陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

242.山口多聞海軍中将(2) 七割の代表は山口君、パリティの代表は草鹿君

2010年11月12日 | 山口多聞海軍中将
 明治四十五年七月十七日、山口多聞(海大二四恩賜・中将)は海軍兵学校(四〇期)を卒業した。卒業時の席次は百四十四名中の二番だった。首席は岡新(海大二二首席・中将)、三番が浜田邦雄(爆発事故で死去・大尉)、四番が多田武雄(中将・海軍次官)で、以上の四名が恩賜の短剣を拝受した。

 ちなみに福留繁(海大二四・中将)は八番、宇垣纏(海大二二・中将)は九番、久重一郎(少将)は十五番、大西瀧治郎(中将)は二十番、寺岡謹平(海大二四・中将)は六十五番だった。

 大正八年十二月一日、山口大尉は、海軍水雷学校高等科学生となり、大正九年十一月末に同校を卒業した。

 ついで、語学と国情研究という目的で米国駐在を仰せ付けられ、大正十年二月ニューヨークとフィラデルフィアの中間にあるプリンストン大学に入学した。このとき山口大尉は二十九歳だった。

 大正十二年三月、米国駐在を終わって帰国した山口大尉は、四月に連合艦隊の旗艦長門の水雷科分隊長に任命された。

 水雷分隊士の寺崎隆治少尉(海兵五〇・大佐・「最後の連合艦隊司令長官」著者)は、山口大尉が海軍兵学校を二番で卒業し、米国駐在をしたエリートなので、付き合いにくい人物だろうと思っていた。

 だが、実際には気さくで、話がわかるし、兵器の整備や部下の教育訓練を分隊員たちと一緒になって熱心にやるので、敬服した。

 大正十三年十二月一日、山口少佐は海軍大学校甲種学生になった。山口少佐ら第二十四期甲種学生の学生数は二十名だった。

 学生長は海兵三十九期の原忠一少佐(後の中将)、山口少佐と同期の海兵四十期は福留繁少佐(後の中将)、寺岡謹平少佐(後の中将)、海兵四十一期は草鹿龍之介大尉(後の中将)、橋本信太郎大尉(後の中将)、海兵四十二期の小柳富次大尉(後の中将)らがいた。

 草鹿龍之介は戦後、昭和四十八年に「一海軍士官の半生記」(光和堂)という本を出版している。この本によると、海軍大学校の甲種学生時代に、教官の嶋田繁太郎大佐(海兵三二・海大一三・大将・海軍大臣・軍令部総長)が「次の軍縮会議には、日本は如何なる案を持って臨む可きか」という作業課題を課した。

 これは、「英米に対して如何なる比率を主張すべきか」というものだった。草鹿大尉は次の様な意見を述べた。

 「外交折衝により比率を決定するならば、当然パリティ(均等)でなければならぬ。それは何よりも、決戦場裡に全力を集中するということは、戦略の原則である。アメリカのマハンの『海軍戦略』にも結論として『兵力の集中、意思の集中』と書いてあるではないか。いやしくも海軍から出す原案は、当然パリティである」

 ところが、既にアメリカ駐在を終えたからか、山口多聞少佐は七割論を出した。嶋田教官は「諸君の答案を見たが、大別して七割論とパリティになる。教官の意見を出すのは暫く待つとして、双方から一人代表者を出して、この教室において討議することにする。七割の代表は山口君、パリティの代表は草鹿君」と言った。

 そこで二人は議論をした。草鹿大尉は「どうも我田引水かも知れぬが、私の方が理路整然としていたと思う」と述べている。だが、いつ決着するか議論は果てなかった。

 とうとう嶋田教官は論争の中止を命じて、自分の原案を示すと言った。その原案は何と「八割」であった。草鹿大尉は「これはちと教官は狡い」と思った。

 卒業前になると大規模な兵棋演習と図演が行われる。両者とも山口少佐が青軍指揮官で、草鹿大尉が赤軍指揮官だった。勝敗は両方とも草鹿大尉のほうが有利であったという。

 「父・山口多聞」(山口宗敏・光人社)によると、著者の山口宗敏は山口多聞の三男だが、「父が海大に通っていた頃」の話を記している。

 山口多聞少佐が家を出て市ヶ谷辺りに差し掛かると、早足でスタスタ歩いていく一人の東京帝国大学の学生がいた。

 彼の歩き方はごく普通で、とくに急いでいるとか、早足で歩いているとか、そういう風には見えなかったのだが、とにかく普通の人よりずば抜けて早かった。

 山口少佐も決して遅いほうではなかった、並に歩いていると、いつのまにか彼に追い抜かれてしまう。ここで山口少佐の負けん気がムラムラと台頭してきた。なにくそと、気を入れ直して一気呵成に東大生を追い抜き、追い抜きざまに相手をジロリとにらんでやった。

 ところが、その東大生も負けん気が相当なものだった。足音もたてずに、す、すうっ、と足早に山口少佐を抜き返して行った。お互いに、こうして抜きつ抜かれつする事が、それから何回もあった。

 このことは、どちらにとっても後々印象に残った。この東大生は、実は山口少佐の姉の嫁ぎ先である三好家とじっこんの間柄で、毎年夏になると軽井沢で三好家とこの東大生の家族は親しくしていた。この東大生はのちに山一證券の社長となった小池厚之介だった。

 山口少佐は、歩くことでも、食べることでも、何でもとにかく人に負けることが大嫌いだった。