当時海軍大学校の校舎は東京築地にあったが、この校舎は大正十二年九月一日の関東大震災で焼失していたので、その焼け跡にバラック建ての仮校舎ができていた。山口少佐たち甲種学生三十五人は、そこで授業を受けていた。
山口少佐ら甲種学生は、海軍専門のフランス語を、この機会にぜひ学びたいと考え、海大のフランス語の増田俊雄教師にその旨を申し入れた。
増田教師は早速その望みに応えて、東京京橋の丸善で、フランスの海軍協会が宣伝用として発行した冊子を入手し、これを教材とした。
やがてこの講義も終わり、増田教師が教室を出ようとしたところ、山口少佐がこっそり増田教師にちかづいて、「この本は、我々には幼稚すぎて面白くなかったので、今後は使わないで欲しい」と申し入れた。
増田教師は、海大の学生は語学を専門とする語学生ではないので、あまり難しい教材は、かえって適当ではないと思っていた。だが、山口少佐には不満だった。
それでも増田教師は、山口少佐の申し入れを了承して、それ以後、この教材を決して使わなかったという。
「勇断提督・山口多聞」(生出寿・徳間書店)によると、昭和三年二月、山口少佐が軍令部参謀兼艦政本部技術会議員になったときは、日本帝国海軍が艦隊派と条約派に分裂する原因となった、問題のロンドン軍縮会議の直前だった。山口少佐は、その一般軍備計画の担当だった。
昭和三年十二月、野村吉三郎中将(海兵二六)に代わって末次信正中将(海兵二七・海大七恩賜)が軍令部次長に就任した。また、昭和四年一月には鈴木貫太郎大将(海兵一四・海大一・首相)に代わって加藤寛治大将(海兵一八首席)が軍令部長に就任すると、軍令部は対英米強硬の艦隊派の本山になった。
昭和三年十二月に山口少佐は海軍中佐に進級した。山口中佐は加藤軍令部長、末次次長の指導を受けて、巡洋艦その他の「艦船補充計画案」の作成に当たった。
加藤軍令部長は主力艦保有量の対米六割はもはや止むを得ないが、補助艦艇については、今度こそ絶対に対米七割を確保すべしと力説していた。それでなければ対米戦争に勝てないという考え方である。
ところが、昭和四年七月までの岡田啓介大将(海兵一五・海大二・海軍大臣・首相)と、その後の海相・財部彪大将(海兵一五)は、国家財政を優先し、七割に執着しなくてもよいとしていた。基本的に対米不戦の考え方だった。
このような時、イギリス政府から、「英、米、仏、伊、日の五カ国で、明年一月ロンドンで、海軍軍縮会議を開催したい」という提案が届いた。
日本政府は、昭和四年末、海軍大臣・財部大将と前首相・若槻礼次郎らの日本全権団をアメリカ経由でロンドンに送った。
海軍側随員の一人に加わっていた山口中佐は、それに先立ち、約一ヵ月半前にアメリカに渡った。ワシントンの中米日本大使館付武官・坂野常善大佐(海兵三三・中将)ほかと協同して、米政府の日本に対する意向をさぐろうというのだった。
当時同地に駐在していた佐薙毅(さなぎ・さだむ)大尉(海兵五〇・海大三二・戦後航空幕僚長)は山口中佐と一緒に情報収集に飛び回った。
佐薙大尉は山口中佐が軍令部案を貫徹させようとして積極的に活動するのに感心した。また、山口中佐が国粋主義、アジア主義の思想で米英に対抗しようとしているのを感じ取ったという。
ロンドン海軍軍縮会議は、昭和五年四月二十二日に、日・英・米三国間の補助艦艇協定の調印が行われて終了した。だが、加藤大将、末次中将ら軍令部首脳をはじめとする山口中佐らの要求は、今回もそのままは通らなかった。
全体では対米六・九七だからまずまずと言えそうだが、加藤大将、末次中将らは二十サンチ砲巡洋艦が対米六割で、潜水艦保有量が要求よりも二万五千八百トンも少ないので、承服できなかった。
彼らはやがて「軍令部の主張を退けて、政府が勝手に兵力量を定めたのは統帥大権の干犯ではないか」という政友会の犬養毅、鳩山一郎らの煽動にのり、浜口雄幸内閣打倒運動に加担する行動をとり始めた。
だが、この主張が通るとするならば、軍令部が海軍軍事予算の権力を握ることになり、完全な軍国主義国家となる。これは間違いで、政府が閣議決定し、議会の承認を得て、天皇の裁可を受けるべきであるし、軍令部はそれに従い軍務を行うのが正当な行為である。
だが、おさまらない加藤大将は六月十日、統帥権問題で政府を弾劾する上奏文を奏上し、直接天皇に辞表を提出した。これは天皇への抗議でもあった。
