フッサールは超越と内在の関係を、「与えられていること」と「存在していること」との関係への考察により分解した。つまり自明から自明を分解して組み立て直した学問が現象学である。現象学のリアリティは学の中にしかない。
これに対して岡山は、
己(おのれ)の中の欠乏というものこそ、実は己(おのれ)自身を確信するというリアリティの源泉なのだと指摘する(2010)。
それに至り知るまでには私なりに長い長い道のりがあった。第一に己を見る視座が虚であるということ、第二に見る視座は無限に後退するということ、そして第三に真理の直覚というものには第一も第二も必要ないということ。これらが整理されて初めて、空虚な非所与、つまり欠乏を足場とすることができることに気づいた。そのきっかけは自問の構造の自覚にあった。
答えが先に見えた時の設問と疑問を記述する形式の欠乏、これを埋める思索(法則や論理学)が数学であり科学であり哲学である。その本質はより広大な知の宇宙に接続することで得られる自由である。この自由こそが真我である。
この自由こそが真我である。例えば全ての事象に番号をつけた絶対時刻を集めた世界全体の時刻の中から事象aと事象bという時刻を選んで、その比較を二項演算したとしよう。すぐに思いつくのは時刻の差つまり時間だが、時間は数として事象時刻番号同じ性質であっても、本質が異なるのでもとの時刻世界全体に含まれない。つまり人間の感じる時間とは比較という一種の二項演算をしたときにリアルの世界線を超えてしまう。人間はその抽象で認識の自由を得るが人間自身は無数の時刻からなる世界の外には一歩も出ていないことに気づく。
Muss es sein?
Es muss sein.
仮に時刻というリアリティは発展的な一方向上の一点aから離れて、無限に同時に事象があるものという答えが見えていても、そのリアリティを(概念的に把握して)記述する論理が見つからない。
見いだせないこと。
これが欠乏であり思考の原点となる。
創造的である限りどおしてもそこを通らなければならんのだ。
Muss es sein?
Es muss sein.
aとbの差が正の組み合わせのときaはより現在に存在すると恣意的ルールを持ち込む必要はない。恣意的ルールを削ることが真のリアリティ探索法である。aとbの差が僅少な正で事象aと事象bとの間が因果関係を結ぶだけ近ければ事象bが事象aの原因であると勝手に決めることもできない。
「リアリティというものは、あるようでいて、じつは自分が創りだした<ほら話>みたいな物だ。
自分の中の自分に対するリアリティは欠乏であり、それ故に創造し実現しなければならない。
やっとこの考え、<非所与としての自己の哲学>にたどり着いた時は、考え始めてから30年も経っていた。
不確実な前提と不確実な未来との間に、いかなるアプリオリな概念も、前提も挟み込むことなく、「自分とは何であり何であるべきか」という問いの無意味さを証明し、そのドーナッツの穴の如くある所与の無意味さ故、<非所与としての自己の哲学>、すなわち欠乏こそが出発点という哲学的地平線がやっと納得のゆく形で位置づけることができた。」
自分の中の自分に対するリアリティは欠乏であり、それ故に創造し実現しなければならない。
やっとこの考え、<非所与としての自己の哲学>にたどり着いた時は、考え始めてから30年も経っていた。
不確実な前提と不確実な未来との間に、いかなるアプリオリな概念も、前提も挟み込むことなく、「自分とは何であり何であるべきか」という問いの無意味さを証明し、そのドーナッツの穴の如くある所与の無意味さ故、<非所与としての自己の哲学>、すなわち欠乏こそが出発点という哲学的地平線がやっと納得のゆく形で位置づけることができた。」