シンガポール総攻撃」(岩畔豪雄・光人社NF文庫)によると、この、第二十五軍司令部と近衛師団司令部の感情的な対立は、開戦以来、慢性的に進行していたが、ジョホール水道渡河問題を契機として破局的な様相を呈するに至った。
それは、軍司令官・山下中将と、近衛師団長・西村琢磨中将との間柄は、昭和十一年二月に勃発した二・二六事件以来悪化した。
二・二六事件当時、陸軍省調査部長だった山下奉文少将が反乱軍に対して好意的であるという見方は、当時の陸軍中央部内に知れ渡っていた。
陸軍省兵務課長の職にあり、軍規を取り締まり、憲兵を指導し、軍法会議の運営方針に参加していた西村大佐が山下少将を危険人物視して憲兵を使いその身辺を監視させたことがあった。
西村大佐のこの措置は、西村大佐個人の感情や意思から発したものではなく、当時の陸軍中央部の空気を反映したものだった。過激な皇道派に対して、それを監視する軍中央幕僚の統制的な動きの一環だった。
だが、これ以後、山下少将と西村大佐の感情のもつれは解けなかった。
太平洋戦争開始と共に、近衛師団司令部は、まずタイ国に進入し、約四週間、バンコックに滞在した。昭和十六年十二月中旬頃、ビルマ作戦を担当する第十五軍司令部が、同市に前進してきた。
第十五軍司令官・飯田祥二郎中将と西村中将は親交があった。西村中将は飯田中将をしばしば訪れて、山下将軍の隷下に入ることをこころよく思わず、近衛師団を第十五軍隷下に転属するよう飯田中将に具申したという噂が、近衛師団参謀長・今井大佐の口から漏れた。
近衛師団長・西村中将と、師団参謀長・今井大佐も犬猿の仲であった。師団長と参謀長が話しているところを見た者はほとんどいなかった。参謀長が師団長に計画案を説明することも無かった。
師団司令部がバンコックの工業学校の校舎に置かれたとき、長い建物の両端に師団長室と参謀長室が設けられた。通常は師団長室の近くに参謀長室は設置されるものだった。
昭和十七年二月十五日、山下中将が指揮した二十五軍は、マレー作戦で、遂にシンガポールを陥落させた。
シンガポールが陥落し、マレー作戦が終了後、山下軍司令官は隷下部隊に感状を授けたが、三個師団のうち、その栄誉から除外されたのは、近衛師団だけだった。
その後間もなく、近衛師団の西村師団長は昭和十七年四月二十日に陸軍兵器本廠附になり、七月十五日予備役を仰せ付けられた。
戦後、山下大将も、西村琢磨中将も、ともに戦犯容疑で軍事裁判にかけられ、山下大将は昭和二十一年二月二十三日、西村中将は昭和二十六年六月十一日、処刑された。
「将軍はなぜ殺されたか」(イアン・ウォード・鈴木正徳訳・原書房)によると、山下大将がマニラの軍事法廷にかけられ昭和二十一年二月二十三日、絞首刑により処刑されたことで、オーストラリア軍高官らは、明らかに、西村琢磨中将を、マレー方面での戦争裁判で山下大将に代わる標的と見るようになった。
西村中将は、彼らから見ると、天皇ヒロヒトのエリート軍隊である近衛師団の師団長だ。西村中将の指揮の下、近衛師団はジョホール西部のオーストラリア部隊を打ち破り、続いてシンガポールの北部防衛線を守っていたオーストラリア第二十七旅団を敗走させた。
西村中将が裁判のためにパプアニューギニアのアドミラリティ諸島にあるロスネグロス島に到着すると、オーストラリアの新聞は西村中将を山下大将の「首席補佐官」「一番の腹心」と書くようになった。
だが、事実は新聞と異なり、二人は長年のライバルだったし、二・二六事件以来、対立していた。当時、山下大将は皇道派であり、西村中将は東條英機の系列で統制派に属していた。
従って、マレー作戦中も二人は対立していたのであり、新聞が報道した、「首席補佐官」「一番の腹心」などとはかけ離れた関係だった。
だが、両者を意図的に結びつけることはマレー作戦の敵として、西村中将を責める上には役立った。オーストラリアの新聞は、やがて西村中将を「第二のマレーの虎」と書くようになった。
裁判所が西村中将に絞首刑の判決を言い渡した次の日、メルボルン・ヘラルドが掲載した社説はよくオーストラリアの国民感情を言い表していた。「死刑判決は正しい」という見出しで、次のように書かれていた。
