陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

430.乃木希典陸軍大将(10)児玉少佐は「ばか、死なせてたまるか、うろたえ者」と叫んだ

2014年06月20日 | 乃木希典陸軍大将
 官軍は三月二十日田原坂に進撃し、四月一日吉次峠を占領した。乃木連隊長は木留総攻撃を決行したが、四月九日左の腕に貫通銃創を受け、再び野戦病院に収容された。

 とうとう乃木連隊長は軍旗を取り戻すことはできなかった。乃木連隊長は熊本鎮台司令長官・谷干城(たに・たてき/かんじょう)少将(土佐藩=高知・戊辰戦争・会津戦線で大軍監・土佐藩参政・陸軍大佐・陸軍裁判長・少将・熊本鎮台司令長官・中将・東部監軍部長・陸軍士官学校長・学習院長・農商務大臣・貴族院議員・勲一等旭日桐花大綬章・正二位・子爵)を通じて、参軍・山縣有朋中将に軍旗喪失の待罪書を差し出して、処罰を請うた。

 山県有朋中将は乃木少佐を愛すべき後輩として引き立ててきた。それだけに軍旗喪失をした乃木少佐に対して怒りも強かった。

 討伐総督・有栖川宮熾仁親王の本営で、山縣中将は乃木少佐に対して同情すべき点はあったが、軍紀を正すためやむを得ず、極刑を主張した。

 これに対して乃木連隊を指揮していた第一旅団長・野津鎮雄(のづ・しずお)少将(薩摩藩=鹿児島・薩英戦争・戊辰戦争・藩兵四番大隊長・御親兵・陸軍大佐・少将・陸軍省第四局長・熊本鎮台司令長官・東京鎮台司令長官・西南戦争に第一旅団司令長官として出征・中将・中部軍監部長・正三位・勲二等)は次のように意見を述べた(要旨)。

 「乃木の優先奮闘があったからこそ、薩軍の北上を阻止できた。官軍の九州上陸とその後の前進を支障なからしめたのも乃木の奮戦のためだ。軍旗喪失の罪は確かに重いが、激戦の最中、しかも夜中だったので事情やむを得ない。今日これを罰するよりも、その罪を許して、後日の彼の奮励を待つのが国家の為である」。

 山縣中将は、野津少将の意見を受け入れて、結局、乃木少佐は許されることになった。山縣中将は自分が厳しい極刑を主張したら、誰か他の者が反対に乃木少佐を擁護してくれることを見越していたとも言われている。

 罰せられるどころか、乃木少佐は戦功により、四月に中佐に昇進し、熊本鎮台参謀長に栄進し、司令長官・谷干城少将を補佐することになった。乃木の自殺的突撃を避けるために戦場から離脱させた人事だった。

 だが、罪を許されたことで、乃木中佐の苦悶はかえって深まった。乃木中佐は自分自身を許すことはできなかったので、死のうと考えた。

 できれば戦場で死にたかったが、それもできなくなった。軍旗を失ったことは、なにをもってしても償えない。乃木中佐は自分を激しく責め続け、遂に自刃してその罪を謝そうと決意した。

 谷干城司令長官は、乃木中佐が自決すると見て取った。そこで参謀・児玉源太郎少佐をそっと呼んで、乃木中佐を見張らせた。児玉少佐は自分の部屋を乃木中佐の隣に移して気を配っていた。

 ある晩のこと、乃木中佐の気配がおかしかったので、扉を細めに開けて覗くと、今まさに乃木中佐が軍刀を逆手にして腹を切ろうとしているところだった。児玉少佐は「待った!」と大声をあげて、飛び込んでいった。

 乃木中佐は「離せ。武士の情けだ、見逃してくれ」と、ふりほどこうとした。

 児玉少佐は「ばか、死なせてたまるか、うろたえ者」と叫んだ。うろたえ者という言葉は、武士にとってはなばなしい侮辱である。

 乃木中佐は「うろたえ者とはなにごとぞ」と言った。そこで児玉少佐は怒鳴りつけるようにして、次のように言った。

 「貴様、死んだからといって、それで責任が果たせると思うのか、卑怯だぞ。死ぬことくらい楽なことはない。なぜ貴様は一生かかって、その責任を果たそうとしないのだ。なぜ一生かかって死んだつもりでお詫びをしないのか。死んで早く楽になりたいのか」。

 これを聞いた乃木中佐の腕から力がスーと抜けた。そこで児玉少佐は乃木中佐の前に座り、諄々(じゅんじゅん)と説得にかかった。

 だが、翌朝になると、乃木中佐の姿が消えていた。谷司令長官は徹底的に乃木中佐を探すことを厳命した。三日後、熊本山王山の山頂で絶食して死を待っている乃木中佐が発見された。

 谷司令長官は憔悴した乃木中佐を呼びつけて、自決を思いとどまることを命令として誓わせた。そこまで言われた乃木中佐は命令に従った。だが、それは永遠にではなかった。

429.乃木希典陸軍大将(9)自分と一緒に戦死しようと思う者はついて来い。敵中に突入する

2014年06月13日 | 乃木希典陸軍大将
 乃木少佐は「よし、さらば。これが兄弟の一世の別れだ。永別の盃をしよう」と手を叩いて酒肴を命じた。老僕は乾鰯に酒を添えて持ってきた。

 それを見て、乃木少佐は「酒じゃいけん、水を持て」と命じた。兄弟永別の盃は氷よりも冷たい水であったが、その盃の底には燃えるような温かい愛情が籠もっていた。

 真人は「じゃこれでお別れします」と言い、立ち上がった。「しっかりやれ、立派に死ね」。これが一人の弟を送る乃木少佐の餞別(はなむけ)だった。

 「兄さんもしっかりおやりなさい。勝利は必ず官軍にあると極まっちゃいません」と言って、真人は悄々と出て行った。乃木少佐はその背姿を見えぬようになるまで見送った。

 そのあと、直ぐに乃木少佐は陸軍省へ電報を打った。前原一誠が急に反旗を翻す旨を報告したのだ。乃木少佐の心中は憐れであった。

 乃木少佐は真人が自分の説得を聞き入れないのを知ると、せめて武士らしく最後を立派にするようにと申し渡して義絶したのだった。

 明治九年十月二十八日萩の乱が勃発、前原一誠が挙兵すると、ただちに萩に、広島鎮台の兵と大阪鎮台の兵が鎮圧に向った。

 乱は間もなく鎮定され、前原一誠ら首謀者八名は斬首の刑に処せられた。玉木正諠(真人)は萩の防衛に当たり、押し寄せてくる官軍に立ち向かい、奮戦して戦死した。また、玉木文之進は門弟の多くが萩の乱に加わったことの責任をとって自刃した。

