現代のプラトン対話篇としてハイゼンベルクが書きたかったこと。シューレディンガーとボーアの論争、物質を根本から知るためにどうしても当時避けて通ることのできない議論が全体像の中で解決してるとも思えない。ただ部分だけが理解され都合よく応用されている。できる限り根底から理解するために導きの糸とした数学的対称性は役に立ったが、万能ではなかった。
とともに哲学的立場との和解も根底的理解では答えを与えていない。直感的世界と大幅に違う世界がどうして、どのようにして隠れているのか、たとえ量子力学で後者が分かったとしても前者は理解を超えている。結局生きていることという観測量を持ったままに根底を理解しようとしても今の生をピンで留めることも他の変数と入れ替えることもできない。
最終的にハイゼンベルクの関心は生物と魂に関係していたことに気づく。明日の生死もわからない1919年の混乱した青春が目指したものは、自分の頭で考えるということだ。
1927年にハイゼンベルクが提唱した不確定性原理の式はεqηp ≧ h/4π(hはプランク定数,円周率π) εqは測定する物体の位置の誤差 ηpは位置を測定したことによって物体の運動量に生じる撹乱。位置と運動量をともに厳密に決める測定はできないというのが物理の王様だった。
現代物理学の基本中の基本とも言えるこの式に小澤教授は1980年代から異を唱えてきました。2003年にはハイゼンベルクの式を修正する「小澤の不等式」εqηp + σqηp + σpεq ≧ h/4π
σq,σpはそれぞれ物体の位置と運動量が測定前にもともと持っていた量子揺らぎ。ポイントは、量子ゆらぎというのはもともと量子レベルの物質に備わっている性質で,測定とは関係なく決まるという厳密さ。
たった3年前に証明されて王様は引退した。
『はとても大きなことです 。技術がどこまで追いつくかですが 、誤差ゼロの測定ができるということです 。これまでは誤差ゼロの測定はできないと言われていました 。なにしろ 、位置の誤差をゼロにして精密測定をした途端 、動きの擾乱が無限大になって 、電子はどこかに飛んでいってしまうわけですから (笑 ) 。でも 、小澤の不等式では 、そんなことは起きない 。位置を超精密に測定しても 、動きの擾乱が無限大にならなくても済む 。これまではみんな 、完璧な測定はできないと思い込んでいたのに 、今や小沢さんのおかげで完璧な測定ができることがわかってしまった 。これは学問の進歩という意味で 、きわめて大きなことです 。小澤の不等式は 、ハイゼンベルクの式に補正項が付くだけとも見えるのですが 、概念的には非常に開きがあります 。これまでは 「原理的にできない 」と言われていたものが 「いや 、できる 」となったんです 。この話を知って思うのは 、理解度が高いというのはあまり良いことではないのかもしれないなということですね 。学校での理解度の高い人というのは 、どこの世界でもそうですが 、逆に肝心なところが見えないということなんですよね 。これはまさにコペルニクス的転換の例になります 。 2 0 1 2年に小澤の不等式を検証した実験の論文が発表され 、世界中の物理学者が驚きましたが 、 2 0 1 3年にも 、さらに小澤の不等式の正しさを検証する実験論文が発表されました 。それにしても 、当時ボ ーアはちゃんと指摘しているから 、あらためて彼はすごいんだなって思いますね 。 「ゆらぎは入ってないの ? 」と的確に指摘していた 。』
「まだ誰も解けていない科学の未解決問題 」竹内薫
一見、ホワイトノイズのように均一な変化のなかにも
確率密度の時間変化、空間変化、確率密度に差を見つける性質を生命は持っている。そういう性質があれば、生命と言って良い。と私は思う。台所のソーセージにジャンプしている犬の活動は意図である。意図の物理的根拠が究極的にどこによって担われていれば、ホワイトノイズからソーセージジャンプまでを埋める仕組みは、必然的に時間の問題となるのだろうか?ハイゼンベルクには、なんとなくそのように思うべきフロンティアに答えがあったのだろう。それはシューレディンガーよりも深い答えだったかもしれない。
シュレーディンガーは単に《無秩序から秩序が生まれる物理仕掛け》と《秩序が秩序を生む物理仕掛け》とを区別して見せたにすぎない。
経験的実体を超え出ていない分子生物学には究極設問というものがない。私にはそこが物理として物足りないと思ってしまう。
自然発生は説明できなくとも、確率密度差がゼロでないときにどちらかの環境を選ぶように操作されたマシンは生物になるだろうか?そのようなマシンを脳の中で加速的に作動させたなら、宿主のソーセージジャンプを追い出すだろうか?
『はとても大きなことです 。技術がどこまで追いつくかですが 、誤差ゼロの測定ができるということです 。これまでは誤差ゼロの測定はできないと言われていました 。なにしろ 、位置の誤差をゼロにして精密測定をした途端 、動きの擾乱が無限大になって 、電子はどこかに飛んでいってしまうわけですから (笑 ) 。でも 、小澤の不等式では 、そんなことは起きない 。位置を超精密に測定しても 、動きの擾乱が無限大にならなくても済む 。これまではみんな 、完璧な測定はできないと思い込んでいたのに 、今や小沢さんのおかげで完璧な測定ができることがわかってしまった 。これは学問の進歩という意味で 、きわめて大きなことです 。小澤の不等式は 、ハイゼンベルクの式に補正項が付くだけとも見えるのですが 、概念的には非常に開きがあります 。これまでは 「原理的にできない 」と言われていたものが 「いや 、できる 」となったんです 。この話を知って思うのは 、理解度が高いというのはあまり良いことではないのかもしれないなということですね 。学校での理解度の高い人というのは 、どこの世界でもそうですが 、逆に肝心なところが見えないということなんですよね 。これはまさにコペルニクス的転換の例になります 。 2 0 1 2年に小澤の不等式を検証した実験の論文が発表され 、世界中の物理学者が驚きましたが 、 2 0 1 3年にも 、さらに小澤の不等式の正しさを検証する実験論文が発表されました 。それにしても 、当時ボ ーアはちゃんと指摘しているから 、あらためて彼はすごいんだなって思いますね 。 「ゆらぎは入ってないの ? 」と的確に指摘していた 。』
「まだ誰も解けていない科学の未解決問題 」竹内薫
一見、ホワイトノイズのように均一な変化のなかにも
確率密度の時間変化、空間変化、確率密度に差を見つける性質を生命は持っている。そういう性質があれば、生命と言って良い。と私は思う。台所のソーセージにジャンプしている犬の活動は意図である。意図の物理的根拠が究極的にどこによって担われていれば、ホワイトノイズからソーセージジャンプまでを埋める仕組みは、必然的に時間の問題となるのだろうか?ハイゼンベルクには、なんとなくそのように思うべきフロンティアに答えがあったのだろう。それはシューレディンガーよりも深い答えだったかもしれない。
シュレーディンガーは単に《無秩序から秩序が生まれる物理仕掛け》と《秩序が秩序を生む物理仕掛け》とを区別して見せたにすぎない。
経験的実体を超え出ていない分子生物学には究極設問というものがない。私にはそこが物理として物足りないと思ってしまう。
自然発生は説明できなくとも、確率密度差がゼロでないときにどちらかの環境を選ぶように操作されたマシンは生物になるだろうか?そのようなマシンを脳の中で加速的に作動させたなら、宿主のソーセージジャンプを追い出すだろうか?