長官公室では、山本五十六長官と黒島大佐、航空参謀・佐々木中佐が応対し次のようなやりとりが行われた。
大西瀧治郎少将「十一航艦のみではフィリピン撃滅は無理です。一航艦のハワイ奇襲を中止し、十一航艦とともにフィリピン攻撃を実施させてください」。
佐々木彰中佐「軍令部情報では、フィリピン方面の敵は弱体であると分析しています」。
草鹿龍之介少将「ハワイ奇襲作戦は投機性が強すぎます。中止していただきたい」。
これを聞いていた山本長官は、大西少将と草鹿少将の二人に穏やかに言い聞かせる口調で次のように述べた。
「南方作戦中に東方から米機動部隊に本土を空襲されたらどうする。石油さえ手に入れれば東京、大阪が焦土になってもかまわんのか。まずハワイを叩いておかなくては、安心して南方作戦を展開できんではないか」。
「とにかく自分が連合艦隊司令長官でいる限り、ハワイ奇襲作戦は断行する。一航艦、十一航とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲はぜひやるんだという気構えで準備を進めてくれ」
「おれがいくら博奕(ばくえき)好きでも、そう投機的だ投機的だ、と言うなよ。君たちの考えにも一理あるが、俺の話もよく研究してくれよ」。
この山本長官の言葉を聞いたあと、しばらく話し合ううちに、大西少将が折れ、逆に草鹿少将の説得にかかるようになった。それで、遂に草鹿少将も約束せざるを得なくなった。
二人の少将が退艦する際、山本長官は舷門まで二人を送って行った。これは極めて異例なことだった。黒島大佐、佐々木中佐もついていった。
別れ際に、山本長官は草鹿少将の肩をたたいて、次のように話しかけた。
「君の言うことはよく分かる。だが、真珠湾攻撃は自分の固い信念なのだ。これからは反対論を言わず協力してくれ。ハワイ作戦実施のためなら、君の要望は何でも必ず実現するよう努力するから」。
「分かりました。もう何も申しません。ハワイ作戦のため全力を尽くします」。草鹿少将は感動して答え、敬礼をした。
昭和十六年十月十八日、山本長官の指示で黒島大佐は海軍省に出向いた。黒島大佐を迎えたのは、軍令部作戦課長・富岡大佐と航空主務部員・三代辰吉(後に改名・一就)中佐(茨城・海兵五一・海大三三・第二艦隊参謀・軍令部作戦課・大佐・横須賀海軍航空隊副長)だった。
黒島大佐は「真珠湾はどうしても攻撃しなけりゃならない」と激しくまくしたてた。
富岡大佐は「いや、軍令部は必ずしもそうは考えていない」と応酬した。
黒島大佐は「大艦巨砲主義ですか、馬鹿のひとつ覚えですな」と吐き出すように言った。
すると、富岡大佐は「我々はそうは考えません」と応じた。
黒島大佐は「軍令部の石頭と評するしかありません」と言い、けんかの様相で、両者の激しい応酬は続いた。
ついに黒島大佐は、「この作戦が採用されない場合には、わが国の防衛に責任が持てない。山本長官と全幕僚は辞任するしかない」という爆弾発言をし、切り札を切った。
開戦を目前にして、山本長官以下幕僚に辞任されたら、海軍中央はどうにもならない。この発言に驚いた富岡大佐は、黒島大佐を作戦部長・福留少将のもとへ連れて行った。
福留少将に対しても、黒島大佐は同様な発言をした。困惑した福留少将は、黒島大佐と富岡大佐を、軍令部次長・伊藤整一中将に会わせた。
伊藤中将は、二ヶ月前の九月一日まで、山本長官の参謀長だったので、黒島大佐をよく知っていて、好意的だった。
伊藤中将は、黒島大佐を自分の部屋に待たせ、福留少将と富岡大佐をともなって、軍令部総長・永野修身大将のところに行った。
伊藤中将と福留少将が、事情を説明し、永野大将の決断を迫った。二人の説明を黙って聞いていた永野大将は、「山本がそこまで言うなら……」と言って、折れた。だが、その作戦遂行に二つの注文をつけた。
第一は、真珠湾奇襲攻撃が南方作戦に支障を与えてはならないこと。第二は、この作戦が南方作戦における海軍航空兵力をいささかでも弱めるようなことがあってはならないこと。
このようにして、真珠湾奇襲攻撃は、海軍中央の承認を受け、以後、軍令部と連合艦隊は一心同体となって作戦遂行に全力をあげることになった。