 萩の乱が勃発したとき、乃木希典少佐は、連隊を率いて秋月の乱の鎮圧に向かい、これを鎮圧したので、萩には行かなかった。

 明治十年二月に西郷隆盛が挙兵して西南戦争が起きると、二月十九日乃木希典少佐は第一四連隊を指揮して久留米に入り植木町で西郷軍との戦闘を行った。

 乃木少佐の連隊は二〇〇名だったが、これに立ち向かった西郷軍は四〇〇名で、激戦の末、乃木少佐の連隊は退却した。

 退却のとき、連隊旗を保持していた連隊旗手の河原林雄太少尉が敵の不意打ちによって斬られ、戦死し、西郷軍に第一四連隊の連隊旗を奪われた。

 河原林雄太少尉を切ったのは西郷軍の第四番大隊第九小隊(伊東祐高小隊長)所属の押伍岩切正九郎だと言われている。

 向坂で両軍入り乱れて激戦となった。夜中に岩切正九郎が一人で進んでいると、畑の中の藪の中に身を潜めている一人の敵が見えた。

 後ろから岩切正九郎が刀を構えてソット近寄った。待ち受けているとも知らずに、その一人の敵の男は、頭をもたげた。その瞬間、岩切正九郎はヤッと、気合をかけて斬りつけた。

 ふいに斬ったので、たった一刀で、相手は声も出さずに、ドサッと倒れこんだ。よく見ると敵は士官で少尉か中尉か判らなかったが、刀をぶん取り、腹に旗を巻いていたので、ついでにその旗もぶん取った。

 岩切正九郎は、その旗を大したものと思っていなかったので、ちょうどそこへやって来た村田隊の兵卒に渡した。

 そこでその旗は、村田隊の隊長である村田三介の分捕り品ということになったが、その旗が敵の連隊旗だと分かったので、西郷軍の士気は大いに上がった。

 西郷軍は奪ったこの連隊旗を竹竿の先に着けて、熊本城の前に持っていって打ち振り、官軍に見せびらかした。

 あとで、連隊旗を西郷軍に奪われたと知った乃木連隊長は、「自分と一緒に戦死しようと思う者はついて来い。敵中に突入する。そして軍旗を取り戻す」と叫んで、敵陣の方へ突入して行こうとした。

 だが、乃木連隊長は二人の屈強な下士官により、阻止され、突入を止めた。その後も乃木連隊長は敵と遭遇すると、真っ先に突撃して行った。

 そのうち乃木連隊長の足を敵の弾が貫き、乃木連隊長は部下によって野戦病院に入院させられた。だが、乃木連隊長は病院を脱走し戦場に戻った。

428.乃木希典陸軍大将(8)そのうちに、乃木少佐が「じゃ、立派に死ね」と言った

2014年06月06日 | 乃木希典陸軍大将
 真人は「前原先生この度深く思い立たれる事あって、兄様をお招きになります。兄さんに由って軍に光輝を添えようと思し召します。一度萩へお越し下さることはできませんか」と、長いヒゲを捻りながら言った。

 乃木少佐は「乃公(わし)は連隊長じゃ。天皇陛下の軍人じゃ。そのつもりで物を言え」と言った。

 真人は「前原先生の思し召しも陛下にお叛きなさるお心はございません。ただ、君側に蔓(はびこ)る奸賊を誅伐して国運の進歩を謀ろうと……」と言った。

 乃木少佐は「貴様、前原さんの企てに同意したか、まずそれを聞こう」と尋ねた。すると真人は熱心に次のように説き立てた。

 「私は前原先生の御主意を正当と認めます。前原先生忠義のお精神には誰一人感激せぬ者はありません。私は一命を捧げて先生幕下に加わります。玉木のお父様は自ら進んでお味方はなさらんでしょうが、私や門人衆が前原先生のお側へ参るのをお引止めにはなりません」

 「兄さんも覚悟して下さい。兄さんは正義に強いお方です。一人の弟を見殺しになさる事はないでしょう。玉木のお父様とは莫逆(ばくぎゃく=逆らうことのない)の交際を持っていらっしゃる前原先生を猛火の中へお捨てなさる事はないでしょう」。

 乃木少佐は黙って聞いていたが「乃木家は神聖じゃ。前原さんの企ては反逆じゃ。反逆に大義名分は無い」と言った。

 真人は「兄さんはお味方なさらんのですか」と尋ねた。これに対して、乃木少佐は重々しく次のように答えた。

 「私は陸軍歩兵少佐じゃ。陛下の軍人じゃ。連隊旗を守護する連隊長じゃ。これを見よ、ここに連隊旗がある。これに軍人の精神が籠もっている」

 「連隊旗授与の際は之を持って国家を守護せよとの御諚(ごじょう=主君の命令)が下る。如何なる事情があっても、叛逆に与することが国家守護の大精神に添うとは思わぬ」。

 当時の連隊旗は連隊長の官舎に守護されていた。連隊長の書院の床の間には必ず連隊旗が置かれてあった。「死を持って守護すべし」との精神は常に連隊長の念頭を去らなかったのである。

 乃木少佐は、その神聖な連隊旗の前に於いて、弟の真人を説諭するのであった。

 真人は「然し兄さん、政治の中心が腐れては軍旗を神聖に保護する事もできません。前原先生の企ては叛逆じゃないのです。国家の為に君側の奸を除き死を以って忠義の精神を貫こうと為さるのです」と応じた。

 乃木少佐は「乃公は取らぬ。お前も近江源氏の血を享けている大義名分を以って生命を為された玉木先生までを叛逆の渦中に入れるのは善くない。よく考えろ、大事なところだ。東京にはお父様もお母様も在らせられる」と諭した。

