鹿児島に着くと、権兵衛と左近充は、自宅を素通りして、まず次の二人の邸宅を訪れ、自分たちの所懐と決意を告げた。
桐野利秋(きりの・としあき=中村半次郎・鹿児島・朝彦親王守衛・禁門の変・戊辰戦争・城下一番小隊長・大総督府軍監・維新後鹿児島常備隊第一大隊長・御親兵・陸軍少将・従五位・鎮西鎮台司令長官・兼陸軍裁判所所長・正五位・・西郷隆盛の下野に従い鹿児島に帰郷・吉野開墾社指導役・出兵・西南戦争・西郷軍総司令兼四番大隊指揮長・政府軍と戦闘・戦死・正五位)。
篠原国幹(しのはら・くにもと・鹿児島・藩校造士館・江戸練兵館・寺田屋騒動・薩英戦争・薩摩藩城下三番小隊長・鳥羽伏見の戦い・維新後鹿児島常備隊第二大隊長・御親兵・陸軍大佐・陸軍少将・近衛局出仕・従五位・近衛長官・西郷隆盛の下野に従い鹿児島に帰郷・鹿児島に私学校設立・出兵・西南戦争・西郷軍一番大隊指揮長・政府軍と戦闘・戦死・正五位)。
桐野も篠原も、べつに反対はせず、むしろ大いに賛同したので、権兵衛と左近允は、その足で武村(現・武町)の西郷邸を訪ねた。
西郷隆盛は、二人を厳しい態度で迎え、お茶の一杯も出さなかった。だが、二人の言うことは、静かに聞いた。また、彼らの質問には誠実に答えた。その後、しばらくの間、黙って考えていたが、次の様に二人を懇々と諭した(要旨)。
「我が国は四面を海に囲まれ、支那及びロシアに接近しちょういもうす。一朝国難が至らば、海軍なしでは手も足も出もはん。おはんらは、ここをよく考え、けっして現下の政治問題などに関与せず、一意専心、国家のために、学業を修めてもらいたか。そいがおいの切望でごわす」。
この西郷の言葉に、権兵衛は深い感銘を受けた。そして、これからは、ひたすら海軍の修業に励み、将来国家のために一身を捧げて奉公する旨を西郷隆盛に誓った。
ところが、左近充隼太は、どうしてもこれを聞き入れようとしなかった。西郷隆盛は、左近充に再三、兵学寮に復帰するよう勧告したが、左近充は、頑として応じなかった。西郷隆盛と生死を共にする決意を変えようとはしなかった。
この場で、翻意をさせるのは無理だと判断した西郷隆盛は、左近充に、それでは、山本権兵衛を京都まで見送った上で、さらにまた帰省する気になったら、そうしても良いと言った。
二人が西郷邸を辞した時は、深夜の十二時を過ぎていた。そのあと二人は、初めてそれぞれの実家に帰り、今回帰郷したいきさつを、家族に話した。
数日後、権兵衛と左近充は、長崎行きの船で鹿児島を出発し、状況の途についた。やがて、京都の宿舎に着き、いよいよ、明日出発という前夜、二人は大議論を始めた。
左近充にしてみれば、「帰郷するとき、将来生死を共にしようと固く誓いながら、たとえ西郷隆盛から諭されたにせよ、権兵衛が友を裏切って、去るとは卑怯ではないか」という思いがあった。
遂に左近充は、激論中、突然立ち上がり、床の間に詰め寄り、そこに置いてあった自分の信玄袋から短刀を取り出して、刺し違えようとまでした。
ところが、どうしたことか、信玄袋を開いてみると、中にあるはずの短刀が見当たらない。さすがの左近充も、気抜けの態で、ぽかんとしていた。
そこで、ここぞとばかり、権兵衛は左近充に対し、事の理議を説き聞かせた。左近充もようやく落ち着いて、権兵衛の説得に耳を傾け、その場では納得したようだった。
二人は翌日出発して帰京し、再び兵学寮で学ぶことになった。権兵衛は、あらかじめ、このことあるを予期して、左近充の短刀を隠していたのだ。
しかし、兵学寮に戻った、左近充は再び考えを改め、退寮して、鹿児島に帰った。どうしても、西郷隆盛と運命を共にしたい、ということだった。左近充は、明治十年の西南戦争で西郷軍として戦い、城山で戦死した。
後年、権兵衛は、この鹿児島帰郷について、長文の手記を書いている。その中で、次のように述懐している。
「予が今日あるは、まったく西郷南洲翁(西郷隆盛)の高論に感じ、深く自覚したる結果にほかならず、ああ、今にして当時を追想すれば、感極まって、言うところを知らず」。
