この大演説の行われる日比谷公会堂に、東條首相は特高を張り込ませ、場合によっては中止、解散をさせようと思ったが、四千人の聴衆が熱狂し、手も足も出なかった。
「東条英機と軍部独裁」(戸川猪佐武・講談社)によると、昭和十八年元旦の朝日新聞朝刊に「戦時宰相論」という囲みで十段の記事が掲載された。寄稿者は中野正剛だった。
東條首相は自宅で酒を飲んでいたが、その記事を見つけると、「もうやめだ!」と酒を飲むのをやめた。東條首相にとって、敵である中野正剛がまた、俺にたてついたと思うと、酒の味もまずくなった。
「戦時宰相論」の内容は要約すると次の様なものであった。
「大日本国は、上に世界無比なる皇室をいただいておる。かたじけないことに、非常時宰相はかならずしも、蓋世(勢いある)の英雄たらずとも、その任務を果たし得るのである。否、日本の非常時宰相は、たとえ英雄の本質を有するも、英雄の名を恣にしてはならないのである」
怒りが東條首相の顔をゆがめた。「上に天皇がおられるから、東條みたいに凡庸でも、戦時の宰相がつとめられるというのか。それに、宰相の俺を、売名家というのか!」。
さらに「戦時宰相論」は、次の様に結ばれていた。
「戦局日本の名宰相は、絶対に強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に謹慎に廉潔に、しかして気宇広大でなければならぬ」
東條首相は歯ぎしりする面持ちになった。「俺が不遜だというのか。世田谷に家を新築したのが驕慢、不潔というのか。俺が反軍的人間を許さんのが、狭小だというのか」。
東條首相は私邸から情報局総裁の谷正之を呼び出して「朝日新聞を発売禁止にしろ」と怒鳴った。すでに新聞は配達済みで効果は無かったが、その処置をとれば、朝日新聞は中野正剛への原稿を差し控えるだろう。それが狙いだった。
この「戦時宰相論」を中野正剛に依頼したのは、当時、朝日新聞主筆だった緒方竹虎だった。緒方は中野と同じ早稲田大学出身で在学中は意気投合し、朝日新聞でも仲間だった。
昭和十八年二月一日、東條首相は貴族院本会議で重大な発言をした。「私は戦勝についての確信は十二分にもっております」
「しかしながら、負ける場合は二つある。一つは戦争の核心をなす陸海軍が、二つに割れる場合である。だが、真剣な戦闘をやっている両者が割れるなど、思いもよらぬことであります」。そして次の様に言った。
「第二の場合は、国民の足並みが乱れる場合である。したがって国内の結束を乱す言動については、徹底的に今後もやっていく。たとえそのものが高官であろうと、容赦はいたしませぬ」
これはまさに反東條勢力を恫喝する言葉だった。この演説が終わった後、政界では「中野正剛と近衛文麿のことをいってるらしい」とささやかれた。
昭和十八年三月、第八十一議会で戦時刑事特別法改正法案の審議のために特別委員会が設けられた。中野正剛はこの時ばかりと、東條首相に挑戦した。
この改正法案に対して、真っ向から批判の矢を浴びせかけたのが、中野正剛の門下、旧東方会の三田村武夫だった。
江口繁、満井佐吉(元陸軍中佐)、真崎勝次(真崎甚三郎の弟・元海軍少将)らも批判した。批判の内容は「改正のねらいは、反東條の言論、政治運動の弾圧だ」「ナチスの戦時刑法同様、ファシズムそのものである」などというものだった。
三月六日、東條首相は岩村法相に「一歩も譲ってはならん、原案通り成立させよ」と厳命した。だが、その日の午後から、代議士会が開かれ、二百七十人余りが原案反対にまわった。中野正剛はしてやったりと思った。
東條首相は翼政会幹部、軍首脳を用いて、反対する代議士達の切り崩しにかかった。三月八日の時点で、反対する代議士は三田村武夫ただ一人になった。
三月九日、戦時刑事特別法改正法案は衆議院本会議で可決成立した。中野正剛は歯ぎしりをした。
昭和十八年六月十五日、東條内閣が企業整備法案を提出すると、中野はこれに反対し、三木武吉、鳩山一郎らも同調反対にまわった。
鳩山の演説に続いて、中野は、堂々と反戦ともとれる演説を行った。この頃、政界ではひそかに、東條首相の総辞職説から始まって、梅津美治郎陸軍大将の内閣説が流れていた。
