決してトップに立たなかったことから政治根回しの陰謀家だったかのように言われる川島正次郎プロレスリングのコミッショナーとして記憶されている人物だが、海老沢勝二氏は次のように記者時代を回顧して、この政治家の達人ぶりを褒めている。かの田中角栄に総理の道を開いたのは川島正次郎にほかならない。その道を閉じたのは村上吉男の5億円受領推測記事。そればかりでなく、インフラ投資、オリンピック投資を通じて池田内閣の所得倍増を経済から整えたのも川島正次郎だ。
「2006年12月 : 政局の流れをつくる達人」日本記者クラブ
一部引用
『これも私の第一線の記者時代のこと。昭和47年の「角福戦争」とともに脳裏にやきついている政権抗争は、昭和44年の暮れの総選挙で自民党が300議席を上回る大勝をした後の、昭和45年の佐藤4選問題である。自民党内では「人心一新のため引退すべきだ」「沖縄返還を成し遂げた後でよい」などの意見が出ていた。こうした中で注目すべきことは、佐藤3選の際は慎重に対処した川島副総裁が、今回は早い段階から先頭に立って、佐藤4選ムードづくりに乗り出したことだ。
まず表面上、副総裁が接触したのは、原則的に佐藤4選反対を表明していた、中間派の石井光次郎元衆議院議長であった。真夏の8月17日、札幌市にかつて北海道開発庁長官をつとめた元閣僚が集まった機会をとらえて、それも同行記者団の前で公開の形で川島・石井会談を開いた。
●達人の最後の大仕事
この時の模様を石井元議長が「川島正次郎追想録」の中で詳しく書いている。その一部を引用すると、まず石井氏が佐藤4選反対論を述べた後、「川島君は『石井君の言うような人心一新の必要はなく、後継者たちはまだ十分に育っておるように思えぬ』と、4選支持の意向をはじめて発表した。
つけ加えて『石井君と僕は全然違ったことを言っておるようだが、お互いに古い政治家だからよく分かっており、結局同じようなことを言っておるんだよ』と私をかえり見て笑っていたことを思い出す」と、石井氏は記している。
この川島・石井会談は人間の機微を知りつくした川島副総裁が十分計算した上で、マスコミ向けに仕掛けた一種の政治的演出であり、政治ショーであった。これが佐藤4選への大きな潮流をつくるきっかけになった。
このように川島副総裁が機先を制して早め、早めに布石を打ったのは、「政局の安定のため」という大義名分と政略的には政権交代の時期を遅らせることによって、一歩先んじていた福田赳夫氏の動きを鈍らせるとともに、この間に盟友の田中角栄氏の力を蓄えさせて、田中政権への道筋をつくっておこうという計算と思惑があったと思う。』
川島正二郎がポスト佐藤、田中角栄の流れをつくり、六月十一日「日本列島改造論」を出版、佐藤栄作内閣が退陣六月十七日退陣表明した年、九月二十九日田中訪中、十一月十三日衆議院が解散され、1972年12月10日。YKKと言われることになる山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎が初揃い踏みする。
トモダチ涙の猿芝居の小泉純一郎とは大幅に違う政局の魔術師川島正次郎であった。決してインサイダー情報で政敵を脅すようなフーシェではなかった。
餞の辞
「諸君への餞の言葉を送りたい『泥にまみれた著名人になるよりも、善良で愛と親切に徹した社会人として立派な社会づくりに参加してほしい』私は今年すでに80歳、おそらく再び会う機会はないでありましょう。
青雲は若者が見つめるものです。
小泉純一郎を推薦し、泥にまみれた著名人は次の通り「山崎拓、亀井善之、甘利明、渡海紀三朗、平沢勝栄、田中和徳、山内俊夫、塩川正十郎、三塚博、中村正三郎、伊藤公介、清水嘉与子、中島啓雄、加藤紘一、谷垣禎一、中谷元、岸宏一、岩崎純三、釜本邦茂」このなかの政治の世界(中および外)でいったい誰が生き残っているだろうか15年たってみてよくわかることだろう。存在感を残すのは谷垣禎一くらいか?それも自転車の陰に隠れている程度だ。
追補2017
谷垣禎一も自転車事故で政治に還らぬ人となった。私は預言者ではない。ただ道理を説いてる。
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