昭和四年一月二十二日、鈴木大将は予備役編入、侍従長に就任した。六十一歳だった。親任式は、鈴木大将の後任である軍令部長・加藤寛治大将(海兵一八首席)の親任とともに宮中で行われた。二月十四日には枢密院顧問官にも就任した(兼任)。
「聖断」(半藤一利・文藝春秋)によると、この頃、張作霖爆死事件の真相が明らかになり、事件の首謀者が関東軍高級参謀・河本大作(こうもと・だいさく)大佐(陸士一五・陸大二六・満鉄理事・国策会社山西産業株式会社社長)であり、実行者の名も判明していた。
問題はその処罰をどうするかということだった。陸軍中枢の中堅将校たちは河本大佐を処罰させてたまるものかと、陸軍中央を突き上げ、単なる行政処分で終わらせようとしていた。
陸軍の最長老であり長州閥の大御所でもある田中義一首相は、この陸軍の主張を認めることにした。六月二十七日当時の田中義一首相は参内して天皇に報告した。
「張作霖爆死事件につき、いろいろ取り調べましたけれど、日本の陸軍には幸いにして犯人はいないということが判明しました。しかし、警備上責任者の手落ちであった事実については、これを処分いたします」。
だが、天皇は不審げに田中首相を見つめ「責任をはっきり取るのでなければ、私には許し難い」と明瞭に言い切った。それで、田中首相は、聖旨に沿うようにすることを誓った。
だが、翌二十八日午前、陸軍大臣・白川義則大将(愛媛・陸士一・陸大一二・男爵)が内奏したのは、天皇が思ってもみなかった軽い行政処分だった。
それによると、関東軍司令官は依願予備役、河本大佐は停職、そのほか参謀長らは譴責(けんせき)ですませたのである。
若き天皇は激怒した。「総理が上奏したものと全然ちがうではないか。それで陸軍の軍紀が維持できるというのか」。
弁明のため顔色を変えて田中義一首相が参内したのは午後一時過ぎだった。だが、天皇の怒りはおさまっていなかった。
「お前の最初に言ったことと違うではないか。説明を聞く必要は無い」とはっきり拒絶し、席を立って奥へ入ってしまった。
心配して顔を見せた鈴木貫太郎侍従長に、天皇は「田中の言うことはちっとも判らない。再び聞くことは自分は厭だ」とまで言った。
田中首相は数時間後に再び天皇に拝謁を願ってきたが、鈴木侍従長は冷ややかにこれを迎えた。天皇の気持ちがわかる鈴木侍従長は次の様に言った。
「たって拝謁を願われるならばお取次ぎはいたしますが、本件にかんすることなら、おそらくお聞きになられますまい」。
田中首相は鈴木侍従長をみつめてしばらく立っていたが、両眼からみるみる涙をあふれさせた。それ以上言うべき言葉も無く、やがて頭を垂れて退出していった。七月二日、田中内閣は総辞職した。
田中内閣の閣僚の中には、大いに不服とし、鈴木侍従長を訪ね、「お上と総理の間に立って、おとりなしをするのが侍従長の職務ではないか。それをあなたは何ということをするのか」と、詰問する者もいた。
これに対し鈴木侍従長は厳然と次の様に言った。
「それは違う。侍従長はそういう位置にあるのではない。総理の辞意は、まことに気の毒とは思ったが、それ以上どうということをしてはならぬし、できないのだ」。
だが、この田中内閣辞職問題は、昭和史の歩みの上に大きな影響を投げかけることになった。
天皇は辞任の直接の動機が、鈴木侍従長に不用意にもらした自分の一言にあったことを、後に知った。立憲君主として、首相を弾劾して辞職させるということは、許されるべきことではないのではないか。
天皇の唯一のご意見番ともいえる元老・西園寺公望は、牧野内大臣を通して、「天皇は直接に自己のご意見を表明すべきではない」と、天皇に伝えてきた。
西園寺や牧野は、イギリス式の立憲君主方式を理想とし、主張しているのである。
「聖断」(半藤一利・文藝春秋)によると、この頃、張作霖爆死事件の真相が明らかになり、事件の首謀者が関東軍高級参謀・河本大作(こうもと・だいさく)大佐(陸士一五・陸大二六・満鉄理事・国策会社山西産業株式会社社長)であり、実行者の名も判明していた。
問題はその処罰をどうするかということだった。陸軍中枢の中堅将校たちは河本大佐を処罰させてたまるものかと、陸軍中央を突き上げ、単なる行政処分で終わらせようとしていた。
陸軍の最長老であり長州閥の大御所でもある田中義一首相は、この陸軍の主張を認めることにした。六月二十七日当時の田中義一首相は参内して天皇に報告した。
「張作霖爆死事件につき、いろいろ取り調べましたけれど、日本の陸軍には幸いにして犯人はいないということが判明しました。しかし、警備上責任者の手落ちであった事実については、これを処分いたします」。
だが、天皇は不審げに田中首相を見つめ「責任をはっきり取るのでなければ、私には許し難い」と明瞭に言い切った。それで、田中首相は、聖旨に沿うようにすることを誓った。
だが、翌二十八日午前、陸軍大臣・白川義則大将(愛媛・陸士一・陸大一二・男爵)が内奏したのは、天皇が思ってもみなかった軽い行政処分だった。
それによると、関東軍司令官は依願予備役、河本大佐は停職、そのほか参謀長らは譴責(けんせき)ですませたのである。
若き天皇は激怒した。「総理が上奏したものと全然ちがうではないか。それで陸軍の軍紀が維持できるというのか」。
弁明のため顔色を変えて田中義一首相が参内したのは午後一時過ぎだった。だが、天皇の怒りはおさまっていなかった。
「お前の最初に言ったことと違うではないか。説明を聞く必要は無い」とはっきり拒絶し、席を立って奥へ入ってしまった。
心配して顔を見せた鈴木貫太郎侍従長に、天皇は「田中の言うことはちっとも判らない。再び聞くことは自分は厭だ」とまで言った。
田中首相は数時間後に再び天皇に拝謁を願ってきたが、鈴木侍従長は冷ややかにこれを迎えた。天皇の気持ちがわかる鈴木侍従長は次の様に言った。
「たって拝謁を願われるならばお取次ぎはいたしますが、本件にかんすることなら、おそらくお聞きになられますまい」。
田中首相は鈴木侍従長をみつめてしばらく立っていたが、両眼からみるみる涙をあふれさせた。それ以上言うべき言葉も無く、やがて頭を垂れて退出していった。七月二日、田中内閣は総辞職した。
田中内閣の閣僚の中には、大いに不服とし、鈴木侍従長を訪ね、「お上と総理の間に立って、おとりなしをするのが侍従長の職務ではないか。それをあなたは何ということをするのか」と、詰問する者もいた。
これに対し鈴木侍従長は厳然と次の様に言った。
「それは違う。侍従長はそういう位置にあるのではない。総理の辞意は、まことに気の毒とは思ったが、それ以上どうということをしてはならぬし、できないのだ」。
だが、この田中内閣辞職問題は、昭和史の歩みの上に大きな影響を投げかけることになった。
天皇は辞任の直接の動機が、鈴木侍従長に不用意にもらした自分の一言にあったことを、後に知った。立憲君主として、首相を弾劾して辞職させるということは、許されるべきことではないのではないか。
天皇の唯一のご意見番ともいえる元老・西園寺公望は、牧野内大臣を通して、「天皇は直接に自己のご意見を表明すべきではない」と、天皇に伝えてきた。
西園寺や牧野は、イギリス式の立憲君主方式を理想とし、主張しているのである。