明治七年十一月一日、山本権兵衛、日高壮之丞ら十七名は、海軍兵学寮を二期生として卒業し、海軍少尉補となった。
桐野利秋(きりの・としあき=中村半次郎・鹿児島・朝彦親王守衛・禁門の変・戊辰戦争・城下一番小隊長・大総督府軍監・維新後鹿児島常備隊第一大隊長・御親兵・陸軍少将・従五位・鎮西鎮台司令長官・兼陸軍裁判所所長・正五位・・西郷隆盛の下野に従い鹿児島に帰郷・吉野開墾社指導役・出兵・西南戦争・西郷軍総司令兼四番大隊指揮長・政府軍と戦闘・戦死・正五位)。
篠原国幹(しのはら・くにもと・鹿児島・藩校造士館・江戸練兵館・寺田屋騒動・薩英戦争・薩摩藩城下三番小隊長・鳥羽伏見の戦い・維新後鹿児島常備隊第二大隊長・御親兵・陸軍大佐・陸軍少将・近衛局出仕・従五位・近衛長官・西郷隆盛の下野に従い鹿児島に帰郷・鹿児島に私学校設立・出兵・西南戦争・西郷軍一番大隊指揮長・政府軍と戦闘・戦死・正五位)。
桐野も篠原も、べつに反対はせず、むしろ大いに賛同したので、権兵衛と左近允は、その足で武村(現・武町)の西郷邸を訪ねた。
西郷隆盛は、二人を厳しい態度で迎え、お茶の一杯も出さなかった。だが、二人の言うことは、静かに聞いた。また、彼らの質問には誠実に答えた。その後、しばらくの間、黙って考えていたが、次の様に二人を懇々と諭した(要旨)。
「我が国は四面を海に囲まれ、支那及びロシアに接近しちょういもうす。一朝国難が至らば、海軍なしでは手も足も出もはん。おはんらは、ここをよく考え、けっして現下の政治問題などに関与せず、一意専心、国家のために、学業を修めてもらいたか。そいがおいの切望でごわす」。
この西郷の言葉に、権兵衛は深い感銘を受けた。そして、これからは、ひたすら海軍の修業に励み、将来国家のために一身を捧げて奉公する旨を西郷隆盛に誓った。
ところが、左近充隼太は、どうしてもこれを聞き入れようとしなかった。西郷隆盛は、左近充に再三、兵学寮に復帰するよう勧告したが、左近充は、頑として応じなかった。西郷隆盛と生死を共にする決意を変えようとはしなかった。
この場で、翻意をさせるのは無理だと判断した西郷隆盛は、左近充に、それでは、山本権兵衛を京都まで見送った上で、さらにまた帰省する気になったら、そうしても良いと言った。
二人が西郷邸を辞した時は、深夜の十二時を過ぎていた。そのあと二人は、初めてそれぞれの実家に帰り、今回帰郷したいきさつを、家族に話した。
数日後、権兵衛と左近充は、長崎行きの船で鹿児島を出発し、状況の途についた。やがて、京都の宿舎に着き、いよいよ、明日出発という前夜、二人は大議論を始めた。
左近充にしてみれば、「帰郷するとき、将来生死を共にしようと固く誓いながら、たとえ西郷隆盛から諭されたにせよ、権兵衛が友を裏切って、去るとは卑怯ではないか」という思いがあった。
遂に左近充は、激論中、突然立ち上がり、床の間に詰め寄り、そこに置いてあった自分の信玄袋から短刀を取り出して、刺し違えようとまでした。
ところが、どうしたことか、信玄袋を開いてみると、中にあるはずの短刀が見当たらない。さすがの左近充も、気抜けの態で、ぽかんとしていた。
そこで、ここぞとばかり、権兵衛は左近充に対し、事の理議を説き聞かせた。左近充もようやく落ち着いて、権兵衛の説得に耳を傾け、その場では納得したようだった。
二人は翌日出発して帰京し、再び兵学寮で学ぶことになった。権兵衛は、あらかじめ、このことあるを予期して、左近充の短刀を隠していたのだ。
しかし、兵学寮に戻った、左近充は再び考えを改め、退寮して、鹿児島に帰った。どうしても、西郷隆盛と運命を共にしたい、ということだった。左近充は、明治十年の西南戦争で西郷軍として戦い、城山で戦死した。
後年、権兵衛は、この鹿児島帰郷について、長文の手記を書いている。その中で、次のように述懐している。
「予が今日あるは、まったく西郷南洲翁(西郷隆盛)の高論に感じ、深く自覚したる結果にほかならず、ああ、今にして当時を追想すれば、感極まって、言うところを知らず」。
明治七年十一月一日、山本権兵衛、日高壮之丞ら十七名は、海軍兵学寮を二期生として卒業し、海軍少尉補となった。