天皇は翌六月十一日、穏健な谷口尚真中将(海兵一九・海大三)を軍令部長に親補した。
山口少佐ら甲種学生は、海軍専門のフランス語を、この機会にぜひ学びたいと考え、海大のフランス語の増田俊雄教師にその旨を申し入れた。
増田教師は早速その望みに応えて、東京京橋の丸善で、フランスの海軍協会が宣伝用として発行した冊子を入手し、これを教材とした。
やがてこの講義も終わり、増田教師が教室を出ようとしたところ、山口少佐がこっそり増田教師にちかづいて、「この本は、我々には幼稚すぎて面白くなかったので、今後は使わないで欲しい」と申し入れた。
増田教師は、海大の学生は語学を専門とする語学生ではないので、あまり難しい教材は、かえって適当ではないと思っていた。だが、山口少佐には不満だった。
それでも増田教師は、山口少佐の申し入れを了承して、それ以後、この教材を決して使わなかったという。
「勇断提督・山口多聞」(生出寿・徳間書店)によると、昭和三年二月、山口少佐が軍令部参謀兼艦政本部技術会議員になったときは、日本帝国海軍が艦隊派と条約派に分裂する原因となった、問題のロンドン軍縮会議の直前だった。山口少佐は、その一般軍備計画の担当だった。
昭和三年十二月、野村吉三郎中将(海兵二六)に代わって末次信正中将(海兵二七・海大七恩賜)が軍令部次長に就任した。また、昭和四年一月には鈴木貫太郎大将(海兵一四・海大一・首相)に代わって加藤寛治大将(海兵一八首席)が軍令部長に就任すると、軍令部は対英米強硬の艦隊派の本山になった。
昭和三年十二月に山口少佐は海軍中佐に進級した。山口中佐は加藤軍令部長、末次次長の指導を受けて、巡洋艦その他の「艦船補充計画案」の作成に当たった。
加藤軍令部長は主力艦保有量の対米六割はもはや止むを得ないが、補助艦艇については、今度こそ絶対に対米七割を確保すべしと力説していた。それでなければ対米戦争に勝てないという考え方である。
ところが、昭和四年七月までの岡田啓介大将(海兵一五・海大二・海軍大臣・首相)と、その後の海相・財部彪大将(海兵一五)は、国家財政を優先し、七割に執着しなくてもよいとしていた。基本的に対米不戦の考え方だった。
このような時、イギリス政府から、「英、米、仏、伊、日の五カ国で、明年一月ロンドンで、海軍軍縮会議を開催したい」という提案が届いた。
日本政府は、昭和四年末、海軍大臣・財部大将と前首相・若槻礼次郎らの日本全権団をアメリカ経由でロンドンに送った。
海軍側随員の一人に加わっていた山口中佐は、それに先立ち、約一ヵ月半前にアメリカに渡った。ワシントンの中米日本大使館付武官・坂野常善大佐(海兵三三・中将)ほかと協同して、米政府の日本に対する意向をさぐろうというのだった。
当時同地に駐在していた佐薙毅(さなぎ・さだむ)大尉(海兵五〇・海大三二・戦後航空幕僚長)は山口中佐と一緒に情報収集に飛び回った。
佐薙大尉は山口中佐が軍令部案を貫徹させようとして積極的に活動するのに感心した。また、山口中佐が国粋主義、アジア主義の思想で米英に対抗しようとしているのを感じ取ったという。
ロンドン海軍軍縮会議は、昭和五年四月二十二日に、日・英・米三国間の補助艦艇協定の調印が行われて終了した。だが、加藤大将、末次中将ら軍令部首脳をはじめとする山口中佐らの要求は、今回もそのままは通らなかった。
全体では対米六・九七だからまずまずと言えそうだが、加藤大将、末次中将らは二十サンチ砲巡洋艦が対米六割で、潜水艦保有量が要求よりも二万五千八百トンも少ないので、承服できなかった。
彼らはやがて「軍令部の主張を退けて、政府が勝手に兵力量を定めたのは統帥大権の干犯ではないか」という政友会の犬養毅、鳩山一郎らの煽動にのり、浜口雄幸内閣打倒運動に加担する行動をとり始めた。
だが、この主張が通るとするならば、軍令部が海軍軍事予算の権力を握ることになり、完全な軍国主義国家となる。これは間違いで、政府が閣議決定し、議会の承認を得て、天皇の裁可を受けるべきであるし、軍令部はそれに従い軍務を行うのが正当な行為である。
だが、おさまらない加藤大将は六月十日、統帥権問題で政府を弾劾する上奏文を奏上し、直接天皇に辞表を提出した。これは天皇への抗議でもあった。
天皇は翌六月十一日、穏健な谷口尚真中将(海兵一九・海大三)を軍令部長に親補した。