この山下大佐は、工廠の業務の無関係な用件で上京したり、近衛公を鎌倉に訪ねて「直接行動による国内改革をやろう」と迫ったとか、そういう話が聞こえてきていた。自宅に青年士官を集めて塾を開いていた。
山下塾に来る青年士官にしてみれば、向かい官舎の井上少将は目障りな存在だった。
先日、彼らは井上参謀長に無断で、大勢で米内光政鎮守府長官の官邸へ押しかけた。志を述べ気勢を上げるつもりが、米内の風格に押されて、何も言えずに引き下がってしまった。
井上参謀長は米内長官が彼らを激励でもしたように誤り伝えられては困ると、各鎮守府要港部に、要注意、事情説明の電報を発信させた。
そのことが彼ら青年士官の癪に障っていたのだ。それで夜更けまで山下塾で昭和維新の理念とかを談じ合ったあと、井上参謀長の門前に腹いせの小便をして帰って行くに違いなかった。
「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、昭和11年の正月、横須賀陸海軍首脳の新年会が、市内の割烹「魚勝」で催された。
酒が大分廻った頃、陸軍の憲兵隊長林少佐が井上参謀長のところへ来て、「こないだ若い士官と会談した後、貴公はあんな電報を打つなんて、余りに神経質だ」で始まり、井上参謀長のことを貴公、貴公と、酒の席とはいえ生意気な呼び方をした。
井上参謀長は「君は少佐ではないか、私は少将だ。少佐のくせに少将を呼ぶのに貴公とは何事だ、海軍ではな、軍艦で士官が酒に酔って後甲板ででくだをまいても、艦長の姿が見えれば、ちゃんと立って敬礼をするんだ。これが軍隊の正しい姿だ。君の様な人間とは一緒に酒は飲まん」と言って席を立った。
井上参謀長が別室でお茶漬けを食べていると、芸者があわただしく飛んできて「参謀長大変です。荒木さん(貞亮海軍少将・砲校長)、柴山さん(昌生海軍少将・人事部長)、が憲兵隊長とけんかしてます」と言ってきた。
井上参謀長が「どっちが勝っているか」ときくと、「憲兵隊長がなぐられています」と言ったので「そんならほうっておけ」と言った。
翌日鎮守府に憲兵隊長が謝罪にやって来た。井上参謀長は「あとであやまらにゃならん様なことをするな」と言って幕が下りた。
昭和12年6月4日、陸軍が押していた五摂家の名家出身の青年貴族、近衛文麿が首班に任命された。
満州事変以来、陸軍のもろもろの策謀が実を結び、組閣後一ヵ月も経たないうちに盧溝橋事件が勃発、日中事変へと発展した。
米内光政大将は近衛内閣で海相として入閣した。次官は山本五十六中将、軍務局長は井上成美少将だった。
井上少将は、陸軍の押す青年宰相、近衛文麿に対し極めて批判的であった。
「あんな男は軍人にしたら大佐どまりほどの頭も無い男で、よく総理大臣が勤まるものだと思う」と部内ではっきりいっている。
「わが祖父井上成美」(徳間書店)によると、井上が軍務局長を務めた期間は、昭和12年10月から14年10月までの二年間である。この期間、米内光政海軍大臣、山本五十六次官、井上成美軍務局長のトリオが最も精力を注いだのが日独伊三国同盟の阻止であった。
三国同盟阻止に三人の中で最も積極的な姿勢を見せたのが井上軍務局長であった。
海軍書記官の榎本重次に山本次官が「世間では自分を三国同盟反対の親玉の如くいうも、根源は井上なり」と語ったことがあるという。
井上自身「思い出の記」の中で次の様に述べている。
「昭和十二、三、四年にまたがる私の軍務局長時代の二年間は、その時間と精力の大半を三国同盟問題に、しかも積極性のある建設的な努力でなしに、ただ陸軍の全軍一致の強力な主張と、これに共鳴する海軍若手の攻勢に対する防御だけに費やされた感アリ」
陸軍との交渉を続けるうちに海軍部内もほとんどが同盟締結に傾いてきた。結局、海軍で反対しているのは大臣、次官、軍務局長の三人だけということになってしまった。
