昭和十九年九月三十日、山下大将は、第十四方面軍参謀副長に任命された西村敏雄少将(陸士三二・陸大四一首席)と樺沢副官を伴って、宮中に伺候した。
「ゴ苦労デアル・・・帝国ノ安危ハ一ニ比島軍ノ肩ニカカッテイル・・・」。頭をたれる山下大将の肩に、ややかん高い、ゆっくりした天皇の声が流れた。
山下大将は、侍従に教えられた作法通りに、静かに後ずさるように退出したが、扉口の手前で、ふと眼を上げて、はるかに端座する天皇を仰ぎ、深々と拝礼した。
こうして山下大将はフィリピンに赴任する前に、やっと東京に帰ってきて天皇に拝謁することができた。このことは、「小倉庫次侍従日記」(文藝春秋・2007年4月号)に、九月三十日のところに、「陸軍大将山下奉文出征ニ付拝謁」と記してある。
ただし、そのときの謁見は九時三十分から四十五分までとなっており、わずか十五分間だった。それでも山下大将は感涙にむせんだ。天皇の軍隊の陸軍大将として戦争をやって、天皇に尽くしながら、天皇に会えない。それが、やっと会えたのだから。
十月三日の夜、久子夫人が偕行社に山下大将に会いにきた。雨のため、出発は一日延期になった。四日、山下大将は参謀本部で打ち合わせをした後、夫人と食事をした。夫人はさぞ、なにか話があるものと思ったが、山下大将は「空襲の時は気をつけろ」と、言っただけだった。
不満気な夫人は、思いついて、「よその人にあげるだけでなく、家にも色紙の一枚ぐらい書いておいてほしい」とねだった。
山下大将は承知した。「時来れば 古巣にかへる つばめかな」。「ずいぶん、優しいんですね」と夫人は言った。珍しいことと夫人は思い、ウフッと鼻で笑う大将に別れて鎌倉の実家に帰った。
実家に帰ると夫人は、ひとり自室に閉じこもった。夫人は色紙に山下大将の雅号印「巨杉」を押すと、震える手をいつまでも押さえ続けた。
「丸エキストラ戦史と旅・将軍と提督」(潮書房)所収「山下奉文の人間性」(沖修二)によると、当時、スマトラのメタンの近衛第二師団長・武藤章中将(陸士二五・陸大三二恩賜)は後日、山下大将の指揮する比島方面軍(第十四方面軍)の参謀長に任命される。
山下大将が比島方面軍司令官に任命されたことを知ると、武藤師団長は「この処置は半年遅れた。今頃、山下大将をもっていってもだめだ」とはっきり言った。
そして後日、自分がその参謀長任命を受けると、「私に課せられた命令は死の宣告であった。私の最後のご奉公だ。十分に山下大将を補佐せねばならぬと誓った」と武藤中将は手記に記している。
「悲劇の将軍」(今日出海・中公文庫)によると、山下大将がマニラのニルソン飛行場に着いたのは昭和十九年十月六日で、それから一週間後にアメリカ航空母艦群が台湾沖に現れて、大空中戦が行われた。これが台湾沖航空戦である。
また、山下大将が着任して十五日目にレイテ島タクロバン沖にアメリカ艦隊は姿を現し、強行上陸を開始し、守備に当たっていた垣兵団と激戦を展開しているとの電報を見て、さすがの山下大将も「遅かった」と思った。
昭和十九年十月十二日から十六日にかけて行われた台湾沖航空戦は、フィリピンのレイテ島攻略をめざすアメリカ海軍空母機動部隊(空母十七隻、その他艦艇約八十隻)に対して、日本海軍の航空機が攻撃を行った。
その結果日本の大本営は十月十九日、撃沈は空母十一隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻など、撃破は空母八隻、戦艦二隻、巡洋艦四隻、その他十四隻、我が方の損害は飛行機未帰還三百十二機、と大本営発表を行った。
日本では戦勝を祝して提灯行列が行われ、天皇陛下から、南方方面陸軍最高指揮官、連合艦隊司令長官、台湾軍司令官に対して「朕深ク之ヲ嘉尚ス」とお褒めの言葉が下った。
小磯国昭首相も気を良くして、「次はフィリピン決戦だから、ここで敵を追い落とす」と演説した。
大本営はもともとフィリピンのルソン島で決戦を計画していたが、台湾沖航空戦の後、変更してレイテ島決戦を行うと言い出した。
フィリピンの第十四方面軍司令官・山下大将は、堀栄三郎少佐から台湾沖航空戦の大本営発表は信用できないとの報告を受けて、現時の状況からも、アメリカ海軍の機動部隊は殆ど損害を受けていないと判断した。