 真人は「お父様にもお母様にもお暇乞いをして参りました。私の心は揺るぎません。私には考える余地を持ちません」ときっぱりと言った。

 乃木少佐は「じゃ、どうしても叛逆人になるか」と問うた。

 真人は「前原先生の御主意に由って動きます」と答えた。

 乃木少佐は「乃公は軍人だ。陛下の御命令に由る外一寸も動かん。誰の言う事も聞かん」と断言した。

 兄弟の議論は容易に決しなかった。午前十一時頃から始まって、午後三時頃に終わった。次の間には乃木少佐の命を受けた部下の二人の尉官が固唾を飲んで聞いていた。

 兄弟は相持して下らぬ結果、一時は刺し違えて死ぬような事がありはせぬかとまで危ぶまれた。

 そのうちに、乃木少佐が「じゃ、立派に死ね」と言った。

 続いて真人が「見事に死にます。仮令(たとい)賊名は受くるとも、一たんの約束を反古にする事はできません」と慄う声で答えた。

 乃木少佐は「乃公は軍人として勤むべき事を勤める。するとこれが永別じゃ」と言った。

 真人は、しばらくして「再びお目に掛かりません。先生の御命令に由る外は二度と小倉の地を踏みません」と言った。

427.乃木希典陸軍大将(7)いくらでも要用だけ以って帰りなさい。然し、希典の目の黒い間はいけんぞ

2014年05月30日 | 乃木希典陸軍大将
 明治九年二月二十四日の乃木希典の日記には、玉木正諠ら数人が訪ねてきたことが記してある。

 玉木正諠は、西郷隆盛が前原一誠に宛てた手紙を乃木希典に見せた。そして、西郷先生も同じ考えだからと、兄を説得しようとした。

 だが、公私の別に厳しい乃木少佐は、逆に前原一誠の企ての非をあげて、反省を促した。兄弟は激論を交わした。その後も、実弟・玉木正諠は、兄・乃木希典少佐の家を再三にわたり訪れている。

 乃木希典の明治九年九月六日の日記に、「玉木マタ来ル。小酌。談ジテ夜ニ入ル。」と記してある。このとき、玉木正諠は二の丸にあった連隊長官舎に、乃木希典を訪ね三日間滞在している。

 これが、兄弟の最後の別れとなった。兄二十七歳、弟二十三歳だった。

 「乃木大将実伝」(碧瑠璃園・隆文館)によると、希典、正諠の兄弟の最後の別れの日の、具体的な激論のやりとりが、次のように記してある(要旨)。なお、ここでは、玉木正諠を幼名の真人(まこと)で記している。

 小倉の歩兵第一四連隊長心得・乃木少佐の居宅に玉木真人(正諠)が到着する前に、前原一誠の使者が乃木少佐を訪れた。

 使者は「希典さん、連隊の銃を百挺ほどお貸しください。前原先生が必要とされているのです」と言った。乃木少佐は黙って聞いていた。

 さらに「この願いを聞いていただけないでしょうか。人数はかなりいるのですが、悲しいことに肝心の武器がないのです」とも言った。この、使者の口上に、反逆の意味が現れていた。

 乃木少佐はしばらくして、「そうじゃのう、百挺でよいかのう」と、重い口調で尋ねた。

 使者は「多いのはいくら多くてもよいのです。けれども、そんなに沢山お願いするのも如何ですから、差し詰め百挺だけ借用したいと思います」と答えた。

 乃木少佐は「百挺なんて小さいことを言うな。要用(いりよう)とあれば連隊に備え付けてある分を、悉皆(全部)貸そう」と言った。

 使者は「あなた」と、息をはずませて、「実際ですか、実際お貸し下さるのですか」と問うた。

 乃木少佐は「いくらでも要用だけ以って帰りなさい。然し、希典の目の黒い間はいけんぞ」と答えた。

 乃木少佐の最後の一言は、百千の雷霆(いかずち)が一時に落ちた様であった。使者は要領を得ずに立ち帰った。

 その後に、弟の玉木真人が来た。「弟の玉木正諠さんがお出でになりました」と取次ぎに出た従卒が居間にいる乃木少佐に伺った。

 乃木少佐は「真(しん)が来たか、こっちへ通せ」と従卒に命じた。当時乃木少佐は真人のことを真と呼んでいた。乃木少佐だけでなく、萩の人は多く玉木真と呼んでいた。

 連隊の書類を調べながら乃木少佐は、用向きは大体察していたが、入ってきた真人に「何の用で来た」と尋ねた。

 真人は「ご相談があって参りました。只今東京からの帰り途です。お父様もご機嫌よく、お母様もお変わりございませんでした」と挨拶した。

 乃木少佐は「相談とは何か」と問うた。

 真人は「前原先生の御命令です。兄さんの心事を承って、秘密のご相談を願おうと思うのです」と力強い声で言った。

 乃木少佐は「そうか」と言ったまま、書類から目を離さずにいた。十分ほどして、「ちょっと待て、公用を果たした後、応問しよう」と言って、書類を調べ終わって、次の間に立って行ったが、程もなく元の座に戻って来た。

 何事にも用心深い乃木少佐は、真人がどんな事を語るかも知れぬと、後の嫌疑を避ける為に、兄弟間の応答を聴かすべく、部下の尉官、宗野、土屋の両人を次の間に潜ませたのだった。

 前原一誠が反旗を翻そうとする形勢があるところへ、その同志たる真人が自分の官舎に来たとあっては、世間からどの様な疑いを受けるかも知れぬと乃木少佐は思ったのだ。

 乃木少佐は「さあ聞こう」と真人の前に座った。

426.乃木希典陸軍大将(6)乃木希典は少年の頃、文学で身を立てようと志していた

2014年05月23日 | 乃木希典陸軍大将
 連隊長としての乃木希典は、軍人としての修養を欠かさなかったが、同時に学者の如く、向学心が強く、多肢に渡る勉学を修めている。

 「乃木希典」(戸川幸夫・人物往来社)によると、乃木希典が平素勉学、研究していたのは、主に和漢の書籍だった。軍人だから兵学に関するものが多かったが、武士道に関するもの、国体に関するものも非常に多かった。

 そのほか、歴史、文学、教育、神道に関するものもあり、広きにわたっていた。山鹿素行や吉田松陰の著書はいうまでもなく、そのほか、水戸学の著書も非常に研究していた。

 栗山潜鋒(くりやま・せんぼう・水戸藩士・江戸中期の朱子学者)の「保建大記」や、藤田東湖(ふじた・とうこ・水戸藩士・水戸学藤田派の学者)の「弘道館記述義」などは前々から研究していた。

 三宅観瀾(みやけ・かんらん・栗山潜鋒の推挙で水戸藩に仕える・江戸時代中期の儒学者)の「中興鑑言」という書物は栗山潜鋒の「保建大記」と並んで水戸の国体に関する著書として重要なものだった。

 このことを人づてに聞いた乃木は、手を回して、その本を借り、全文を模写して。それを石版刷りにして、数十部つくり、友人や部下に贈った。

 乃木は昔の本で、手に入らない良い本があった場合は、私費を投じて複製をし、多くの人に分け与えている。吉田松陰の「武教講録」や「孫子評註」であるとか、山鹿素行の「武教本論」や「中朝事実」など、その数は十数種類にのぼっている。

 また、乃木希典は少年の頃、文学で身を立てようと志していただけあって、乃木の文才は一流であった。風刺諧謔の筆致は絶品だった。特に乃木の漢詩は優れており、名作として後世に長く伝えられているものも多い。