主務局長の神重徳中佐は枢軸論者の急先鋒であった。また、当時は外務省でも枢軸派の官僚が増えていた。
山下塾に来る青年士官にしてみれば、向かい官舎の井上少将は目障りな存在だった。
先日、彼らは井上参謀長に無断で、大勢で米内光政鎮守府長官の官邸へ押しかけた。志を述べ気勢を上げるつもりが、米内の風格に押されて、何も言えずに引き下がってしまった。
井上参謀長は米内長官が彼らを激励でもしたように誤り伝えられては困ると、各鎮守府要港部に、要注意、事情説明の電報を発信させた。
そのことが彼ら青年士官の癪に障っていたのだ。それで夜更けまで山下塾で昭和維新の理念とかを談じ合ったあと、井上参謀長の門前に腹いせの小便をして帰って行くに違いなかった。
「最後の海軍大将井上成美」(文春文庫)によると、昭和11年の正月、横須賀陸海軍首脳の新年会が、市内の割烹「魚勝」で催された。
酒が大分廻った頃、陸軍の憲兵隊長林少佐が井上参謀長のところへ来て、「こないだ若い士官と会談した後、貴公はあんな電報を打つなんて、余りに神経質だ」で始まり、井上参謀長のことを貴公、貴公と、酒の席とはいえ生意気な呼び方をした。
井上参謀長は「君は少佐ではないか、私は少将だ。少佐のくせに少将を呼ぶのに貴公とは何事だ、海軍ではな、軍艦で士官が酒に酔って後甲板ででくだをまいても、艦長の姿が見えれば、ちゃんと立って敬礼をするんだ。これが軍隊の正しい姿だ。君の様な人間とは一緒に酒は飲まん」と言って席を立った。
井上参謀長が別室でお茶漬けを食べていると、芸者があわただしく飛んできて「参謀長大変です。荒木さん(貞亮海軍少将・砲校長)、柴山さん(昌生海軍少将・人事部長)、が憲兵隊長とけんかしてます」と言ってきた。
井上参謀長が「どっちが勝っているか」ときくと、「憲兵隊長がなぐられています」と言ったので「そんならほうっておけ」と言った。
翌日鎮守府に憲兵隊長が謝罪にやって来た。井上参謀長は「あとであやまらにゃならん様なことをするな」と言って幕が下りた。
昭和12年6月4日、陸軍が押していた五摂家の名家出身の青年貴族、近衛文麿が首班に任命された。
満州事変以来、陸軍のもろもろの策謀が実を結び、組閣後一ヵ月も経たないうちに盧溝橋事件が勃発、日中事変へと発展した。
米内光政大将は近衛内閣で海相として入閣した。次官は山本五十六中将、軍務局長は井上成美少将だった。
井上少将は、陸軍の押す青年宰相、近衛文麿に対し極めて批判的であった。
「あんな男は軍人にしたら大佐どまりほどの頭も無い男で、よく総理大臣が勤まるものだと思う」と部内ではっきりいっている。
「わが祖父井上成美」(徳間書店)によると、井上が軍務局長を務めた期間は、昭和12年10月から14年10月までの二年間である。この期間、米内光政海軍大臣、山本五十六次官、井上成美軍務局長のトリオが最も精力を注いだのが日独伊三国同盟の阻止であった。
三国同盟阻止に三人の中で最も積極的な姿勢を見せたのが井上軍務局長であった。
海軍書記官の榎本重次に山本次官が「世間では自分を三国同盟反対の親玉の如くいうも、根源は井上なり」と語ったことがあるという。
井上自身「思い出の記」の中で次の様に述べている。
「昭和十二、三、四年にまたがる私の軍務局長時代の二年間は、その時間と精力の大半を三国同盟問題に、しかも積極性のある建設的な努力でなしに、ただ陸軍の全軍一致の強力な主張と、これに共鳴する海軍若手の攻勢に対する防御だけに費やされた感アリ」
陸軍との交渉を続けるうちに海軍部内もほとんどが同盟締結に傾いてきた。結局、海軍で反対しているのは大臣、次官、軍務局長の三人だけということになってしまった。
主務局長の神重徳中佐は枢軸論者の急先鋒であった。また、当時は外務省でも枢軸派の官僚が増えていた。