ところが十月二十二日、突然、上級部隊である南方軍の総司令官・寺内寿一元帥(陸士一一・陸大二一)は、第十四方面軍司令官・山下大将に、「ナルベク多数ノ兵力ヲモッテ、レイテ島ニ来攻セル敵ヲ撃滅スベシ」と命令した。
「ゴ苦労デアル・・・帝国ノ安危ハ一ニ比島軍ノ肩ニカカッテイル・・・」。頭をたれる山下大将の肩に、ややかん高い、ゆっくりした天皇の声が流れた。
山下大将は、侍従に教えられた作法通りに、静かに後ずさるように退出したが、扉口の手前で、ふと眼を上げて、はるかに端座する天皇を仰ぎ、深々と拝礼した。
こうして山下大将はフィリピンに赴任する前に、やっと東京に帰ってきて天皇に拝謁することができた。このことは、「小倉庫次侍従日記」(文藝春秋・2007年4月号)に、九月三十日のところに、「陸軍大将山下奉文出征ニ付拝謁」と記してある。
ただし、そのときの謁見は九時三十分から四十五分までとなっており、わずか十五分間だった。それでも山下大将は感涙にむせんだ。天皇の軍隊の陸軍大将として戦争をやって、天皇に尽くしながら、天皇に会えない。それが、やっと会えたのだから。
十月三日の夜、久子夫人が偕行社に山下大将に会いにきた。雨のため、出発は一日延期になった。四日、山下大将は参謀本部で打ち合わせをした後、夫人と食事をした。夫人はさぞ、なにか話があるものと思ったが、山下大将は「空襲の時は気をつけろ」と、言っただけだった。
不満気な夫人は、思いついて、「よその人にあげるだけでなく、家にも色紙の一枚ぐらい書いておいてほしい」とねだった。
山下大将は承知した。「時来れば 古巣にかへる つばめかな」。「ずいぶん、優しいんですね」と夫人は言った。珍しいことと夫人は思い、ウフッと鼻で笑う大将に別れて鎌倉の実家に帰った。
実家に帰ると夫人は、ひとり自室に閉じこもった。夫人は色紙に山下大将の雅号印「巨杉」を押すと、震える手をいつまでも押さえ続けた。
「丸エキストラ戦史と旅・将軍と提督」(潮書房)所収「山下奉文の人間性」(沖修二)によると、当時、スマトラのメタンの近衛第二師団長・武藤章中将(陸士二五・陸大三二恩賜)は後日、山下大将の指揮する比島方面軍(第十四方面軍)の参謀長に任命される。
山下大将が比島方面軍司令官に任命されたことを知ると、武藤師団長は「この処置は半年遅れた。今頃、山下大将をもっていってもだめだ」とはっきり言った。
そして後日、自分がその参謀長任命を受けると、「私に課せられた命令は死の宣告であった。私の最後のご奉公だ。十分に山下大将を補佐せねばならぬと誓った」と武藤中将は手記に記している。
「悲劇の将軍」(今日出海・中公文庫)によると、山下大将がマニラのニルソン飛行場に着いたのは昭和十九年十月六日で、それから一週間後にアメリカ航空母艦群が台湾沖に現れて、大空中戦が行われた。これが台湾沖航空戦である。
また、山下大将が着任して十五日目にレイテ島タクロバン沖にアメリカ艦隊は姿を現し、強行上陸を開始し、守備に当たっていた垣兵団と激戦を展開しているとの電報を見て、さすがの山下大将も「遅かった」と思った。
昭和十九年十月十二日から十六日にかけて行われた台湾沖航空戦は、フィリピンのレイテ島攻略をめざすアメリカ海軍空母機動部隊(空母十七隻、その他艦艇約八十隻)に対して、日本海軍の航空機が攻撃を行った。
その結果日本の大本営は十月十九日、撃沈は空母十一隻、戦艦二隻、巡洋艦三隻など、撃破は空母八隻、戦艦二隻、巡洋艦四隻、その他十四隻、我が方の損害は飛行機未帰還三百十二機、と大本営発表を行った。
日本では戦勝を祝して提灯行列が行われ、天皇陛下から、南方方面陸軍最高指揮官、連合艦隊司令長官、台湾軍司令官に対して「朕深ク之ヲ嘉尚ス」とお褒めの言葉が下った。
小磯国昭首相も気を良くして、「次はフィリピン決戦だから、ここで敵を追い落とす」と演説した。
大本営はもともとフィリピンのルソン島で決戦を計画していたが、台湾沖航空戦の後、変更してレイテ島決戦を行うと言い出した。
フィリピンの第十四方面軍司令官・山下大将は、堀栄三郎少佐から台湾沖航空戦の大本営発表は信用できないとの報告を受けて、現時の状況からも、アメリカ海軍の機動部隊は殆ど損害を受けていないと判断した。
ところが十月二十二日、突然、上級部隊である南方軍の総司令官・寺内寿一元帥(陸士一一・陸大二一)は、第十四方面軍司令官・山下大将に、「ナルベク多数ノ兵力ヲモッテ、レイテ島ニ来攻セル敵ヲ撃滅スベシ」と命令した。