 明治九年七月のある日曜日、乃木は所用で熊本鎮台に行ったとき、水前寺に遊びに行った。行きつけの万八楼という料亭で一杯やっていた。

 隣の料亭に京町の芸者が三人遊びに来ており、やがて、素っ裸になって庭の泉水に入って水浴し始めた。乃木は二階の手すりに身を寄せて盃を片手にこの様子を見ていた。

 泉水の水は彼女たちの玉の肌を洗って、その股の間をくぐって、万八楼の方へ流れてきた。乃木はすぐに筆をとって、次のような一詩を作った。

 「水前寺辺登水楼 清流縁掛午風涼 泉源何処美人浴 定洗鬱金水有香」。

 この漢詩の意味は次のようなものである。

 「水前寺辺りの料亭に登ったら、清い流れがあり緑の木も茂り昼の風も涼しかった、流れ来る泉の源はどこかと眺めたら美人が水浴をしていた、そこから流れてくる水は定めし鬱金を洗ってきたので香ばしいにおいがするだろう」。鬱金(ウコン)は例えだが、健康食品などにあり、芳香良いにおいがある植物。

 明治九年十月二十七日、秋月党による秋月の乱(福岡県)が勃発。乃木少佐は連隊を率いて、秋月党を攻撃、十月三十一日には反乱軍を撃退し、叛乱は鎮圧された。

 明治九年十月二十八日萩の乱が起こり、新政府に不満を持つ前原一誠が挙兵した。前原一誠は、高杉晋作や久坂玄瑞と並んで三羽がらすと言われた逸材だった。明治になってからは、大村益次郎のあとを受けて兵部大輔(後の陸軍大臣)にも任命された。

 だが、前原一誠の性格は正直で一本気だったので、どうしても政治家肌の木戸孝允や大久保利通とウマが合わなかった。

 それで、西郷隆盛に近づき、対外強硬論を唱えていた。だが、やがて、山県有朋に追われるようにして中央を去り山口県の萩に帰郷した。

 萩における前原一誠の人気はたいしたものだった。長州の若い武士たちは前原一誠が中央から追われたことにひどく憤慨し、前原一誠と生死を共にしようとした。乃木希典の実弟、玉木正諠(たまき・まさよし)も、前原一誠の信奉者だった。

 前原一誠は、玉木正諠の兄の乃木希典少佐が小倉の連隊長心得であって、兵器が自由になることから、乃木少佐を味方にすれば戦力が増大するし、乃木少佐が味方をしたというだけで 幾千騎の味方を得たにも優り、各地の不平党も一斉に挙兵すると見込んでいた。

 もし、乃木少佐が挙兵に加わらなくても、連隊の兵器を横流ししてもらうだけでもよいと考えていた。そこで乃木少佐の弟、玉木正諠を使者として何回も送った。

425.乃木希典陸軍大将(5)「馬鹿ッ!馬に敬礼せよと誰が教えたか!」と叱責した

2014年05月16日 | 乃木希典陸軍大将
 このとき、御堀耕助は黒田清隆に二十三歳の乃木文蔵を紹介し、「陸軍に入れてやってくれ」と頼んだ。黒田は快諾した。

 その後、明治四年五月十三日御堀耕助は病没したが、陸軍に強い影響力を持つ黒田は約束を忘れなかった。

 東京から内命があり、乃木文蔵(希典)は上京した。明治四年十一月二十二日、乃木源三は黒田清隆の私邸に呼ばれ、「おはんは、明日から陸軍少佐である」と言われた。その翌日任命式が行われた。乃木文蔵はまだ、二十二歳だった。

 
 乃木希典は晩年にいたっても、「わしの生涯でこの日ほど嬉しかったことはない。明治四年十一月二十三日という日は今でも暗記している」としばしば言ったという。

 乃木文蔵は、陸軍少佐になり、名前を「希典(まれすけ)」に改名した。

 
 明治六年四月、乃木希典は名古屋鎮台大貳心得に補された。だが、明治七年五月、名古屋鎮台勤務を免じられ、休職仰せ付けられた。軍歴の四回の休職のうち、最初の一回目の休職である。

 「乃木希典」(戸川幸夫・人物往来社)によると、この休職の理由ははっきりしていないが、この頃、二十五歳の乃木希典は、かなりの乱行をしていて、酒と女に耽溺していたので、そんなところに原因があったのではないかと言われている。

 この時の乃木の休職を救ったのは山県有朋である。同年九月乃木希典は陸軍卿・山縣有朋の伝令使(副官を)仰せ付けられた。山縣は同郷の後輩、乃木を拾い上げて自分の伝令使にしたのである。

 明治八年十二月乃木希典少佐は、熊本鎮台歩兵第一四連隊長心得を命ぜられ、明治九年一月、小倉に赴任した。二十七歳であった。

 「乃木大将実伝」(碧瑠璃園・隆文館)によると、「乃木連隊長心得として勤務している頃のある日のことだった。乃木少佐が出勤した後で、馬丁が馬を引いて営門を出ようとした。

 すると、その時、歩哨を務めていた一兵卒は連隊長の愛馬と知っていたので、直立不動の姿勢をとり、捧銃(ささげつつ)の敬礼をした。この馬は豪州産のアラビア馬で、小倉連隊にはただ一頭しかいない立派な逸物だった。

 そこにいた週番将校はこの兵卒の敬礼を見て怪しからんと思ったのか、つかつかとその兵卒の側に寄って、「馬鹿ッ!馬に敬礼せよと誰が教えたか!」と叱責した。

 歩哨は言葉を返して、「連隊長の愛馬でありますから」と答えた。だが、翌日、違法の敬礼をした廉(かど)によって処罰されることになった。

 乃木少佐はこのことを聞くと、共に歩哨と週番将校を一室へ呼び入れて、処罰の理由を問いただした。週番将校はありのままを物語った。

 乃木少佐は一応聞き取った後、週番士官に次のように言い渡した。

 「歩哨の所為を違法の敬礼とすれば、お前は違法の命令であるから、共に処罰を加えなければならぬ。馬に敬礼せよと教えた者はあるまいが、連隊長の馬と見て敬礼したのは、強(あなが)ち悪いことじゃない」

 「軍人は秩序を尊ぶ。私はその精神を慶びいれる。勿論、処罰を加えるほどの過失ではないから、過失は過失として注意を加え、長官に対して秩序を重んじる精神だけを買うてやれ」。

