大正四年六月七日、海軍次官・鈴木少将は良縁を得て新夫人を迎えた。夫人は新渡戸稲造博士(札幌農学校二期生・東京帝大選科・東京帝大教授・貴族院議員)らと同学の農商務省横浜生糸研究所技師・足立元太郎の令嬢で、名はたか、三十二歳だった。鈴木少将は四十七歳だった。
たか夫人は東京女子師範保姆(ほぼ)科を卒業後、皇太子裕仁親王(昭和天皇)の哺育に奉仕していた。
大正四年八月、鈴木少将は高等官一等になった。それで大正五年四月には論功行賞があり、勲一等旭日大綬章を拝受した。高等官一等で海軍次官として授与されたが、今まで少将でこの勲章をもらった例はなかった。
当時は日独戦争中であり、ロシアから皇族が日本に派遣された。同盟の謝意を表すための使いであった。
皇族の殿下一行は朝鮮を経由して日本に来た。朝鮮では、日本の陸海軍の将官が案内役で随行した。
ロシアの殿下は日本の大官達に、各種の勲章を贈与するために持ってきていた。海軍次官・鈴木少将も授章名簿の中に加えられていた。
それで、日本帝国陸海軍大臣、次官には、日本の勲一等に相当するものを贈る予定だった。参謀次長、軍令部次長に対しては、その次の勲章が予定されていた。
ところが、朝鮮から随行して来た陸軍将官が、それでは具合が悪い。陸軍参謀次長・田中義一中将(陸士旧八・陸大八・陸相・首相・男爵)には是非良い勲章を与えるべきであると進言したので、ロシアの殿下は日本に着いて、田中参謀次長に良い勲章を贈った。
そこで、殿下が携帯してきた予定の勲章に不足が生じた。その時、鈴木海軍次官は、まだ少将だったので、その次の勲章を貰ってくれないかと、随行の海軍将官が内意を告げに来た。
ロシアでは、次長より次官の方が上であったので、その順序で予定されていた勲章を、陸軍の将官が田中参謀次長に横取りするように小細工を弄したのだった。
そこで鈴木次官は、その随行の海軍将官に、陸軍次官はどういう勲章を貰っているかと訊いたら、やはり最高の勲章を貰っていると答えた。
それを聞いて、鈴木次官は「今、海軍次官として在任しているのだから、陸軍次官が最高のものなら、同じものをあてられるのなら異存はないが、その下の勲章をあてられるのならば、海軍の面目に関することであるから、ご辞退する。のみならず、自分としては外国勲章は頂戴したくない」と言って断った。
すると、ロシアの使節は非常に困却した。そういう場合に勲章を辞退されると、使節の役目を果たさないという風に考えた。
そこで周りの海軍将官から「まあ我慢して、貰ったらよかろう」と説得されたが、鈴木次官は「私は海軍次官という務めに対して受け取り難い」と固く主張した。
それで、ロシア使節から最高の随行委員が、「使節が帰国後に、上級の勲章を鈴木次官に贈ることを約束するから、承知してくれ」という意味の手紙を持って、海軍省の鈴木次官を訪ねてきた。
鈴木次官は「それまでご心配下さることは甚だ恐縮であるが、他日陸軍次官と同じ勲章を贈られることなれば、有難くお受けしましょう」と快く返事をした。数ヵ月後その勲章がロシア政府から外務省を経て鈴木次官に届けられた。
大正六年六月一日、海軍中将に進級した鈴木貫太郎は、九月一日海軍次官を免ぜられ、練習艦隊司令官に補せられた。五十歳だった。
大正七年三月、練習艦隊は候補生を乗せて遠洋航海に出発した。横須賀を出て、サンフランシスコ、ロスアンゼルス、サンディゴ、メキシコナドなどアメリカ方面への練習航海だった。
サンフランシスコでもロスアンゼルスでも大歓迎を受けた。市の歓迎会で数百人の人が集まって、練習艦隊の高等官を招待してくれた。