この説を取り上げた近衛文麿は木戸内大臣に「梅津の背後には、共産主義を推進する革新派の池田純久少将がいるから、気をつけなければならない」という書面を送っている。
「東条英機と軍部独裁」(戸川猪佐武・講談社)によると、昭和十八年元旦の朝日新聞朝刊に「戦時宰相論」という囲みで十段の記事が掲載された。寄稿者は中野正剛だった。
東條首相は自宅で酒を飲んでいたが、その記事を見つけると、「もうやめだ!」と酒を飲むのをやめた。東條首相にとって、敵である中野正剛がまた、俺にたてついたと思うと、酒の味もまずくなった。
「戦時宰相論」の内容は要約すると次の様なものであった。
「大日本国は、上に世界無比なる皇室をいただいておる。かたじけないことに、非常時宰相はかならずしも、蓋世(勢いある)の英雄たらずとも、その任務を果たし得るのである。否、日本の非常時宰相は、たとえ英雄の本質を有するも、英雄の名を恣にしてはならないのである」
怒りが東條首相の顔をゆがめた。「上に天皇がおられるから、東條みたいに凡庸でも、戦時の宰相がつとめられるというのか。それに、宰相の俺を、売名家というのか!」。
さらに「戦時宰相論」は、次の様に結ばれていた。
「戦局日本の名宰相は、絶対に強くなければならぬ。強からんがためには、誠忠に謹慎に廉潔に、しかして気宇広大でなければならぬ」
東條首相は歯ぎしりする面持ちになった。「俺が不遜だというのか。世田谷に家を新築したのが驕慢、不潔というのか。俺が反軍的人間を許さんのが、狭小だというのか」。
東條首相は私邸から情報局総裁の谷正之を呼び出して「朝日新聞を発売禁止にしろ」と怒鳴った。すでに新聞は配達済みで効果は無かったが、その処置をとれば、朝日新聞は中野正剛への原稿を差し控えるだろう。それが狙いだった。
この「戦時宰相論」を中野正剛に依頼したのは、当時、朝日新聞主筆だった緒方竹虎だった。緒方は中野と同じ早稲田大学出身で在学中は意気投合し、朝日新聞でも仲間だった。
昭和十八年二月一日、東條首相は貴族院本会議で重大な発言をした。「私は戦勝についての確信は十二分にもっております」
「しかしながら、負ける場合は二つある。一つは戦争の核心をなす陸海軍が、二つに割れる場合である。だが、真剣な戦闘をやっている両者が割れるなど、思いもよらぬことであります」。そして次の様に言った。
「第二の場合は、国民の足並みが乱れる場合である。したがって国内の結束を乱す言動については、徹底的に今後もやっていく。たとえそのものが高官であろうと、容赦はいたしませぬ」
これはまさに反東條勢力を恫喝する言葉だった。この演説が終わった後、政界では「中野正剛と近衛文麿のことをいってるらしい」とささやかれた。
昭和十八年三月、第八十一議会で戦時刑事特別法改正法案の審議のために特別委員会が設けられた。中野正剛はこの時ばかりと、東條首相に挑戦した。
この改正法案に対して、真っ向から批判の矢を浴びせかけたのが、中野正剛の門下、旧東方会の三田村武夫だった。
江口繁、満井佐吉(元陸軍中佐)、真崎勝次(真崎甚三郎の弟・元海軍少将)らも批判した。批判の内容は「改正のねらいは、反東條の言論、政治運動の弾圧だ」「ナチスの戦時刑法同様、ファシズムそのものである」などというものだった。
三月六日、東條首相は岩村法相に「一歩も譲ってはならん、原案通り成立させよ」と厳命した。だが、その日の午後から、代議士会が開かれ、二百七十人余りが原案反対にまわった。中野正剛はしてやったりと思った。
東條首相は翼政会幹部、軍首脳を用いて、反対する代議士達の切り崩しにかかった。三月八日の時点で、反対する代議士は三田村武夫ただ一人になった。
三月九日、戦時刑事特別法改正法案は衆議院本会議で可決成立した。中野正剛は歯ぎしりをした。
昭和十八年六月十五日、東條内閣が企業整備法案を提出すると、中野はこれに反対し、三木武吉、鳩山一郎らも同調反対にまわった。
鳩山の演説に続いて、中野は、堂々と反戦ともとれる演説を行った。この頃、政界ではひそかに、東條首相の総辞職説から始まって、梅津美治郎陸軍大将の内閣説が流れていた。
この説を取り上げた近衛文麿は木戸内大臣に「梅津の背後には、共産主義を推進する革新派の池田純久少将がいるから、気をつけなければならない」という書面を送っている。