「戦争と人間の記録バターン戦」(御田重宝・徳間書店)によると、バターン戦の初期作戦について、厳しい批判をしたのは第一四軍司令官・本間雅晴中将だった。
米国流の温厚な将軍と見られていた風評とは違い、非難に満ちた日記を書き残している。本間中将の一月十一日の日記には次の様な記述がある。
「夕刻帰ってきた佐藤参謀の報告によると、奈良兵団第一線は一つ手前の敵陣地に終日引っかかっていて、敵の十五センチカノン(砲)に痛めつけられているよし。がっかりした。武智大佐、初陣に道を誤り。松原大隊を除き、わが第二線の位置に舞い戻って好機を逸し、受功のいい機会を失った。ダメなヤツだ」。
日記中の奈良兵団は、奈良晃中将(陸士二三・陸大三二・第一六方面軍兵務部長)の率いる第六五旅団(福山)で、第一四軍の指揮下、バターン攻撃に参加した。
事実はカノン砲に痛めつけられて進めなかったのではなく、バターン半島の米比軍の陣地が本格的なものであったので前進できなかった。
日記の中の佐藤参謀は、第一四軍作戦参謀・佐藤徳太郎少佐のことで、陸士四十一期、陸大四十九期卒。フィリピン作戦後は陸軍大学校教官、第一一方面軍参謀を勤め陸軍中佐で終戦。戦後陸上自衛隊に入隊し、幹部学校副校長、第六管区副総監を経て陸将補で退官後、防衛大教授等を歴任している。著書に、「戦争概論」(アントワーヌ・アンリジョミニ・佐藤徳太郎訳・中公文庫)、「近代西欧先史」(原書房)等がある。
武智大佐は、武智漸大佐で、陸士二十三期。当時、第一四軍隷下の第十六師団所属の歩兵第九連隊長は、上島良雄大佐(陸士二六)だったが、昭和十六年十二月三十日戦死したので、その後任として武智大佐が第九連隊長に補任された。昭和十七年十一月八日フィリピンで戦死。
武智大佐が連隊長になった初陣がバターン攻撃だった。本間中将が、せっかく手柄を立てさせてやろうと思って行かせたのに、道に迷って、だめなヤツだということなのだ。
この第九連隊はこの後も、大切な時にジャングルの中に消えてしまい、何日間も連絡のなかったことがあり、バターン半島の初期作戦ではミスが多かった。「敵のいない所ばかり進んでいた連隊だ」と風評が立った。
さらに、本間中将の一月十二日の日記には次の様な記述がある。
「奈良兵団、進捗せず。膠着せるがごとく憤激の到りだ。優勢な兵力を持っていて何をしているか」
膠着(こうちゃく)の意味は「粘りつくこと」。第一線の実情を知らない本間軍司令官は、はるか後方のサンフェルナンドの軍司令部で、憤まんをぶちまけていた。さらに次のようにも記している。
「私はこの二十日の誕生日までに、この敵を壊滅し、第四八師団の転進(ジャワへの転進)に先立ち、入城式(本間軍司令官はまだマニラ市に入っていなかった)、同日慰霊祭をやろうとしているのだ」。
本間軍司令官の日記には、第六五旅団に対して厳しい批判をしている。一方、第六十五旅団の兵士も本間軍司令官に対し批判的だった。
第六五旅団野戦病院にいた多田兵長は「本間のバカが、こんな戦争をやらせやがる、と兵隊はみんな言っていた」と述べている。ひどい戦闘を強いられた腹いせだった。
バターン半島の戦闘はこちらが小銃一発撃つと十発もお返しが来た。夜行軍をやれば曳光弾が飛んでくるし、ヤシの木の上にはマイクが付けてあり、日本軍の行動は筒抜けだった。
敵の重砲は、コレヒドール島要塞から飛んできた。とにかく大きな弾で、弾が落ちるとそこに水溜りができて、水牛が泳いでいたほどだった。戦死者が多数出て初期のバターン戦は、日本軍は苦戦した。
第一四軍は膠着状態のバターン半島攻撃の打開策を練るため、本間軍司令官の発案で、昭和十七年二月八日、サンフェルナンドの戦闘指令所で作戦会議を開いた。
この席上で次の二案が論議された。(甲案)いぜん攻撃を続行する。(乙案)一時態勢を整理して増援兵力の到着を待ち、攻撃を再興する。
甲案の主張者は、第一課高級参謀・中山源夫大佐(陸士三二・陸大四一・少将・第一二軍参謀長)で、作戦参謀・佐藤徳太郎少佐が支持した。乙案の主張者は軍参謀長・前田正実中将と作戦主任参謀・牧達夫中佐だった。
論議の結果、最終的に乙案に決まったが、本間軍司令官は、攻撃続行の思いであったが、論議の結果を尊重し、しぶしぶ了承、第一線部隊に態勢の整理を発令した。