そのたびに米国人がテーブル・スピーチをする。鈴木中将らには一向にその英語のスピーチが分からなかった。鈴木中将は練習艦隊司令官として何かやらねばならぬと思った。
たか夫人は東京女子師範保姆(ほぼ)科を卒業後、皇太子裕仁親王(昭和天皇)の哺育に奉仕していた。
大正四年八月、鈴木少将は高等官一等になった。それで大正五年四月には論功行賞があり、勲一等旭日大綬章を拝受した。高等官一等で海軍次官として授与されたが、今まで少将でこの勲章をもらった例はなかった。
当時は日独戦争中であり、ロシアから皇族が日本に派遣された。同盟の謝意を表すための使いであった。
皇族の殿下一行は朝鮮を経由して日本に来た。朝鮮では、日本の陸海軍の将官が案内役で随行した。
ロシアの殿下は日本の大官達に、各種の勲章を贈与するために持ってきていた。海軍次官・鈴木少将も授章名簿の中に加えられていた。
それで、日本帝国陸海軍大臣、次官には、日本の勲一等に相当するものを贈る予定だった。参謀次長、軍令部次長に対しては、その次の勲章が予定されていた。
ところが、朝鮮から随行して来た陸軍将官が、それでは具合が悪い。陸軍参謀次長・田中義一中将(陸士旧八・陸大八・陸相・首相・男爵)には是非良い勲章を与えるべきであると進言したので、ロシアの殿下は日本に着いて、田中参謀次長に良い勲章を贈った。
そこで、殿下が携帯してきた予定の勲章に不足が生じた。その時、鈴木海軍次官は、まだ少将だったので、その次の勲章を貰ってくれないかと、随行の海軍将官が内意を告げに来た。
ロシアでは、次長より次官の方が上であったので、その順序で予定されていた勲章を、陸軍の将官が田中参謀次長に横取りするように小細工を弄したのだった。
そこで鈴木次官は、その随行の海軍将官に、陸軍次官はどういう勲章を貰っているかと訊いたら、やはり最高の勲章を貰っていると答えた。
それを聞いて、鈴木次官は「今、海軍次官として在任しているのだから、陸軍次官が最高のものなら、同じものをあてられるのなら異存はないが、その下の勲章をあてられるのならば、海軍の面目に関することであるから、ご辞退する。のみならず、自分としては外国勲章は頂戴したくない」と言って断った。
すると、ロシアの使節は非常に困却した。そういう場合に勲章を辞退されると、使節の役目を果たさないという風に考えた。
そこで周りの海軍将官から「まあ我慢して、貰ったらよかろう」と説得されたが、鈴木次官は「私は海軍次官という務めに対して受け取り難い」と固く主張した。
それで、ロシア使節から最高の随行委員が、「使節が帰国後に、上級の勲章を鈴木次官に贈ることを約束するから、承知してくれ」という意味の手紙を持って、海軍省の鈴木次官を訪ねてきた。
鈴木次官は「それまでご心配下さることは甚だ恐縮であるが、他日陸軍次官と同じ勲章を贈られることなれば、有難くお受けしましょう」と快く返事をした。数ヵ月後その勲章がロシア政府から外務省を経て鈴木次官に届けられた。
大正六年六月一日、海軍中将に進級した鈴木貫太郎は、九月一日海軍次官を免ぜられ、練習艦隊司令官に補せられた。五十歳だった。
大正七年三月、練習艦隊は候補生を乗せて遠洋航海に出発した。横須賀を出て、サンフランシスコ、ロスアンゼルス、サンディゴ、メキシコナドなどアメリカ方面への練習航海だった。
サンフランシスコでもロスアンゼルスでも大歓迎を受けた。市の歓迎会で数百人の人が集まって、練習艦隊の高等官を招待してくれた。
そのたびに米国人がテーブル・スピーチをする。鈴木中将らには一向にその英語のスピーチが分からなかった。鈴木中将は練習艦隊司令官として何かやらねばならぬと思った。