 この週番士官は乃木少佐の言葉に感じるところがあり、それ以来、深く精神修養に努めるようになったと言われている。

 また、夏の暑い日に演習をしたことがあった。古谷軍曹が中隊長の命によって、連隊本部へ伝令に行って見ると、乃木連隊長の着ている軍服が汗でびとびとになっていた。

 古谷軍曹は、さぞ心持が悪かろうと思って、「お召し物を乾かせなすっては如何です」と、うっかり言った。

 すると乃木連隊長は忽ち眼をいからせて、「貴様は何だ!軍人じゃないか。軍人でいてそんな事が分からぬか。汗や暑さを恐れるようで、有事の時、役に立つか。貴様の腹は腐っているから分からん。一ぺん清水で洗って来い」と叱責した。

424.乃木希典陸軍大将(4)二十三歳の乃木文蔵(希典)はいきなり陸軍少佐に任ぜられた

2014年05月09日 | 乃木希典陸軍大将
 慶応元年、源三(乃木希典)は十七歳のときに、憧れの藩校、明倫館に入学することができた。同じ毛利でも支藩の者が入学するのは難しかったが、玉木文之進の援助で入学ができたのだった。

 明倫館時代、源三の学友であった高島北海(たかしま・ほっかい・山口県萩市・工部省入省・鉱山学校・内務省地理局・農商務省・フランス留学で水利林業を学ぶ・フランスで日本画も描く・リモージュ美術館に作品寄贈・フランス教育功労勲章・帰国後林野行政に従事しながら日本画家として大作を次々に発表・地理学者・地質学者・昭和六年没)は、源三について、次のように述べている(要旨)。

 「乃木さんは負け惜しみが強く、非常に強情であった。乃木さんは萩から故郷の長府まで十八里の道を歩いて帰るのだが、普通の人は朝出発して、その晩は途中で一泊する」

 「だが、乃木さんは夕方に萩を出発し、夜道を歩き、十八里の道を一気に歩き続け帰郷した。山道はひどい道で、昼間でも歩きにくかった。『大変だろう』言うと、乃木さんは『なあに、萩と長府は廊下続きだ』と平然としていた」。

 「あるとき、乃木さんが長府に帰ったとき、その日は氏神様のお祭りだった。乃木さんが実家の敷居をまたいで入ろうとしたら、父の十郎希次が『源三、何しに帰った!』と言った」

 「乃木さんが『今日は学校が休みで、祭りと聞いたので帰って来ました』と答えると、父はさらに大きな声で『いったん学問のために家を出た者が、お祭りだからといって家に帰るとはもってのほかだ。そのような薄志弱行では事がなせるか! すぐに萩へ帰れ。この敷居をまたぐことはならん!』と叱りつけた」

 「母親がいろいろとりなしたが、父は聞き入れず、乃木さんは、父の言うことがもっともだと感じ、疲労と空腹でへとへとになりながらも、そのまま萩へとって返した。乃木さんの強情、我慢というのは、もうこの頃から養われていた」。

 以上の事から、乃木希典は非常に意志が強いことがわかる。だが、乃木源三(希典)は元々、小さいときから臆病であった。玉木文之進もこのことをよく知っていて、乃木に狐の番をさせることがしばしばあった。

 玉木の家の近くに墓があり、盆になると灯篭をつける。すると狐が出てきて、灯篭の油をなめる。そこで文之進は、源三に灯明の燃え尽きるまでそばで、張り番をさせた。

 「狐は追っ払うだけで殺すな」と命じられていたので、源三が追っ払っても、狐は殺されないと分かって、だんだん数多く集まってきて、源三を取り巻いて、油をなめたがった。

 これには、源三も非常に恐怖を感じた。しかし、文之進の怒りのほうがもっと恐ろしかったので、逃げずに、こわごわ張り番の役目を果たした。このようにして、文之進の厳しい訓育で、乃木源三は、幼少時代の虚弱から次第に脱していった。

 慶応二年、幕府の二回目の長州征伐が行われた。乃木源三は名前を「文蔵」に改名した。四月乃木文蔵は豊浦に帰り、高杉晋作が組織した奇兵隊に入った。山砲の指揮官となり、小倉口で戦うことになった。

 山縣狂介(山縣有朋)の指揮下に入り戦ったが、左足甲に銃弾擦過傷を受けた。乃木と山縣の結びつきはこの時にできた。

 明治四年十一月、二十三歳の乃木文蔵(希典)はいきなり陸軍少佐に任ぜられた。これには次のような事情があった。

 「殉死」(司馬遼太郎・文春文庫)によると、戊辰の騒乱が終わり、薩長が維新政府を樹立し、天下を取った。このとき乃木文蔵は、報国隊の漢学助教(読書係)をしていたが、従兄の御堀耕助(長州報国隊総督)がしきりに新政府の軍人になることを乃木文蔵にすすめたので、その気になった。

 その後乃木文蔵は藩命により伏見の御親兵兵営に入りフランス式教練を受けた。スナイドル銃をかついで徒歩で行進する仕方から教わった。約六ヶ月の洋式軍事教育を受けた。

 同様な軍事教育を受けた多数の者は、東京に呼び出され、陸軍少尉や中尉に任ぜられたが、乃木文蔵のもとには何の沙汰もなかった。

 「乃木は軍人として不出来だったのではないか」と長府藩では噂する者もいて、乃木文蔵はこの時期、鬱々としていた。

 
 長州政界の巨頭になっていた御堀耕助は、従弟である乃木文蔵を大いに愛していた。だが、当時、結核で御堀耕助は病床にあった。

 たまたま乃木文蔵が御堀耕助を見舞いに行ったとき、薩摩藩出身の黒田清隆(後の陸軍中将・従一位・大勲位・伯爵)も見舞いに来ていた。

423.乃木希典陸軍大将(3)この程度の学問で学者になろうというのは、分に過ぎた望みです

2014年05月02日 | 乃木希典陸軍大将
乃木十郎希次の食禄は、表面は八十石だったが、実際のところは四十石だった。禄高は少ないが、「長府毛利では、まず乃木十郎希次!」と評判される位、武芸、学問、才知、気骨といい押しも押されもしない、人物だった。

 乃木希典が生まれたとき、乃木十郎希次は、毛利家の長府藩江戸詰めの武士として、麻布日ヶ窪の毛利邸内の武家屋敷に住んでいた。

 「人間 乃木希典」(戸川幸夫・光人社)によると、有名な吉田松陰の松下村塾を始めて開いたのは、長州藩士で、山鹿流の兵学者・玉木文之進(吉田松陰の叔父)だった。

 玉木文之進は、天保十三年に松下村塾を開き、子供たちの教育を始めた。武士として安政三年に吉田代官に任命され、以後各地の代官職を歴任して、安政六年には郡奉行に栄進した。

