公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

『エクリチュールの零ーゼロー度』 ロラン・バルト 森本和夫 林 好雄 訳注

2016-05-03 19:26:33 | 今読んでる本
林好雄の注によれば、エクリチュールとは書く行為を意味する。バルドは『エクリチュールの零度』では言語体と文体の間に存在する文学の形式現実として導入した概念としてエクリチュールを用いる。これにより文学ジャンルに関係ない文学分析ができるという。状況の中に置かれた人間の自己拘束(アンガージュマン)をエクリチュールとの区別と同一という相互作用が著者の作業空間となる。エクリチュール零度とは非叙法的という極性のない表現、直接法の表現という自由を意味する。文学とはなんだろう。過去現在という極性、主従という極性、善悪という極性を何らかの形で持ち込んだ文学は作者の欺瞞である。文学は欺瞞なしには成立しない。作者が自己拘束に誠実になることが自由を保証しているのだから、この大いなる欺瞞は誠実であるとも言える。文学の誠実は欺瞞である。
したがってエクリチュールの極性を零に持ってゆくということはあらゆる欺瞞を包括するか文学が誠実に寄りすぎて作家として何もしないかということに違いない。これに成功した文学はない。

それが直接法にならざるえないというバルトの見解は、私がかねてから述べている思考結論に至る脳裏の個人性とおなじである。つまり思考とは文学であり、文学とは思考である。思考は文学と同様に脳裏の欺瞞であり、個人性の中で結論が見えている時の作話であるか、誰かが何処かで言ったことの繰り返しである。相当に複雑な思考でも、反射的セット、九九と変わりのない反射反応にすぎない。脳裏の個人性は欺瞞でありうるし、逆説的にそれが誠実という場合も有り得る。バルドが解明したのは思考の欺瞞、それは自動的に文学の欺瞞であるとともに文学がある定立を含むという読者に対する新たな次元における欺瞞の始まりでもある。言葉の呪いを解かなければ真に永遠の思考、永遠の文学を得ることはできない

昨日黒田清輝150年展を見たが、本当は伊藤若冲300年展を見たかったのだ。
混みすぎていて仕方なく東博の方に入ったわけだが、この対照的な画家の左脳理性は著しく機能が異なっていた。これは文学の世界で語られるエクリチュールと同様に型の世界に向けて、あるいは逆行して極性を生成するそのやり方、画家の作業空間に先人の呪いを持ち込みつつ描くか否かの脳裏は、描くと書くとの差こそあれ、文学作家の作業空間の違いに似ている。

あくまで絵が型に嵌ることを目指した黒田清輝と違い、千載具眼の徒を待つ覚悟が若冲にあった。

その理由は世界の捉え方の永遠性の違いにある。黒田の望みは養父を失望させないくらい偉い画壇の長という型になることであった。伊藤若冲は初めから型にリアリティを求めていなかった。若冲は美の認識に至る脳裏を描いている。

世界を永遠の価値の上、より広い知的作業空間の上に捉える方法は言葉の世界同様、絵の世界もまた先人の呪いから解放されていなければかなわないこと。このことに気づいた。

つまり非思考こそが永遠の思考なのだ。あなたが気づいていなくとも、人間は自然が創りだした便宜の一つ永遠の思考の一部。その意味で人間は山や川、石や花、太陽や星と変わりがない。これが芸術家の脳内作業空間。

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非思考こそが思考である。
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