「マレーで百四十五人の戦争捕虜を殺害した罪で、日本の西村中将に死刑判決が言い渡された。これは文明社会が十分正当化できるとみるに違いない」。
それは、軍司令官・山下中将と、近衛師団長・西村琢磨中将との間柄は、昭和十一年二月に勃発した二・二六事件以来悪化した。
二・二六事件当時、陸軍省調査部長だった山下奉文少将が反乱軍に対して好意的であるという見方は、当時の陸軍中央部内に知れ渡っていた。
陸軍省兵務課長の職にあり、軍規を取り締まり、憲兵を指導し、軍法会議の運営方針に参加していた西村大佐が山下少将を危険人物視して憲兵を使いその身辺を監視させたことがあった。
西村大佐のこの措置は、西村大佐個人の感情や意思から発したものではなく、当時の陸軍中央部の空気を反映したものだった。過激な皇道派に対して、それを監視する軍中央幕僚の統制的な動きの一環だった。
だが、これ以後、山下少将と西村大佐の感情のもつれは解けなかった。
太平洋戦争開始と共に、近衛師団司令部は、まずタイ国に進入し、約四週間、バンコックに滞在した。昭和十六年十二月中旬頃、ビルマ作戦を担当する第十五軍司令部が、同市に前進してきた。
第十五軍司令官・飯田祥二郎中将と西村中将は親交があった。西村中将は飯田中将をしばしば訪れて、山下将軍の隷下に入ることをこころよく思わず、近衛師団を第十五軍隷下に転属するよう飯田中将に具申したという噂が、近衛師団参謀長・今井大佐の口から漏れた。
近衛師団長・西村中将と、師団参謀長・今井大佐も犬猿の仲であった。師団長と参謀長が話しているところを見た者はほとんどいなかった。参謀長が師団長に計画案を説明することも無かった。
師団司令部がバンコックの工業学校の校舎に置かれたとき、長い建物の両端に師団長室と参謀長室が設けられた。通常は師団長室の近くに参謀長室は設置されるものだった。
昭和十七年二月十五日、山下中将が指揮した二十五軍は、マレー作戦で、遂にシンガポールを陥落させた。
シンガポールが陥落し、マレー作戦が終了後、山下軍司令官は隷下部隊に感状を授けたが、三個師団のうち、その栄誉から除外されたのは、近衛師団だけだった。
その後間もなく、近衛師団の西村師団長は昭和十七年四月二十日に陸軍兵器本廠附になり、七月十五日予備役を仰せ付けられた。
戦後、山下大将も、西村琢磨中将も、ともに戦犯容疑で軍事裁判にかけられ、山下大将は昭和二十一年二月二十三日、西村中将は昭和二十六年六月十一日、処刑された。
「将軍はなぜ殺されたか」(イアン・ウォード・鈴木正徳訳・原書房)によると、山下大将がマニラの軍事法廷にかけられ昭和二十一年二月二十三日、絞首刑により処刑されたことで、オーストラリア軍高官らは、明らかに、西村琢磨中将を、マレー方面での戦争裁判で山下大将に代わる標的と見るようになった。
西村中将は、彼らから見ると、天皇ヒロヒトのエリート軍隊である近衛師団の師団長だ。西村中将の指揮の下、近衛師団はジョホール西部のオーストラリア部隊を打ち破り、続いてシンガポールの北部防衛線を守っていたオーストラリア第二十七旅団を敗走させた。
西村中将が裁判のためにパプアニューギニアのアドミラリティ諸島にあるロスネグロス島に到着すると、オーストラリアの新聞は西村中将を山下大将の「首席補佐官」「一番の腹心」と書くようになった。
だが、事実は新聞と異なり、二人は長年のライバルだったし、二・二六事件以来、対立していた。当時、山下大将は皇道派であり、西村中将は東條英機の系列で統制派に属していた。
従って、マレー作戦中も二人は対立していたのであり、新聞が報道した、「首席補佐官」「一番の腹心」などとはかけ離れた関係だった。
だが、両者を意図的に結びつけることはマレー作戦の敵として、西村中将を責める上には役立った。オーストラリアの新聞は、やがて西村中将を「第二のマレーの虎」と書くようになった。
裁判所が西村中将に絞首刑の判決を言い渡した次の日、メルボルン・ヘラルドが掲載した社説はよくオーストラリアの国民感情を言い表していた。「死刑判決は正しい」という見出しで、次のように書かれていた。
「マレーで百四十五人の戦争捕虜を殺害した罪で、日本の西村中将に死刑判決が言い渡された。これは文明社会が十分正当化できるとみるに違いない」。