井上が兵学校長在任中にまとめた「教育漫語」は、教育論として有名であるが、その中に「成績は優秀ナレ、但シ席次ハ争フベカラズ」とある。
また、「学校成績の権威」という小論文でも、兵学校での席次と、以後の昇進との相関関係を算出して、0.506という数字を示している。
このことは、兵学校のハンモックナンバーは、任官後の昇進に50%の影響しか与えず、残り50%はその後の努力によるとしたものである。
昭和19年3月22日、天皇の名代である高松宮宣仁(のぶひと)親王大佐(兵学校52期)臨席のもとに、海軍兵学校73期の卒業式が行なわれた。
そのあと井上校長は「御殿」と称した宮の宿に招かれ、夕食をともにした。そのとき、宮から「教育年限をもっと短縮できないか」と問われた。
井上校長はすかさず「その御下問は宮様としてでございますか、軍令部員としてでございますか」と問い返した。
「無論後者である」との答えを得たうえで、井上校長は「お言葉ですが、これ以上短くすることは御免こうむります」とはっきり断った。
宮は「そうか、そうか」とうなずいていた。兵学校の年限短縮の問題は、宮自身の考えではなく、軍令部あたりの者が宮に頼んで、頑固な井上を動かそうとした。
彼らは前線で士官が不足して困っているときに、井上校長が卒業を早めることに反対するのを怒っていたようだ。ひそかに井上校長を国賊という者もいた。
昭和19年8月5日、井上中将は米内光政海軍大臣に説得されて海軍兵学校長から海軍次官に就任した。
ところがその年の12月、米内光政海軍大臣は井上次官と二人きりになったとき、突然切り出したのである。
「おい、ゆずるぞ」
「何をですか」
「大臣をさ」
「誰にですか」
「お前にゆずるぞ」
「とんでもない、なぜそんなことを言うんですか」
「おれは、くたびれた」
「陛下のご信任で小磯さんとともに内閣をつくった人が、くたびれたくらいのことで辞めるなんていう手がありますか。今は国民みな、命をかけて戦をしているんではないですか。少なくとも私は絶対引き受けませんよ」
「大臣をゆずる」「だめです」の話はその後、昭和20年1月10日にもう一度あった。
高木惣吉はその時のことを「井上海軍次官談」としてメモにしている。それによると井上次官は次の様に話したという。
「米内様は冗談のように、後は貴様やれと言われるが、井上が鰻上りに上がるのは絶対にいかん」
「これは理屈ではなく、貫禄の問題だ。大臣がどうしても残られぬ場合は長谷川様(長谷川清大将・軍事参議官)にでもやってもらう外あるまい」
昭和20年3月半ば、官邸で米内大臣は井上次官に
「おい、大将にするぞ」
「誰のことですか」
「塚原(二四三中将・横須賀鎮守府長官)と君の二人だ、四月一日付だ」
井上次官は、唖然として拒否した。大将昇進は見送りになった。塚原が「井上のおかげで、俺は大将になりそこなった」と言ったという噂も聞こえてきた。
その後5月7、8日頃、大臣室に呼ばれた井上次官に、米内大臣は、
「陛下のご裁可があった」とひと言いった。
「何をですか」
「君と塚原との大将昇進をだよ」
こうして、井上中将は5月15日、次官を辞め、大将に昇進し軍事参義官になった。
井上は次官のまま、早期終戦の実現に尽力したいと考えていたので次官を辞めるつもりは無かった。
ではどうして米内大臣は今まで盟友の契りを結んできた井上を更迭したのか。
また、「学校成績の権威」という小論文でも、兵学校での席次と、以後の昇進との相関関係を算出して、0.506という数字を示している。
このことは、兵学校のハンモックナンバーは、任官後の昇進に50%の影響しか与えず、残り50%はその後の努力によるとしたものである。
昭和19年3月22日、天皇の名代である高松宮宣仁(のぶひと)親王大佐(兵学校52期)臨席のもとに、海軍兵学校73期の卒業式が行なわれた。
そのあと井上校長は「御殿」と称した宮の宿に招かれ、夕食をともにした。そのとき、宮から「教育年限をもっと短縮できないか」と問われた。
井上校長はすかさず「その御下問は宮様としてでございますか、軍令部員としてでございますか」と問い返した。
「無論後者である」との答えを得たうえで、井上校長は「お言葉ですが、これ以上短くすることは御免こうむります」とはっきり断った。
宮は「そうか、そうか」とうなずいていた。兵学校の年限短縮の問題は、宮自身の考えではなく、軍令部あたりの者が宮に頼んで、頑固な井上を動かそうとした。
彼らは前線で士官が不足して困っているときに、井上校長が卒業を早めることに反対するのを怒っていたようだ。ひそかに井上校長を国賊という者もいた。
昭和19年8月5日、井上中将は米内光政海軍大臣に説得されて海軍兵学校長から海軍次官に就任した。
ところがその年の12月、米内光政海軍大臣は井上次官と二人きりになったとき、突然切り出したのである。
「おい、ゆずるぞ」
「何をですか」
「大臣をさ」
「誰にですか」
「お前にゆずるぞ」
「とんでもない、なぜそんなことを言うんですか」
「おれは、くたびれた」
「陛下のご信任で小磯さんとともに内閣をつくった人が、くたびれたくらいのことで辞めるなんていう手がありますか。今は国民みな、命をかけて戦をしているんではないですか。少なくとも私は絶対引き受けませんよ」
「大臣をゆずる」「だめです」の話はその後、昭和20年1月10日にもう一度あった。
高木惣吉はその時のことを「井上海軍次官談」としてメモにしている。それによると井上次官は次の様に話したという。
「米内様は冗談のように、後は貴様やれと言われるが、井上が鰻上りに上がるのは絶対にいかん」
「これは理屈ではなく、貫禄の問題だ。大臣がどうしても残られぬ場合は長谷川様(長谷川清大将・軍事参議官)にでもやってもらう外あるまい」
昭和20年3月半ば、官邸で米内大臣は井上次官に
「おい、大将にするぞ」
「誰のことですか」
「塚原(二四三中将・横須賀鎮守府長官)と君の二人だ、四月一日付だ」
井上次官は、唖然として拒否した。大将昇進は見送りになった。塚原が「井上のおかげで、俺は大将になりそこなった」と言ったという噂も聞こえてきた。
その後5月7、8日頃、大臣室に呼ばれた井上次官に、米内大臣は、
「陛下のご裁可があった」とひと言いった。
「何をですか」
「君と塚原との大将昇進をだよ」
こうして、井上中将は5月15日、次官を辞め、大将に昇進し軍事参義官になった。
井上は次官のまま、早期終戦の実現に尽力したいと考えていたので次官を辞めるつもりは無かった。
ではどうして米内大臣は今まで盟友の契りを結んできた井上を更迭したのか。