公開メモ DXM 1977 ヒストリエ

切り取りダイジェストは再掲。新記事はたまに再開。裏表紙書きは過去記事の余白リサイクル。

市ヶ谷事件(再掲載)

2020-01-11 08:38:00 | 日本人
三島由紀夫のこの事件から2020年50年を迎える。以下は四年前の投稿の再掲載である。

市ヶ谷事件


三島事件(みしまじけん)とは、1970年(昭和45年)11月25日に、作家・三島由紀夫が、憲法改正のため自衛隊の決起(クーデター)を呼びかけた後に割腹自殺をした事件である。三島が隊長を務める「楯の会」のメンバーも事件に参加したことから、その団体の名前をとって楯の会事件(たてのかいじけん)とも呼ばれる
衝撃だった。しかし子供だから理解することはできなかった。5年前にもこう書いた。
『 40年前の今日まで、三島由紀夫は一つも読んだ事がなかった。
 今となっては私には、三島が復活を求めた「英雄的な死の無い時代」に対照的に、滑稽な孤立を承知で文化モニュメントを自らの肉体の死を以て、生け花のように芸術作品化したようにしか思えない。いまだに切腹の意味と理屈は誰にもわからないだろう。
 「英雄的」であったかどうかはわからないが、江戸時代には多くの人々が死に急いだ。例え三島がそういう時代の人間存在形式に憧れていたとしても、自分自身で実現することは何の魁(さきがけ)になったのだろう。
 ただ、45歳で死んだ彼はそこで凍結されたままである。文学はさておき、この事件で老いる事が無かった事が三島由紀夫を輝かせている。しかし輝きはその一点だけである。

 盾の会がなんであったのか、残った者たちの声を聞いてみたい。三島由紀夫の檄文

   今日にかけてかねて誓ひし我が胸の思ひを知るは野分のみかは 森田必勝

 予断を排して、三島由紀夫個人にとっては必然的にこうなったはずと解釈してみると、死を完成させる為には煌びやかな三島の言語はもはや力を持ち得なかった。肉体を捧げるために言語を超えなければならなかったのではないか。彼の語らざる部分の必然性はそう思うことで、後追いで埋めるしか無い。

 破を通じて、自由なる離に至る。芸術としてはわからなくもない。』2010年11月25日記載

しかし継承可能でないものは芸術ではない。老いることも風化することも乗り越えて、はじめて思想である。三島の行動は、所詮は瓶鉢中花(へいようのはな)、これは権力の花である。三島の歪みは美を極められると信じたことにある。美も善も真実も極めれば死に至ることを知るものが日本人の世間知恵ということを知らなかった不幸にある。晩年うちのプラチナウォーターのお客様だった辻井喬こと堤清二氏は三島由紀夫と交友を持ち、三島が自身の組織した「楯の会」の制服を制作するにあたっては、五十嵐九十九(ドコールの制服のデザイナー)を手配するなどの便宜をはかった。1970年(昭和45年)11月25日の三島事件直後に開かれた三島の追悼会には、ポケットマネーから資金を提供した。三島映画上映企画などでも会場を提供するなど、三島の死後も貢献し続けた。『三島由紀夫の総合研究』(三島由紀夫研究会メルマガ会報 2013年11月29日号)
士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば人の体に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ること得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つことを得ず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり 真木和泉



引用)
富貴名誉、自道徳来者、如山林中花、自是舒徐繁衍、
自功業来者、如盆檻中花、便有遷徙廃興、
若以権力得者、如瓶鉢中花、其根不植、其萎可立而待矣

富貴名誉の、道徳より来たるは、山林中の花のごとし、おのずから舒徐繁衍(じょじょはんえん)す、
功業より来たるは、盆檻(ぼんかん)中の花のごとし、すなわち遷徙廃興(せんしはいこう)あり、
もし権力をもって得るは、瓶鉢(へいよう)中の花のごとし、その根植えざれば、その萎むこと立ちて待つべし

      菜根譚

道徳人格によって得た名誉や富貴(地位)は野山の花 自ずからのびのびと育つ 舒徐繁衍(じょじょはんえん)
功績によって得た名誉や地位は鉢植えの花 主人の都合で植え替えたりすてられたり 遷徙廃興(せんしはいこう)
権力に取り行って得たものならば、いわば花瓶の花 みるみる枯れる 萎可立而待矣