 だが、安政の大獄で甥の吉田松陰が処刑され、その監督責任を問われ、代官職を剥奪された。その後復職を許され、藩政に参与し奥番頭にまでなった。政界から引退後再び松下村塾を開いていた。

 玉木文之進の教え方は、昼はそれぞれ自分の家の用をさせておいて、日暮れから勉強をさせ、徹夜することも珍しくなかった。

 勉学の態度や礼儀に非常に厳しく、当時塾生であった、あの吉田松陰でさえも、玉木文之進から厳しく叱りつけられ、書斎の縁からつき落とされたことがあった。

 その書斎は三間ばかりの崖の上に建っていたので、つき落とされた松陰は谷底まで転がり落ちた。これは松陰自身が後に語ったことである。

 文久三年十二月、十五歳の乃木無人(希典)は、元服して名を「源三」と改名した。

 元治元年三月、十六歳の乃木源三(希典)は、生まれつき体が弱かったので、武家礼法と文学に興味を示し、学者を志していた。武術はおろそかにしていた。文学で身を立てようと思っていたのだ。

 源三が、父にその志を話すと、「武士の家に生まれた者が、こんな情弱でどうするか!」と断固として許さなかった。

 父と対立した源三は、無断で家出をして、萩の城下に近い松本村に行った。そこには松下村塾を開いていた玉木文之進(乃木家の親戚)が住んでいた。

 源三は文之進に志を述べて同情を請おうとした。すると文之進は非常に怒って、「武士の家に生まれた者が武芸を好まないならば、百姓をしろ。学問だけをしようという気持ちなら、泊めて置くことはできぬ。早々と帰れ!」怒鳴った。

 源三は自分の志を曲げることはできないので、夜もふけていたが、ここにいても仕方がないと、門の方へ出て行くと、文之進の夫人、辰子が追いかけてきて「今頃、どこへ行くつもりですか」と言った。

 源三が「故郷に帰るつもりです」と答えると、辰子は「こんな夜中に、あの山道を越えるのは大変です。とにかく今夜は主人に内緒でお泊めしますから、あしたお帰りなさい」といたわった。

 非常に疲れていたので、源三は辰子の言葉に甘えて一泊することにした。

 ところが、その夜、夫人は源三に向って「あなたが学問を志すと聞きました。それならまず、試みにこの本を読んでごらんなさい」と論語を差し出した。

 言われたとおりに源三は論語を読み始めたが、よく読めなかったので、誤読も多かった。

 すると辰子は「この程度の学問で学者になろうというのは、分に過ぎた望みです。主人が許さないのももっともです。だけど、あなたが農業に従事しながら勉強をしようというなら、私はあなたのために、夜だけ日本外史などを読んでお教えしましょう」と言った。

 辰子は文之進の従妹にあたる人で、長州藩の家中・国司(くにし)家の出身だった。当時の女性とはいえ、学問の優れた人物だった。だが、惜しくも辰子は明治四年五月病死した。文之進はその後、後妻を貰った。

 このようなことから源三は玉木文之進の家に住み込んで農業をやりながら学問をした。畑仕事の合間に玉木文之進から学問の話を聞いた。夜になると辰子から日本外史などを教えてもらった。

 こうして、教育を受けているうちに、源三は武士としての修業を積もうと本気に志すようになった。だが、一年を過ぎた頃、源三の父が病気になり、帰郷した。

 
 しばらくして父の病気は治ったので、今度は父の許しを得て萩に出た。源三は玉木文之進に武士になるという志を述べ、藩校の明倫館に入校したいと申し出た。

422.乃木希典陸軍大将(2)何も今夜あたり死ななくたって、他の晩にしてくれりゃいいんだ

2014年04月24日 | 乃木希典陸軍大将
 新聞社内での状況を説明すると、「乃木は馬鹿だ」という社員たちの罵倒は、一義的には、御大葬の記事をやっと組み上げて、皆、へとへとに疲れ切っているところへ、また紙面を作り変えなければならないようなことを仕出かしゃがって……という不機嫌の表明なのである。

 そのことは、「乃木大将は馬鹿だ」と最初に言い出したのが、労働のしわ寄せを蒙る植字工であったという事実が示している。

 当時は、植字工が鉛の活字を一つ一つ拾って印刷のための記事を組み立てていた。やっと御大葬の記事を組み終えたところで、乃木将軍殉死の記事を組み入れなければならなくなったので、レイアウトは大きく変更になるし、新たに記事を組み直さなければならない。植字工は大変なことになった。

 また、夕刊編輯主任のMは、「本当に馬鹿じゃわい。何も今夜あたり死ななくたって、他の晩にしてくれりゃいいんだ。今夜は(御大葬の)記事が十二頁にしても這入りきれないほど、あり余っとるんじゃ」と言った。

 外交部長のKは「惜しいなあ。もっと種の無い時に死んでくれりゃ、全く我々はどの位助かるか知れないんだ。無駄なことをしたもんだな」と残念がっていた。つまり新聞社の社員たちは、乃木大将の殉死は大きく扱わなければならない、という認識では一致していたわけである。

 ただ、それがニュースとしては極めて間が悪いために、苛々不機嫌になり、乃木は将軍として無能で、多くの兵士を無駄死にさせた、といった批判も出てきた。御馳走で満腹しているところへ、思いがけず、もう一つ、どうしても平らげなければならない御馳走が来たので、苦し紛れに愚痴が出たというようなものだった。

 以上の記述を踏まえ、「新聞を疑え」の著者、百目鬼恭三郎氏は、乃木大将について、次のように述べている。

 「世間はともすれば戦争に勝った将軍より、悲劇的な敗けかたをした将軍のほうを英雄視する風があり、源義経や乃木希典がそうだ。これが人気というもので、人気は貸借対照表による合理的な価値判断によって決まるのではない。多くの人を感情的にひきつけるかどうかということなのである」

 「乃木の場合でいうと、彼の自己破壊衝動型の行動と、置かれている地位との極端なアンバランスが、人の庇護本能をくすぐる。そこに人気の秘密があったわけで、彼が将軍として無能だったという、本来もっとも評価の対象となるべき実績は、まるで考慮されなかったといってもよろしかろう」

 「できるだけ多くの読者を獲得することを至上命令とする日本の新聞が、このような世間の感情に逆らって、『乃木は無能な将軍であった、彼が多くの兵士を殺した責任は、自刃によってもなお償えるものではない』といった論陣を張り得なかったのは当然過ぎるほどだ」。

 「将軍 乃木希典」(志村有弘編・勉誠出版)によると、乃木希典は嘉永二年十一月十一日(一八四九年十二月二十五日)、父・乃木十郎希次、母・寿子の三男として生まれた。なお、長男も次男もち乳呑み児のうちに死んでいた。

