山本長官は黒島大佐や参謀に尋ねた。「どうだ、南雲司令長官にすぐ攻撃せよと命令せんでよいか」。
黒島大佐は「大丈夫でしょう」と答えた。「こちらから命令しなくても、南雲司令部としても、ただちに攻撃するでしょう」とも。航空参謀・佐々木中佐も「同感であります。ご心配は無用かと思います」と言った。
山本長官は、「そうか、わざわざ命令せんでよいか」と言った。山本長官は、最終的に黒島大佐らの意見に同意して、「空母発見」の情報は機動部隊に伝達されなかった。
昭和十七年六月五日から七日にかけて行われたミッドウェー海戦は、惨敗だった。機動部隊の大型航空母艦、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の四隻とその艦載機、熟練したパイロットを一挙に失った。
山本長官は、決断を下した。四隻の空母が全滅した以上、ミッドウェー作戦は中止せざるを得ない。残った南雲機動部隊に退却命令を出さねばならぬ。
山本長官のこの意向を聞いて、黒島大佐など参謀たちは一種のパニック現象に陥ったといわれる。連合艦隊にとって、このような壊滅的な敗北は初めてだった。しかも参謀の誰もが負けるはずはないと思っていたのだ。
黒島大佐は泣きながら、山本長官の決断に反対した。「長官、『赤城』はまだ浮いています。『赤城』をこのまま見殺しにするのですか」。
もし、空母『赤城』がアメリカに捕獲されて見世物になったらどうするか。かといって、こちらが魚雷で『赤城』を沈めるわけにはいかない。したがって、第二主力部隊が現場に急行するしかないと、黒島大佐は山本長官に喰ってかかりながら、泣いていた。
黒島大佐とともに作戦立案にかかわった戦務参謀・渡辺中佐も強硬に山本長官の決断に反対し、作戦の続行を主張した。
二人は色をなして山本長官に喰ってかかったと言われている。だが、山本長官は、二人の意見を退けた。
山本長官は、いまだに沈まずに炎上し続けている『赤城』と『飛龍』を、駆逐艦「野分」に魚雷を発射させて沈めた。そして「ミッドウェー攻略ヲ中止ス」の退却命令を出した。
山本長官は参謀たちに、「今度の失敗はすべて僕の責任だ。南雲部隊を責めてはいかん」と言い残して、長官私室に引きこもり、数日間、姿を見せなかった。
アメリカの太平洋艦隊に対し、圧倒的に優勢だった連合艦隊が、一瞬のうちに壊滅してしまった。それは、黒島大佐が真珠湾奇襲作戦以来、築きあげてきた自信と誇りの崩壊を意味した。
黒島大佐をはじめ参謀たちは茫然自失していた。そういった姿を尻目に、宇垣参謀長は、水際立った指揮をし、全軍総退却の指導を行った。
以来、宇垣参謀長は、黒島大佐に遠慮せずに、ほかの参謀たちにも命令するようになった。今まで、山本長官と黒島大佐のラインに棚上げされていた宇垣参謀長は息を吹き返したようだったという。
ミッドウェー作戦は日本海軍、連合艦隊の大敗に終わった。南雲機動部隊の草鹿参謀長たちは乗り移っていた軽巡「長良」から、旗艦の戦艦「大和」に帰ってきた。
「大和」の艦上で、黒島大佐は、南雲機動部隊の首脳を血走った目で迎えた。怒気をはらんだその目は吊り上って、三人をにらみつけたという。
黒島大佐は、草鹿参謀長に「しかし、なぜ、敵発見から二時間近くも攻撃隊は発進しなかったのですか」と迫った。
すると、草鹿参謀長は「私は、連合艦隊にあれほど念を押していったはずです。『赤城』はじめ空母の通信施設は不十分だ。貧弱です。だから、重要情報は連合艦隊から転電してくれと念を押していったではないか」と、逆襲した。
黒島大佐は、言い逃れだ、苦し紛れの弁解だ、論理のすり替えだと思い、憤然としたが、沈黙を守った。山本長官の前で、これ以上判断ミスを責めるわけにはいかなかった。
肝心の山本長官は、もっぱら草鹿参謀長たちのなぐさめ役にまわっていた。だが、黒島大佐は南雲司令部の作戦指導に対する疑問が底深くわだかまっていた。
昭和十七年八月七日、機動部隊の援護を受けた、アメリカの海兵師団が突如、ツラギ島とガダルカナル島に上陸してきた。アメリカ軍の本格的な巻き返しの第一歩だった。
