野村吉三郎大佐が帰朝した翌日、大正八年八月十一日付けの朝日新聞に掲載された野村吉三郎大佐に関する記事は次の通り(抜粋・原文のまま)。
「講和会議から」――野村大佐、昨朝ペルシャ丸で帰る――
三月二十四日桑港を出版せし東洋汽船ペルシャ丸は昨日早朝横浜に帰港せり、先客中には講和会議委員として牧野特使に随行せる海軍大佐野村吉三郎氏あり、其談に曰く
「講和会議に於ける日本委員の行動に関し内地では兎角の説をなす者があるが大体に於いて其目的を達した」
「自分は講和会議中、海軍に関係しただけで単に会議の一半を知るのみであるから全般に関する話は出来ぬが、海軍会議に於いては独逸に於ける海軍力に制限を付し、単に偵察用として軍艦を在置するのみとなったから今後の同国の海軍は手も足も出す事は出来ない」
「又残存せる独逸艦隊の処分に関しては仏国は分配を希望し、英米両国は解体して其材料を商船建造の材料に供せん事を主張し、未だ決定しない」
「又戦争の結果は思想上の世界革命が起こり、人類の幸福を増進する事に各国共務めている」。
この新聞記事中の談話にも見られる通り、野村吉三郎大佐の時代感覚というものは、軍人の殻を破って相当進んでいる。
大正九年四月、野村吉三郎大佐は海軍省高級副官に補任され軍政方面で活躍することになった。
当時の海軍大臣は、加藤友三郎(かとう・ともさぶろう)大将(広島・海兵七期・次席・海大甲号学生一期・砲艦「筑紫」艦長・軍務局軍事課長心得・大佐・軍務局軍事課長・軍務局第一課長・第二艦隊参謀長・少将・連合艦隊参謀長・陸軍省軍務局長・海軍次官・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・海軍大臣・大将・男爵・ワシントン会議全権・内閣総理大臣兼海軍大臣・大正十二年八月二十四日大腸ガンで死去・享年六十三シア・元帥・子爵・正二位・大勲位菊花大綬章・功二級・ロシア帝国白鷲勲章等)だった。
第一次世界大戦は、軍拡競争を引き起こした。日本、アメリカ、イギリスの三国の海軍は、大戦中に拡張された国内重工業施設の救助策も含めて、激しい海軍競争をスタートさせた。
中でも、日本とアメリカの海軍競争は第一次世界大戦中からすでに開始されていた。
この大戦で最も痛手をうけない、というよりは利益の多かった二大海軍国は、あたかも運命の神に導かれるように建艦競争に突入していった。
日本の八・八艦隊、アメリカの八・四艦隊二群がそれである。イギリスはすでに八・八艦隊二群のデスク・プランを持っていた。
だが、イギリスは大戦後の善後処理に追われて、直ちには日本・アメリカ両国との拡張競争に乗り出す余裕がなく、日本とアメリカのみが大型戦艦の建艦競争に邁進した。
今や世界一、二位を争う造艦技術を体得した日本海軍は、果てしもなく建艦競争に邁進していったのだが、この海軍競争には莫大な国家予算が伴った。
ちなみに、大正十年度の軍事予算は全歳出の実に四九パーセントを占めていた。そのうちの六三パーセントが海軍予算だった。即ち、国家予算の三分の一を海軍が独占していたことになる。
これは、国家財政の上から見ても、到底永続し得るものではなかった。
競争相手のアメリカにしても、いかに持てる国とはいえ、日本を上回る建艦を果てしなく続けることは、決して軽い負担ではなかった。
日本とアメリカは、第一次世界大戦でせしめた利益を吐き出すばかりか、財政の均衡性を失い、国家の安泰を期するはずの海軍が、国家のガン的存在にならないという保証はなかった。
「講和会議から」――野村大佐、昨朝ペルシャ丸で帰る――
三月二十四日桑港を出版せし東洋汽船ペルシャ丸は昨日早朝横浜に帰港せり、先客中には講和会議委員として牧野特使に随行せる海軍大佐野村吉三郎氏あり、其談に曰く
「講和会議に於ける日本委員の行動に関し内地では兎角の説をなす者があるが大体に於いて其目的を達した」
「自分は講和会議中、海軍に関係しただけで単に会議の一半を知るのみであるから全般に関する話は出来ぬが、海軍会議に於いては独逸に於ける海軍力に制限を付し、単に偵察用として軍艦を在置するのみとなったから今後の同国の海軍は手も足も出す事は出来ない」
「又残存せる独逸艦隊の処分に関しては仏国は分配を希望し、英米両国は解体して其材料を商船建造の材料に供せん事を主張し、未だ決定しない」
「又戦争の結果は思想上の世界革命が起こり、人類の幸福を増進する事に各国共務めている」。
この新聞記事中の談話にも見られる通り、野村吉三郎大佐の時代感覚というものは、軍人の殻を破って相当進んでいる。
大正九年四月、野村吉三郎大佐は海軍省高級副官に補任され軍政方面で活躍することになった。
当時の海軍大臣は、加藤友三郎(かとう・ともさぶろう)大将(広島・海兵七期・次席・海大甲号学生一期・砲艦「筑紫」艦長・軍務局軍事課長心得・大佐・軍務局軍事課長・軍務局第一課長・第二艦隊参謀長・少将・連合艦隊参謀長・陸軍省軍務局長・海軍次官・中将・呉鎮守府司令長官・第一艦隊司令長官・海軍大臣・大将・男爵・ワシントン会議全権・内閣総理大臣兼海軍大臣・大正十二年八月二十四日大腸ガンで死去・享年六十三シア・元帥・子爵・正二位・大勲位菊花大綬章・功二級・ロシア帝国白鷲勲章等)だった。
第一次世界大戦は、軍拡競争を引き起こした。日本、アメリカ、イギリスの三国の海軍は、大戦中に拡張された国内重工業施設の救助策も含めて、激しい海軍競争をスタートさせた。
中でも、日本とアメリカの海軍競争は第一次世界大戦中からすでに開始されていた。
この大戦で最も痛手をうけない、というよりは利益の多かった二大海軍国は、あたかも運命の神に導かれるように建艦競争に突入していった。
日本の八・八艦隊、アメリカの八・四艦隊二群がそれである。イギリスはすでに八・八艦隊二群のデスク・プランを持っていた。
だが、イギリスは大戦後の善後処理に追われて、直ちには日本・アメリカ両国との拡張競争に乗り出す余裕がなく、日本とアメリカのみが大型戦艦の建艦競争に邁進した。
今や世界一、二位を争う造艦技術を体得した日本海軍は、果てしもなく建艦競争に邁進していったのだが、この海軍競争には莫大な国家予算が伴った。
ちなみに、大正十年度の軍事予算は全歳出の実に四九パーセントを占めていた。そのうちの六三パーセントが海軍予算だった。即ち、国家予算の三分の一を海軍が独占していたことになる。
これは、国家財政の上から見ても、到底永続し得るものではなかった。
競争相手のアメリカにしても、いかに持てる国とはいえ、日本を上回る建艦を果てしなく続けることは、決して軽い負担ではなかった。
日本とアメリカは、第一次世界大戦でせしめた利益を吐き出すばかりか、財政の均衡性を失い、国家の安泰を期するはずの海軍が、国家のガン的存在にならないという保証はなかった。