弓・第三十三師団長・柳田元三中将(陸士二六・陸大三四恩賜)は初めからインパール作戦は不可能だとして反対していた。柳田中将は学識豊かな教育者といった感じで、実行型の牟田口中将とは合わなかった。
柳田中将は「あんな、訳の分からん軍司令官はどうもならんな」と稲田副長に言った。牟田口軍司令官は「あんな弱虫はどうにもならん」とののしった。
また、祭・第十五師団長・山内正文中将(陸士二五・陸大三六)も、線の細い知識人の型で、激戦の指揮官には向かないと思われていた。
烈・第三十一師団長・佐藤幸徳中将(陸士二五・陸大三三)は猛将として知られていたが、気性が激しいので牟田口軍司令官と合わなかった。
中参謀長らの苦肉の策も、結局稲田副長に阻止されてしまった。牟田口軍司令官もインパール作戦の計画を撤回するか、時期を待たなければならなくなった。
ところが昭和十八年十月一日、稲田副長は第十九軍司令部付に転出した。東條首相は、全般的な敗勢の中、牟田口軍司令官の主張するインパール作戦に望みを託すようになっていた。
この作戦に反対する稲田副長を南方軍から追い出す工作を進言したのは、富永恭次陸軍次官(陸士二五・陸大三五)であった。南方軍の稲田副長は中央の言うことをきかないで、勝手なことをするというのであった。
南方軍の新副長に就任したのは、大本営第一部長(作戦)の綾部橘樹(あやべ・きつじゅ)少将(陸士二七・陸大三六首席)であった。
稲田副長が転出すると、南方総軍にはインパール作戦を抑制する者がいなくなった。寺内総軍司令官も「はやくやれ」と言うようになった。
昭和十八年十二月二十三日から、ビルマのメイミョウの第十五運司令部で参謀長会同が開かれ、そのあと、インパール作戦の総仕上げの兵棋演習が行われた。
牟田口軍司令官は、わが事なれり、といった自信満々の態度で主宰者の席にいた。演習の結果、綾部副長も中参謀長も反論もしないで承認してしまった。
南方軍はインパール作戦の実施を決意し、大本営に正式の意見具申書を提出した。昭和十九年一月七日、大本営は「ウ号作戦」(インパール作戦)を認可した。
「昭和戦争文学全集6・南海の死闘」(集英社)の中の「インパール」によると、当時、東條内閣は敗戦を重ね、なんとか難局を乗り切ろうとしていた。
さすがに国民の常識は、戦局に不安を感じ、同時に東條の独裁に不信を抱き始めていた。いまや東條首相は、国民の戦意をあおり、頽勢を挽回しなければならなかった。
このとき、東條首相の眼に感じられたのは、満々たる自信を持つ、牟田口中将の存在だった。インドを背景にして、踊らせる役者としては申し分がない。
牟田口の無鉄砲作戦なら、インドにとびこめるかもしれない。牟田口が成功すれば、東條内閣の人気と頽勢を一挙にたてなおすことができる。
東條はこのような政治的必要にかられて、インパール作戦の断行を命じた。
「太平洋戦争の指揮官たち」(新人物王来社)によると、日本陸軍は開戦直後のマレー上陸作戦以来、「イギリス軍は弱い」と見くびっていた。
牟田口軍司令官は、作戦開始を前に、読売新聞の記者に次のように豪語した。
「インパールはわけはない。ビルマから目と鼻の先じゃ。三週間もあれば結構。取ってみせる。君らも入城記でも準備しておいたほうがいい。うまく行きゃ、デリーの赤い城壁まで兵を進めるさ」
この牟田口軍司令官の野心に呼応するかのように、前年の昭和十八年十一月、東京で開催された「大東亜会議」の席上、東條英機首相は、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班から「インドにわれわれの拠点をつくってほしい」と要請されていた。
柳田中将は「あんな、訳の分からん軍司令官はどうもならんな」と稲田副長に言った。牟田口軍司令官は「あんな弱虫はどうにもならん」とののしった。
また、祭・第十五師団長・山内正文中将(陸士二五・陸大三六)も、線の細い知識人の型で、激戦の指揮官には向かないと思われていた。
烈・第三十一師団長・佐藤幸徳中将(陸士二五・陸大三三)は猛将として知られていたが、気性が激しいので牟田口軍司令官と合わなかった。
中参謀長らの苦肉の策も、結局稲田副長に阻止されてしまった。牟田口軍司令官もインパール作戦の計画を撤回するか、時期を待たなければならなくなった。
ところが昭和十八年十月一日、稲田副長は第十九軍司令部付に転出した。東條首相は、全般的な敗勢の中、牟田口軍司令官の主張するインパール作戦に望みを託すようになっていた。
この作戦に反対する稲田副長を南方軍から追い出す工作を進言したのは、富永恭次陸軍次官(陸士二五・陸大三五)であった。南方軍の稲田副長は中央の言うことをきかないで、勝手なことをするというのであった。
南方軍の新副長に就任したのは、大本営第一部長(作戦)の綾部橘樹(あやべ・きつじゅ)少将(陸士二七・陸大三六首席)であった。
稲田副長が転出すると、南方総軍にはインパール作戦を抑制する者がいなくなった。寺内総軍司令官も「はやくやれ」と言うようになった。
昭和十八年十二月二十三日から、ビルマのメイミョウの第十五運司令部で参謀長会同が開かれ、そのあと、インパール作戦の総仕上げの兵棋演習が行われた。
牟田口軍司令官は、わが事なれり、といった自信満々の態度で主宰者の席にいた。演習の結果、綾部副長も中参謀長も反論もしないで承認してしまった。
南方軍はインパール作戦の実施を決意し、大本営に正式の意見具申書を提出した。昭和十九年一月七日、大本営は「ウ号作戦」(インパール作戦)を認可した。
「昭和戦争文学全集6・南海の死闘」(集英社)の中の「インパール」によると、当時、東條内閣は敗戦を重ね、なんとか難局を乗り切ろうとしていた。
さすがに国民の常識は、戦局に不安を感じ、同時に東條の独裁に不信を抱き始めていた。いまや東條首相は、国民の戦意をあおり、頽勢を挽回しなければならなかった。
このとき、東條首相の眼に感じられたのは、満々たる自信を持つ、牟田口中将の存在だった。インドを背景にして、踊らせる役者としては申し分がない。
牟田口の無鉄砲作戦なら、インドにとびこめるかもしれない。牟田口が成功すれば、東條内閣の人気と頽勢を一挙にたてなおすことができる。
東條はこのような政治的必要にかられて、インパール作戦の断行を命じた。
「太平洋戦争の指揮官たち」(新人物王来社)によると、日本陸軍は開戦直後のマレー上陸作戦以来、「イギリス軍は弱い」と見くびっていた。
牟田口軍司令官は、作戦開始を前に、読売新聞の記者に次のように豪語した。
「インパールはわけはない。ビルマから目と鼻の先じゃ。三週間もあれば結構。取ってみせる。君らも入城記でも準備しておいたほうがいい。うまく行きゃ、デリーの赤い城壁まで兵を進めるさ」
この牟田口軍司令官の野心に呼応するかのように、前年の昭和十八年十一月、東京で開催された「大東亜会議」の席上、東條英機首相は、自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班から「インドにわれわれの拠点をつくってほしい」と要請されていた。