 三男が生まれたとき、見るからに弱々しく、乃木十郎希次は、前に死なせた二人の男の子の運命と思い合わせて、「せっかくの男の子が生まれてきたたが、やっぱり駄目だ。育ちそうもない。あとで力を落とすよりも、初めから無い子とあきらめてしまったほうがよかろう」と、生まれてきた子に「無人(なきと)」という名前をつけた。これが後の乃木希典である。

 五年遅れて、乃木十郎希次にまともや男の子が生まれた。今度のは丈夫そうだった。「無人が育ったのだから運が直ってきたのかもしれん。今度こそ、本当に人になるに違いない」というので、無人の弟には「真人(まこと)」と名前をつけた。

 乃木真人は、後に玉木文之進の養子になり、玉木正誼(たまき・まさよし)となった。子供のない玉木文之進が乃木十郎希次に懇望して真人をもらいうけたのだった。そして吉田松陰の実兄、杉民治の娘、お豊を、正誼の妻として迎えた。玉木文之進は吉田松陰の叔父であった。

 その後も、乃木十郎希次には、男の子の「集作」、女の子の「とめ子」、「いね子」が次々に生まれて、皆無事に成人している。

 乃木十郎希次は、宇治川の先陣で名高い近江源氏・佐々木四郎高綱を先祖に持ち、長府毛利家、つまり長門萩にある毛利元就の本家ではなく、元就の四男、元清を先祖とする分家の、長門府中(長府藩)五万石の毛利家の家臣だった。

421.乃木希典陸軍大将(1)「乃木が死んだんだってのう。馬鹿な奴だなあ」と言った

2014年04月17日 | 乃木希典陸軍大将
 大正元年九月十三日午後八時、乃木希典は自邸の二階の部屋に明治天皇の写真を飾り、その写真の下で殉死した。静子夫人も共に殉死した。

 明治天皇は、糖尿病が悪化し、尿毒症を併発して、明治四十五年七月二十九日に崩御した。同年(大正元年)九月十三日に、東京・青山の帝国陸軍練兵場で大喪儀(御大葬)が行われた。

 「新聞を疑え」(百目鬼恭三郎・講談社)によると、明治末から昭和初期にかけて、諷刺文学作家として活躍した生方敏郎の著書、「明治大正見聞史」(中公文庫)に、「乃木大将の忠魂」という一章がある。

 大正元年九月十三日夜、当時東京朝日新聞の新聞記者だった生方敏郎は、明治天皇の御大葬の模様を取材して社に戻り、原稿を書き終えて雑談をしているところへ、「乃木希典夫妻が殉死した」という報が入ってきた。

 そこで、生方は同僚と一緒に深夜、乃木大将の旧主家である毛利子爵別邸を訪れて取材して戻る、という顛末を描いたのが「乃木大将の忠魂」だ。ここでは、新聞社内で乃木大将の殉死に対する批判があけすけに語られている様子を記している。それは次のようなものだった。

 夫人が一緒に自殺したと聞いて、「では心中だな」と社会部記者が言ったので、皆がどっと笑った。「乃木大将は馬鹿だな」と、若い植字工が大声で叫んだのをきっかけに、皆の口から乃木大将を非難する声が盛んに出てきた。

 主筆のT(鳥居素川だろう)が、「そういうことはこの際慎んだら、どうです」とたしなめると、今度はTを偽善者と非難する声が盛んになった。社長のM(村山竜平)が編輯室(編集室)に入って来て、「乃木が死んだんだってのう。馬鹿な奴だなあ」と言った。

 ところが、翌朝の紙面には、乃木大将の殉死が「軍神乃木将軍自殺す」と、当時としては破天荒の四段抜きの大見出しで扱われ、尊敬を極めた美しい言葉で綴られていた。これについて生方は次のように記している。

 「私はただ唖然として、新聞を下に置いた。昨夜乃木将軍を馬鹿だと言った社長のもとに極力罵倒した編輯記者らの筆によって起草され、職工殺しだと言った職工たちに活字を組まれ、とても助からないとこぼした校正係に依って校正され、そして出来上がったところは、『噫軍神乃木将軍』である。私はあまりに世の中の表裏をここに見せ付けられたのであった」。

