせない。企画院事件(昭和十三年から十六年にかけて左翼運動という理由で企画院の革新官僚が検挙された事件)が起こったのもそういう社会的背景をみる必要がある。この事件では和田博雄(当時農政課長)や勝間田清一(同企画院事務官)らの諸君が捕まえられたけれど、狙いは岸さんを捕らえることにあったと思う。(p.38~39)』『矢次 企画院事件は狙いは新経済体制で、元兇は岸だというので、岸さんを引っ張ろうとする計画がたしかにあった。美濃部、迫水といった諸君が何かの口実で警視庁に呼ばれ、当時私は両君から話を聞いたけれども、私自身も狙われて、いつ引っ張られるかというところまでしばしばいった。もともとこれは陸軍の内紛とも関連するんです。武藤軍務局長対田中隆吉兵務局長、そして平沼内相のもとにいる橋本清吉警保局長対内閣にいる富田健治書記官長の大きな暗闘が昭和十五年に渦巻いた。そして橋本・村田五郎保安課長のコンビで企画院事件が起る。経済新体制派官僚に対する弾圧が計画される一方では田中が武藤排斥をやる。橋本は富田排斥をやる。当時伝えられた話では、橋本が書記官長を狙い、田中が軍務局長を狙っているということだった。岸グループを一網打尽にするという計画と、私は富田・武藤と親しいというので、私を引っ張れば何か出るだろうということだった。だから、昭和十五年は毎日不愉快だったね。(p.46)』
和田 博雄(わだ ひろお、1903年2月17日 - 1967年3月4日)は、日本の政治家。第1次吉田内閣で農林大臣、片山内閣で国務大臣経済安定本部総務長官、その後、日本社会党書記長、日本社会党副委員長を歴任する。和田が一時籍を置いた企画院は、戦争遂行のために経済統制をすすめる役所であり、かつて社会主義運動に参加した者が多い所だった。和田は経済統制の必要を感じていたが、彼自身は社会主義運動に参加したことはなかった。しかし、企画院の調査官たちは、経済統制を通じて日本の社会主義化を図ったとして1941年警察に検挙され、和田はその首謀者とされた(企画院事件)。この事件は、検察のでっち上げであるとして、敗戦直後の1945年9月に無罪判決がおりている。
勝間田 清一(かつまた せいいち、1908年2月11日 - 1989年12月14日)は、日本の政治家。宇都宮高等農林学校時代に、マルクス主義に触れ、社会主義的思想を持ったという。日本社会党委員長、政審会長、国対委員長、衆議院副議長を歴任した。正三位勲一等旭日大綬章。1947年総選挙に社会党から立候補して初当選し、片山哲内閣では経済安定本部総務長官に任命された和田博雄の秘書官をつとめた。和田が社会党に入党すると、和田派に属し、社会党分裂時も和田とともに左派社会党に属した。
矢次一夫や賀屋興宣、井野 碩哉の方がよほど岸信介の謀議者的盟友だが、連合国はどうもその戦端を開く共同謀議を立証するにしても、当時の日本には首都ワシントンを占領する計画が無かったことで、通常の世界征服と考えられるようなアメリカ側が考えていたような共同謀議が立証できなかった。当たり前なんだけど米国民は宣伝を信じ切っていた。
賀屋興宣(1958年4月刑期終了)曰く、
裁判では日本の共同謀議について戦勝国から問われたが、これについて賀屋は「軍部は突っ走るといい、政治家は困るといい、北(北進論)だ、南(南進論)だ、と国内はガタガタで、おかげでろくに計画も出来ずに戦争になってしまった。それを共同謀議などとは、お恥ずかしいくらいのものだ」と語っている。