第一線部隊は攻撃を中止した。だが、第一四軍は、その後も、バターン攻撃か、封鎖かで動揺し、思い切りの悪い統帥となった。
米国流の温厚な将軍と見られていた風評とは違い、非難に満ちた日記を書き残している。本間中将の一月十一日の日記には次の様な記述がある。
「夕刻帰ってきた佐藤参謀の報告によると、奈良兵団第一線は一つ手前の敵陣地に終日引っかかっていて、敵の十五センチカノン(砲)に痛めつけられているよし。がっかりした。武智大佐、初陣に道を誤り。松原大隊を除き、わが第二線の位置に舞い戻って好機を逸し、受功のいい機会を失った。ダメなヤツだ」。
日記中の奈良兵団は、奈良晃中将(陸士二三・陸大三二・第一六方面軍兵務部長)の率いる第六五旅団(福山)で、第一四軍の指揮下、バターン攻撃に参加した。
事実はカノン砲に痛めつけられて進めなかったのではなく、バターン半島の米比軍の陣地が本格的なものであったので前進できなかった。
日記の中の佐藤参謀は、第一四軍作戦参謀・佐藤徳太郎少佐のことで、陸士四十一期、陸大四十九期卒。フィリピン作戦後は陸軍大学校教官、第一一方面軍参謀を勤め陸軍中佐で終戦。戦後陸上自衛隊に入隊し、幹部学校副校長、第六管区副総監を経て陸将補で退官後、防衛大教授等を歴任している。著書に、「戦争概論」(アントワーヌ・アンリジョミニ・佐藤徳太郎訳・中公文庫)、「近代西欧先史」(原書房)等がある。
武智大佐は、武智漸大佐で、陸士二十三期。当時、第一四軍隷下の第十六師団所属の歩兵第九連隊長は、上島良雄大佐(陸士二六)だったが、昭和十六年十二月三十日戦死したので、その後任として武智大佐が第九連隊長に補任された。昭和十七年十一月八日フィリピンで戦死。
武智大佐が連隊長になった初陣がバターン攻撃だった。本間中将が、せっかく手柄を立てさせてやろうと思って行かせたのに、道に迷って、だめなヤツだということなのだ。
この第九連隊はこの後も、大切な時にジャングルの中に消えてしまい、何日間も連絡のなかったことがあり、バターン半島の初期作戦ではミスが多かった。「敵のいない所ばかり進んでいた連隊だ」と風評が立った。
さらに、本間中将の一月十二日の日記には次の様な記述がある。
「奈良兵団、進捗せず。膠着せるがごとく憤激の到りだ。優勢な兵力を持っていて何をしているか」
膠着(こうちゃく)の意味は「粘りつくこと」。第一線の実情を知らない本間軍司令官は、はるか後方のサンフェルナンドの軍司令部で、憤まんをぶちまけていた。さらに次のようにも記している。
「私はこの二十日の誕生日までに、この敵を壊滅し、第四八師団の転進(ジャワへの転進)に先立ち、入城式(本間軍司令官はまだマニラ市に入っていなかった)、同日慰霊祭をやろうとしているのだ」。
本間軍司令官の日記には、第六五旅団に対して厳しい批判をしている。一方、第六十五旅団の兵士も本間軍司令官に対し批判的だった。
第六五旅団野戦病院にいた多田兵長は「本間のバカが、こんな戦争をやらせやがる、と兵隊はみんな言っていた」と述べている。ひどい戦闘を強いられた腹いせだった。
バターン半島の戦闘はこちらが小銃一発撃つと十発もお返しが来た。夜行軍をやれば曳光弾が飛んでくるし、ヤシの木の上にはマイクが付けてあり、日本軍の行動は筒抜けだった。
敵の重砲は、コレヒドール島要塞から飛んできた。とにかく大きな弾で、弾が落ちるとそこに水溜りができて、水牛が泳いでいたほどだった。戦死者が多数出て初期のバターン戦は、日本軍は苦戦した。
第一四軍は膠着状態のバターン半島攻撃の打開策を練るため、本間軍司令官の発案で、昭和十七年二月八日、サンフェルナンドの戦闘指令所で作戦会議を開いた。
この席上で次の二案が論議された。(甲案)いぜん攻撃を続行する。(乙案)一時態勢を整理して増援兵力の到着を待ち、攻撃を再興する。
甲案の主張者は、第一課高級参謀・中山源夫大佐(陸士三二・陸大四一・少将・第一二軍参謀長)で、作戦参謀・佐藤徳太郎少佐が支持した。乙案の主張者は軍参謀長・前田正実中将と作戦主任参謀・牧達夫中佐だった。
論議の結果、最終的に乙案に決まったが、本間軍司令官は、攻撃続行の思いであったが、論議の結果を尊重し、しぶしぶ了承、第一線部隊に態勢の整理を発令した。
第一線部隊は攻撃を中止した。だが、第一四軍は、その後も、バターン攻撃か、封鎖かで動揺し、思い切りの悪い統帥となった。