 <乃木希典(のぎ・まれすけ)陸軍大将プロフィル>

嘉永二年十一月十一日(一八四九年十二月二十五日)、長州藩の支藩である長府藩(山口県西部)の藩士・乃木十郎希次と妻・壽子の三男。長府毛利候上屋敷(毛利甲斐守邸跡・江戸麻布日ガ窪)の侍屋敷で生まれた。「乃木希典」(宿利重一・魯庵記念財団)によると、乃木希典は幼名を「無人」、後に「源三」、「文蔵」といい、明治四年に「希典」と改名している。
安政五年(十歳)十一月乃木無人は父母に伴われ、弟妹と江戸を出発、十二月長府藩、長門の国豊浦に帰郷。
安政六年(十一歳)四月乃木無人は松岡義明に小笠原流の礼法を習う。
万延元年(十二歳)島田松秀に句読・習字を習う。
文久元年(十三歳)結城香崖に漢学を、江見後藤兵衛に武家の礼法、弓馬故実を学ぶ。工藤八右衛門に人見流馬術、小島権之進に日置流弓術を、多賀鉄之丞に洋式砲術を学ぶ。
文久二年(十四歳)一月から中村安積に賽蔵院流槍術、黒田八太郎に田宮流剣道を学ぶ。三月から福田扇馬に兵書、歴史を学ぶ。
文久三年(十五歳)六月藩学敬業館内の集童場に入学、武教講録を学ぶ。十二月元服して名を「源三」と改名する。
元治元年(十六歳)三月乃木源三は萩に行き、玉木文之進(乃木家の親戚)の門下生となり修学。実は父と対立して無断で家出をして玉木家に寄食、農業に従事した。長州藩士・玉木文之進は山鹿流の兵学者で松下村塾の創立者。吉田松陰の叔父。
慶応元年(十七歳)九月明倫館文学寮に通学。栗栖又助より一刀流剣道を学び始める。
慶応二年(十八歳)四月乃木源三は萩から豊浦に帰り、兵務に就く。山砲一門の指揮官となり、豊前の国(小倉口)で戦う。奇兵隊に入り、山縣狂介(山縣有朋)の指揮を受け、戦うが左足甲に銃弾擦過傷を受ける。名前を「文蔵」に改名する。
慶応三年(十九歳)一月宗藩の命で萩藩学、明倫館文学寮に入学し、寄宿生となる。
慶応四年(明治元年)(二十歳)一月栗栖又助より一刀流の目録を伝受される。七月文学寮を退学する。
明治二年(二十一歳)一月乃木文蔵は報国隊の漢学助教(読書係)に任命される。五月戊辰戦争が終結。十一月藩命によりフランス式練習のため伏見御親兵兵営に入学。
明治三年(二十二歳)一月山口藩奮諸隊暴動につき、鎮圧のため帰藩を命ぜられ、山口金古曽で戦う。
明治四年(二十三歳)一月豊浦藩陸軍練兵教官。八月上京。十一月陸軍少佐に任ぜられ、東京鎮台第二分営に出張。乃木の陸軍少佐への大抜擢には黒田清隆が行ったといわれている。十二月歩兵第二中隊を指揮。正七位。名を「希典」に改名。
明治六年(二十五歳)四月名古屋鎮台大貳心得。六月従六位。
明治七年(二十六歳)五月休職仰せ付けられる(一回目)。九月乃木希典は陸軍卿(山縣有朋)の伝令使(副官)仰せ付けられる。
明治八年(二十七歳)九月習志野野営演習参謀。十二月熊本鎮台歩兵第一四連隊長心得(小倉に赴任)。
明治九年(二十八歳)十月二十七日秋月の乱(福岡県)で小倉城警備。戦闘となり反乱軍を撃退した。十月二十八日萩の乱(前原一誠挙兵)で、乃木希典の実弟、真人こと玉木正諠(たまき・まさよし)は反乱軍に加わり戦死した。玉木文之進は門弟の多くが萩の乱に加わったことの責任をとって自刃した。
明治十年(二十九歳)西南戦争が起きると、二月乃木希典は第一四連隊を指揮して久留米に入り植木町で西郷軍との戦闘を行ったが、連隊旗を西郷軍に奪われ、自決を図る。四月陸軍中佐、熊本鎮台参謀。十月父・十郎希次病没。
明治十一年(三十歳)一月歩兵第一連隊長。勲四等。八月二十七日乃木希典は鹿児島藩士・湯地定之の四女・シズ(静子・二十歳)と結婚。
明治十三年(三十二歳)四月歩兵大佐。六月従五位。
明治十六年(三十五歳)二月東京鎮台参謀長。
明治十八年(三十七歳)四月勲三等、旭日中綬章。五月陸軍少将、歩兵第一一旅団長(熊本)。七月正五位。
明治十九年(三十八歳)十月従四位。十一月政府の命令によりドイツ留学(川上操六少将同行)。
明治二十一年(四十歳)六月帰国。
明治二十二年(四十一歳)近衛歩兵第二旅団長。
明治二十三年(四十二歳)七月歩兵第五旅団長。
明治二十五年(四十四歳)二月休職仰せ付けられる(二回目)。十二月歩兵第一旅団長。
明治二十六年(四十五歳)四月正四位。
明治二十七年(四十六歳)五月勲二等瑞宝章。東京の歩兵第一旅団を率いて日清戦争に出征、旅順要塞を一日で落とした。だが、三国干渉で遼東半島は返還され旅順はロシアの租借地となり、ロシアは旅順に難攻不落の要塞を築いた。
明治二十八年(四十七歳)四月陸軍中将、第二師団長。功三級金鵄勲章、旭日重光章、男爵。
明治二十九年(四十八歳)十月台湾総督。十二月従三位。母・壽子病没(台湾にて)。
明治三十年(四十九歳)六月勲一等瑞宝章。
明治三十一年(五十歳)二月願により台湾総督を免ぜられ、休職仰せ付けられる(三回目)。栃木県狩野村で晴耕雨読。十月第一一師団長。
明治三十四年(五十三歳)五月休職仰せ付けられる(四回目)。東京又は那須の邸宅を往来して晴耕雨読。
明治三十七年(五十六歳)二月八日、日露戦争勃発。留守近衛師団長兼近衛歩兵第一旅団長。三月十九日希典の子息、勝典と保典が出征。五月第三軍司令官に補せられる。五月二十六日勝典金州北門外で負傷、二十七日戦死。六月六日陸軍大将。正三位。十一月三十日保典二〇三高地背面で戦死。
明治三十八年(五十七歳)一月一日ロシア軍旅順要塞司令官・ステッセル中将(男爵・パプロフスキー士官学校卒)が降伏。一月五日水師営でステッセル中将と会見。一月十四日旅順入場式。一月二十四日奉天戦に参加。九月五日米国ポーツマスで日露戦争講和条約調印。
明治三十九年(五十八歳)一月十日凱旋帰国、宇品上陸。一月二十六日軍事参議官。四月弧戦役の功により功一級金鵄勲章、旭日桐花大綬章。八月宮内省御用係。九月プロシア皇帝よりプール・ル・メリット勲章を受領。
明治四十年(五十九歳)一月三十一日学習院長。四月フランス共和国政府よりグラン・オフィシェー・ド・ロルドル・ナショナル・ド・レジョン・ドノール勲章を受領。八月従二位。九月伯爵。
明治四十一年(六十歳)五月満州に派遣される。
明治四十二年(六十一歳)四月チリー国政府より金製有功章を受領。
明治四十四年(六十三歳)二月十四日東伏見宮依仁親王・同妃両殿下グレートブリテン皇帝載冠式参列に付随行(東郷平八郎元帥も)。四月十二日横浜出帆。六月七日英国上陸、六月二十二日載冠式参列。七月三日フランス、以後ドイツ、ルーマニア、トルコ、ブルガリア、セルビア、ハンガリーを経由し八月十日ベルリン着、ドイツ皇帝統裁の演習を陪観。八月十六日モスコーを通過西シベリア鉄道経由、八月二十八日敦賀上陸、帰朝。十月ルーマニア皇帝よりグラン・クロア・ド・ロルドル・ドレトワール勲章受領、グレートブリテン皇帝よりグレートブリテン皇帝・皇后載冠式記念章を受領。
明治四十五年(大正元年)(六十四歳)五月グレートブリテン皇帝よりグランド・クロッス・オヴ・ゼ・ヴィクトリア勲章受領。六月同皇帝よりグランド・クロッス・オヴ・バス勲章受領。七月三十日午前零時四十三分明治天皇崩御。九月一日英国皇族アーサー・オヴ・コンノート親王大喪儀参列の為来朝に付接伴員仰となる。明治天皇御大葬挙行当日の九月十三日午後八時東京市赤坂の自邸で明治天皇の御跡を追って殉死。享年六十四歳。静子夫人も希典に殉じて自殺。享年五十四歳。墓所は港区青山霊園。
大正五年十一月三日皇子裕仁親王の立太子の礼が行われる。この日、乃木希典特旨を以って正二位を贈られれる。