つまり調べるほどに、統一プランも戦争目的も存在しない反射的防衛に陸軍海軍縦割りバラバラに、しかも関東軍が相対的に独立的に行動し、汲々とした防衛戦争を現地利害を吸収しながらそれぞれ勝手に選択したことが明らかになる。ただし戦争を総力戦で戦う統制経済化の謀議は、矢次が述懐するように革新官僚らを中心として昭和十三年くらいから企画院事件にかけてかなり長期にあったはずで、そこを立証する方針であれば岸の運命もわからなかった。
岸は当時の官房長官、弟の佐藤栄作が用意したマグロよりも巣鴨の中でたまに出た数切れの方が美味かったらしい。目黒のサンマならぬ巣鴨のマグロなんてこれはネタかな。食事の事情はよかったようで、賀屋興宣は規則正しい生活で喘息が治ったそうだ。巣鴨の生活は医者いらずだ。二人とも結果的に長生きだった。賀屋興宣は1977年4月28日まで生きた。奇しくも日本の独立記念日だ。
弐キ、参スケ
東條英機(とうじょう ひでキ、在満期間:1935年 - 1938年、離満前役職:関東軍参謀長)
星野直樹(ほしの なおキ、在満期間:1932年 - 1940年、離満前役職:国務院総務長官)
鮎川義介(あいかわ よしスケ、在満期間:1937年 - 1942年、満業(満州重工業開発株式会社)社長)
岸信介(きし のぶスケ、在満期間:1936年 - 1939年、離満前役職:総務庁次長)
松岡洋右(まつおか ようスケ、在満期間:1921年 - 1930年、1935年 - 1939年、離満前役職:満鉄総裁)
賀屋 興宣(かや おきのり、1889年(明治22年)1月30日 - 1977年(昭和52年)4月28日)は、日本の大蔵官僚、政治家。A級戦犯として終身刑が、1955年(昭和30年)9月17日に鈴木貞一、橋本欣五郎らと共に仮釈放。1958年(昭和33年)4月7日付けで、同日までにそれぞれ服役した期間を刑期とする刑に減刑された。同年第28回衆議院議員総選挙に旧東京3区から立候補し当選(以後5回連続当選)。彼もまた右派フィクサーとなった。
井野 碩哉(いの ひろや、1891年(明治24年)12月12日 - 1980年(昭和55年)5月19日)は、日本の政治家、官僚。農林大臣(第20代)、拓務大臣、弾劾裁判所裁判長(第30代)、衆議院議員(1期)。戦後の公職追放解除後、参議院議員(3期)、法務大臣などを務めた。兄は満州国最高法院長の井野英一。
三好 英之(みよし ひでゆき、旧名栄次郎、明治18年(1885年)8月29日 - 昭和31年(1956年)2月14日)は、日本の実業家、政治家。元衆議院議員、参議院議員。元国務大臣北海道開発庁長官。鳥取県米子市名誉市民。三好家第10代当主。鳥取県平民。
大正13年(1924年)衆議院議員に初当選し、戦前に6回の当選を重ねた。地元振興の貢献としては、山陰鉄道開通記念の博覧会に尽力したのをはじめ、山陰実業銀行を設立、戦後はラジオ山陰(現山陰放送)の開局に携わるなど調整能力、行動力は抜群であった。家系は清和源氏、小笠原氏の支流・三好氏。
1951年に三好英之ら戦中からの岸信介の謀議盟友らが「新日本政治経済研究会」を結成し、これは翌年、文化団体「日本再建連盟」に改組される。個々の政治家評の抜粋は他のブログのほうが読みやすいので、そちらを参照してください。
パケナムもハリー・カーンも出てくるが、その役割は幕の向こう側の謀議にある。実際一年に二、三回は日本にやってきて、必ず岸事務所をおとずれていた。
彼のネットワークで除外されているのは松村謙三だけだろう。
昭和三十四年の矢次がインタビューした外遊後のチャーチルとの対話の思い出話しにも出てくるが、日英同盟は米国の反対があってやめることにした。これは私も歴史の前後から予想した通りだが、こう言うチャーチル本人の証言ははじめて見る。矢次もチャーチル回顧録に残すべきと言ってるが、そうはなっていない。