 私の見方は菜根譚の編者洪自誠とはやや異なる。

 切花も生命の本質がその人格、事業に備わってあれば、花瓶の花にも根が生えて、都合で打ち捨てられてもそこに根を張り、周辺を潤して種種(くさぐさ)を繁茂させるならば、たとえ瓶鉢中花(へいようのはな)であったとしても、自ずから伸びてゆくことだろう。舒徐繁衍(じょじょはんえん)する根拠は、生命の利他性に素がある。

 人格の陶冶、事業の発展のチャンスは時間をかければ、いろいろな形でやってくる。

ことをはじめるにあたっては、利他性を外さなければ、その動機に道徳富貴はなくとも良い。命あるかぎり瓶鉢中花(へいようのはな)、盆檻中花(ぼんかんのはな)、山林中花(さんりんのはな)いずれにもなりうる。

これを花三態という。三島由紀夫は舒徐繁衍(じょじょはんえん)を考えることができなかった。舒徐繁衍(じょじょはんえん)は美しくはない。泥の中に長く埋もれ根となるとも蓮の花の様に舒徐繁衍(じょじょはんえん)を目指すべきだった。

 ただし知るべきは権力者は舒徐繁衍(じょじょはんえん)を恐れ都合で遷徙廃興(せんしはいこう)するということ。だから権力者にとって可愛いのは瓶鉢中花(へいようのはな)だけなのです。三島由紀夫における美は結局は権力者にとって可愛い美でしかなかったことがこの行動によって暴露され支持を失った。

 事業においては、弱いもの、小さいものは苦労しても責任の範囲で先行投資して利他的でなければならない。消費者に支えられ、支持されなければ長続きはしない。長く続く事業には品性がともない、経営者も自然と徳に目覚める。

 政治においても楯の会は利他的に振る舞えばもうすこし長続きしたかもしれない。継続するためには周りを潤さなければならない。当たり前のことである。小川の言葉が残っている。
「自衛隊が治安出動するまでの空白を埋めるのが、楯の会の目的だった。国がみずからの手で日本の文化と伝統を伝え、国を守るのを憲法で保障するのは当然である」
「三島先生の『右翼は理論でなく心情だ』という言葉はとてもうれしいものでした。自分は他の人から比べれば勉強も足りないし、活動経験も少ない。しかし、日本を思う気持だけは誰にも負けないつもりだ。三島先生は、如何なるときでも学生の先頭に立たれ、訓練を共にうけました。共に泥にまみれ、汗を流して雪の上をほふくし、その姿に感激せずにはおられませんでした。これは世間でいう三島の道楽でもなんでもない。また、文学者としての三島由紀夫でもない。(中略)楯の会の例会を通じ、先生は『左翼と右翼との違いは“天皇と死”しかないのだ』とよく説明されました。『左翼は積み重ね方式だが我々は違う。我々はぎりぎりの戦いをするしかない。後世は信じても未来は信じるな。未来のための行動は、文化の成熟を否定するし、伝統の高貴を否定する。自分自らを、歴史の精華を具現する最後の者とせよ。それが神風特攻隊の行動原理“あとに続く者ありと信ず”の思想だ。(中略)武士道とは死ぬことと見つけたりとは、朝起きたらその日が最後だと思うことだ。だから歴史の精華を具現するのは自分が最後だと思うことが、武士道なのだ』と教えてくださいました。(中略)私達が行動したからといって、自衛隊が蹶起するとは考えませんでしたし、世の中が急に変わることもあろうはずがありませんが、それでもやらねばならなかったのです」
— 小川正洋「裁判陳述」

武士道も葉隠も理解が中途半端で自己都合の理解だからこういうことになる。後に続く者が出ない。敵が不明で利他の具体性がないから後世という言葉が虚しい。況してや左翼と目指すものが変わらないとは三島由紀夫の運動はポピュリズムの変形であり、原理原則が不明だ。




安岡正篤は
「古今の士に率ね(おおむね)三品有り。上士は名を好まず。中士は名を好む。下士は名をも知らず。下士は名を好むことすら知らない。名などどうでもよい、ただ金さえあればよいというわけです。世の中にはこういう人間がなかなか多い。これを下士という。
 それが少し飯が食えるようになると、名誉・名声が欲しくなる。名刺に名誉職など肩書きを刷り込みたくなる。こういうのが中士。そんなこともばかばかしくなってくると初めて上士であるというのです。
 人間の今後の運命を決するものは、科学や技術ということではない。やはり人間の学問です。人間がいかにあるかということです。その人間の世の中を治めるのに何が一番大事であるか。 」
と述べている。私の花三態にやや近いことを言っている。人間の学は人間がよく生きて幸福になるための学問である。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 印象、日の出 | トップ | 市ヶ谷事件から50年になる... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。