小沢は軍令部次長になって、「海軍としては」という言葉を腹の底から憎み、口にすることを許さなかった。小沢次長は陸海軍統帥部が同一場所に勤務することを提案した。
陸海軍の幕僚が日々交流を自然に繰り返すことによって信頼を深めようとした。そこで選ばれたのが赤坂にある山王ホテルだった。かつて2.26事件のとき、昭和維新を掲げた青年将校たちが集結したホテルだった。小沢次長は歴史の大きな変転を感じていた。
昭和20年4月、小沢次長は一人の人物の訪問を受けた。軍部から自由主義者として、危険人物視されていた吉田茂であった。
その内容は、驚くべきことで、小沢の立場を考えれば、相談すること自体が非常識なものであった。吉田は「あなたと共通の伯父である秋月左都夫老人と話した結果、あなたに頼むのがよいと言われたので来た」と切り出した。
続いて「実は英国と和平交渉をやりたいので、飛行機か潜水艦を出してもらえないか」と言った。小沢次長は吉田の大胆さというか、率直さに唖然とした。
小沢は、日本海軍の現状では、協力したくても出来ないことを吉田に説明した。吉田はいかにも残念そうにしていた。
玄関まで吉田を送りに出たとき、小沢は木陰に隠れている二、三人の人物を見た。その日から三日後に、吉田は九段の憲兵隊に連行された。
昭和20年5月29日、小沢中将は海軍総司令長官兼連合艦隊司令長官兼海上護衛司令官に任ぜられた。小沢中将はこのとき五十九歳だった。
米内海軍大臣から海軍大将へ進級した上で連合艦隊司令長官にという話があったが、小沢中将は固辞した。
連合艦隊といっても、作戦可能で残ったものはわずかに43隻だった。戦艦はなく、空母も2隻に過ぎなかった。戦艦大和も4月6日に沖縄特攻で、屋久島西方260キロの地点で沈み、指揮官・伊藤整一海軍中将(海兵39・海大21恩賜)も運命をともにした。
小沢中将は思った。人生五十年であることを思えば、余計の人生である。すでに山本五十六をはじめ、三百名を越す将官が生命を落としている。
昭和20年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送が全国に流れた。
小沢司令長官は、千早正隆参謀(海兵58・海大39)に対し「終戦の命令に従わない者があった場合の対策を考えているか」と尋ねた。
千早参謀は
「いったん陛下の詔勅が出されましたからには、そのような事態は起こらないと思います」と答えた。
その途端、小沢司令長官は、驚くほどの大声で
「その考えは甘いぞ!」と怒鳴った。
小沢司令長官が危惧したとおり、終戦処理は簡単にいかなかった。終戦の三日前には大西瀧治朗軍令部次長(海兵40)が血相を変えて、小沢司令長官を司令部に訪ねてきたのだ。大西次長は徹底抗戦を説きに来たのだった。
そのとき大西次長に、小沢司令長官は「いまさら徹底抗戦をして何になる」と言い放った。
また、大分基地にいた第五航空艦隊司令長官・宇垣纏中将は8月15日夜遅く、特攻機の出撃を命じ、自らも沖縄に突入し、特攻を行って果てた。
さらに海軍の大航空基地である厚木航空隊では、司令の小薗安名大佐(海兵51)が徹底抗戦の姿勢を崩さず、不穏な事態になっていた。
陸海軍の幕僚が日々交流を自然に繰り返すことによって信頼を深めようとした。そこで選ばれたのが赤坂にある山王ホテルだった。かつて2.26事件のとき、昭和維新を掲げた青年将校たちが集結したホテルだった。小沢次長は歴史の大きな変転を感じていた。
昭和20年4月、小沢次長は一人の人物の訪問を受けた。軍部から自由主義者として、危険人物視されていた吉田茂であった。
その内容は、驚くべきことで、小沢の立場を考えれば、相談すること自体が非常識なものであった。吉田は「あなたと共通の伯父である秋月左都夫老人と話した結果、あなたに頼むのがよいと言われたので来た」と切り出した。
続いて「実は英国と和平交渉をやりたいので、飛行機か潜水艦を出してもらえないか」と言った。小沢次長は吉田の大胆さというか、率直さに唖然とした。
小沢は、日本海軍の現状では、協力したくても出来ないことを吉田に説明した。吉田はいかにも残念そうにしていた。
玄関まで吉田を送りに出たとき、小沢は木陰に隠れている二、三人の人物を見た。その日から三日後に、吉田は九段の憲兵隊に連行された。
昭和20年5月29日、小沢中将は海軍総司令長官兼連合艦隊司令長官兼海上護衛司令官に任ぜられた。小沢中将はこのとき五十九歳だった。
米内海軍大臣から海軍大将へ進級した上で連合艦隊司令長官にという話があったが、小沢中将は固辞した。
連合艦隊といっても、作戦可能で残ったものはわずかに43隻だった。戦艦はなく、空母も2隻に過ぎなかった。戦艦大和も4月6日に沖縄特攻で、屋久島西方260キロの地点で沈み、指揮官・伊藤整一海軍中将(海兵39・海大21恩賜)も運命をともにした。
小沢中将は思った。人生五十年であることを思えば、余計の人生である。すでに山本五十六をはじめ、三百名を越す将官が生命を落としている。
昭和20年8月15日正午、昭和天皇の玉音放送が全国に流れた。
小沢司令長官は、千早正隆参謀(海兵58・海大39)に対し「終戦の命令に従わない者があった場合の対策を考えているか」と尋ねた。
千早参謀は
「いったん陛下の詔勅が出されましたからには、そのような事態は起こらないと思います」と答えた。
その途端、小沢司令長官は、驚くほどの大声で
「その考えは甘いぞ!」と怒鳴った。
小沢司令長官が危惧したとおり、終戦処理は簡単にいかなかった。終戦の三日前には大西瀧治朗軍令部次長(海兵40)が血相を変えて、小沢司令長官を司令部に訪ねてきたのだ。大西次長は徹底抗戦を説きに来たのだった。
そのとき大西次長に、小沢司令長官は「いまさら徹底抗戦をして何になる」と言い放った。
また、大分基地にいた第五航空艦隊司令長官・宇垣纏中将は8月15日夜遅く、特攻機の出撃を命じ、自らも沖縄に突入し、特攻を行って果てた。
さらに海軍の大航空基地である厚木航空隊では、司令の小薗安名大佐(海兵51)が徹底抗戦の姿勢を崩さず、不穏な事態になっていた。