黒島大佐は「大丈夫でしょう」と答えた。「こちらから命令しなくても、南雲司令部としても、ただちに攻撃するでしょう」とも。航空参謀・佐々木中佐も「同感であります。ご心配は無用かと思います」と言った。
山本長官は、「そうか、わざわざ命令せんでよいか」と言った。山本長官は、最終的に黒島大佐らの意見に同意して、「空母発見」の情報は機動部隊に伝達されなかった。
昭和十七年六月五日から七日にかけて行われたミッドウェー海戦は、惨敗だった。機動部隊の大型航空母艦、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の四隻とその艦載機、熟練したパイロットを一挙に失った。
山本長官は、決断を下した。四隻の空母が全滅した以上、ミッドウェー作戦は中止せざるを得ない。残った南雲機動部隊に退却命令を出さねばならぬ。
山本長官のこの意向を聞いて、黒島大佐など参謀たちは一種のパニック現象に陥ったといわれる。連合艦隊にとって、このような壊滅的な敗北は初めてだった。しかも参謀の誰もが負けるはずはないと思っていたのだ。
黒島大佐は泣きながら、山本長官の決断に反対した。「長官、『赤城』はまだ浮いています。『赤城』をこのまま見殺しにするのですか」。
もし、空母『赤城』がアメリカに捕獲されて見世物になったらどうするか。かといって、こちらが魚雷で『赤城』を沈めるわけにはいかない。したがって、第二主力部隊が現場に急行するしかないと、黒島大佐は山本長官に喰ってかかりながら、泣いていた。
黒島大佐とともに作戦立案にかかわった戦務参謀・渡辺中佐も強硬に山本長官の決断に反対し、作戦の続行を主張した。
二人は色をなして山本長官に喰ってかかったと言われている。だが、山本長官は、二人の意見を退けた。
山本長官は、いまだに沈まずに炎上し続けている『赤城』と『飛龍』を、駆逐艦「野分」に魚雷を発射させて沈めた。そして「ミッドウェー攻略ヲ中止ス」の退却命令を出した。
山本長官は参謀たちに、「今度の失敗はすべて僕の責任だ。南雲部隊を責めてはいかん」と言い残して、長官私室に引きこもり、数日間、姿を見せなかった。
アメリカの太平洋艦隊に対し、圧倒的に優勢だった連合艦隊が、一瞬のうちに壊滅してしまった。それは、黒島大佐が真珠湾奇襲作戦以来、築きあげてきた自信と誇りの崩壊を意味した。
黒島大佐をはじめ参謀たちは茫然自失していた。そういった姿を尻目に、宇垣参謀長は、水際立った指揮をし、全軍総退却の指導を行った。
以来、宇垣参謀長は、黒島大佐に遠慮せずに、ほかの参謀たちにも命令するようになった。今まで、山本長官と黒島大佐のラインに棚上げされていた宇垣参謀長は息を吹き返したようだったという。
ミッドウェー作戦は日本海軍、連合艦隊の大敗に終わった。南雲機動部隊の草鹿参謀長たちは乗り移っていた軽巡「長良」から、旗艦の戦艦「大和」に帰ってきた。
「大和」の艦上で、黒島大佐は、南雲機動部隊の首脳を血走った目で迎えた。怒気をはらんだその目は吊り上って、三人をにらみつけたという。
黒島大佐は、草鹿参謀長に「しかし、なぜ、敵発見から二時間近くも攻撃隊は発進しなかったのですか」と迫った。
すると、草鹿参謀長は「私は、連合艦隊にあれほど念を押していったはずです。『赤城』はじめ空母の通信施設は不十分だ。貧弱です。だから、重要情報は連合艦隊から転電してくれと念を押していったではないか」と、逆襲した。
黒島大佐は、言い逃れだ、苦し紛れの弁解だ、論理のすり替えだと思い、憤然としたが、沈黙を守った。山本長官の前で、これ以上判断ミスを責めるわけにはいかなかった。
肝心の山本長官は、もっぱら草鹿参謀長たちのなぐさめ役にまわっていた。だが、黒島大佐は南雲司令部の作戦指導に対する疑問が底深くわだかまっていた。
昭和十七年八月七日、機動部隊の援護を受けた、アメリカの海兵師団が突如、ツラギ島とガダルカナル島に上陸してきた。アメリカ軍の本格的な巻き返しの第一歩だった。