大西瀧治郎少将「十一航艦のみではフィリピン撃滅は無理です。一航艦のハワイ奇襲を中止し、十一航艦とともにフィリピン攻撃を実施させてください」。
佐々木彰中佐「軍令部情報では、フィリピン方面の敵は弱体であると分析しています」。
草鹿龍之介少将「ハワイ奇襲作戦は投機性が強すぎます。中止していただきたい」。
これを聞いていた山本長官は、大西少将と草鹿少将の二人に穏やかに言い聞かせる口調で次のように述べた。
「南方作戦中に東方から米機動部隊に本土を空襲されたらどうする。石油さえ手に入れれば東京、大阪が焦土になってもかまわんのか。まずハワイを叩いておかなくては、安心して南方作戦を展開できんではないか」。
「とにかく自分が連合艦隊司令長官でいる限り、ハワイ奇襲作戦は断行する。一航艦、十一航とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲はぜひやるんだという気構えで準備を進めてくれ」
「おれがいくら博奕(ばくえき)好きでも、そう投機的だ投機的だ、と言うなよ。君たちの考えにも一理あるが、俺の話もよく研究してくれよ」。
この山本長官の言葉を聞いたあと、しばらく話し合ううちに、大西少将が折れ、逆に草鹿少将の説得にかかるようになった。それで、遂に草鹿少将も約束せざるを得なくなった。
二人の少将が退艦する際、山本長官は舷門まで二人を送って行った。これは極めて異例なことだった。黒島大佐、佐々木中佐もついていった。
別れ際に、山本長官は草鹿少将の肩をたたいて、次のように話しかけた。
「君の言うことはよく分かる。だが、真珠湾攻撃は自分の固い信念なのだ。これからは反対論を言わず協力してくれ。ハワイ作戦実施のためなら、君の要望は何でも必ず実現するよう努力するから」。
「分かりました。もう何も申しません。ハワイ作戦のため全力を尽くします」。草鹿少将は感動して答え、敬礼をした。
昭和十六年十月十八日、山本長官の指示で黒島大佐は海軍省に出向いた。黒島大佐を迎えたのは、軍令部作戦課長・富岡大佐と航空主務部員・三代辰吉(後に改名・一就)中佐(茨城・海兵五一・海大三三・第二艦隊参謀・軍令部作戦課・大佐・横須賀海軍航空隊副長)だった。
黒島大佐は「真珠湾はどうしても攻撃しなけりゃならない」と激しくまくしたてた。
富岡大佐は「いや、軍令部は必ずしもそうは考えていない」と応酬した。
黒島大佐は「大艦巨砲主義ですか、馬鹿のひとつ覚えですな」と吐き出すように言った。
すると、富岡大佐は「我々はそうは考えません」と応じた。
黒島大佐は「軍令部の石頭と評するしかありません」と言い、けんかの様相で、両者の激しい応酬は続いた。
ついに黒島大佐は、「この作戦が採用されない場合には、わが国の防衛に責任が持てない。山本長官と全幕僚は辞任するしかない」という爆弾発言をし、切り札を切った。
開戦を目前にして、山本長官以下幕僚に辞任されたら、海軍中央はどうにもならない。この発言に驚いた富岡大佐は、黒島大佐を作戦部長・福留少将のもとへ連れて行った。
福留少将に対しても、黒島大佐は同様な発言をした。困惑した福留少将は、黒島大佐と富岡大佐を、軍令部次長・伊藤整一中将に会わせた。
伊藤中将は、二ヶ月前の九月一日まで、山本長官の参謀長だったので、黒島大佐をよく知っていて、好意的だった。
伊藤中将は、黒島大佐を自分の部屋に待たせ、福留少将と富岡大佐をともなって、軍令部総長・永野修身大将のところに行った。
伊藤中将と福留少将が、事情を説明し、永野大将の決断を迫った。二人の説明を黙って聞いていた永野大将は、「山本がそこまで言うなら……」と言って、折れた。だが、その作戦遂行に二つの注文をつけた。
第一は、真珠湾奇襲攻撃が南方作戦に支障を与えてはならないこと。第二は、この作戦が南方作戦における海軍航空兵力をいささかでも弱めるようなことがあってはならないこと。
このようにして、真珠湾奇襲攻撃は、海軍中央の承認を受け、以後、軍令部と連合艦隊は一心同体となって作戦遂行に全力をあげることになった。