陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

234.山下奉文陸軍大将(14)東條が山下中将の総理就任を恐れて左遷した

2010年09月17日 | 山下奉文陸軍大将
 井伏はシンガポールで「マレーの虎」に怒鳴りあげられたのだから災難といえば災難だった。井伏は日常、「猛禽類」と綽名されるほど激しく憤りを露にする人として知られていたそうだが、山下軍司令官閣下にかかってはかなわなかった。

 当時、山下軍司令官はマレー住民の食糧問題で危機に追い込まれる立場に立たされていた。糧食がどこからも来なくなって、住民の死活問題だと言われるようになった。

 インドの食糧が来れば暫くは助かるが、華僑協会がそれを援助するかどうか、二つに一つというところに来ているようだった。それで山下軍司令官は頭を痛めていたのだ。

 そのようなとき、北川冬彦が詩で、「マレー人の女が雑草を食べている」と書いた。しかも「宣伝班の食堂では、平気で雀にパンを食べさせている」と書いた。

 それで、山下軍司令官はカッとなったのではなかったか、と井伏は思った。宣伝班に来ると山下軍司令官はいきなり、敗戦国の人間が草を食うのは当然だというようなことを言ったのだ。

 「悲劇の将軍」(今日出海・中公文庫)によると、シンガポールの陥落は日本人を熱狂させた。この派手な攻略戦の軍司令官は覆面を脱ぐと、西郷南州にそっくりの山下奉文中将だった。

 敵将パーシヴァル中将との降伏調印の場面は、洋画家・宮本三郎画伯により描かれ戦争画にも載り、ニュース映画でも流された。あの無愛想に口をへの字に結んだ山下中将の巨体が、痩せたパーシヴァルを圧して、無条件降伏に「イエスかノーか」と迫った場面は当時、子供でも忘れられないものだった。

 シンガポールを陥落させた山下中将が、満州の第一方面軍司令官の内命を受けたのは、昭和十七年六月下旬、南方軍総司令官・寺内寿一元帥の一行のマレー視察の際であった。

 山下中将は、寺内司令官が囲碁を好むことを知り、鈴木副官に携帯碁盤を用意させた。おかげで、旅行は寺内司令官のニコニコ顔で始終し、随行の参謀連も司令官の上機嫌に便乗して、視察地の随所で「一行支那娘ト共ニ沈没」といった歓をつくした。

 山下中将が、満州に新設される第一方面軍転補の内命を受けたのは、そういう「歓楽旅行」の終わり頃だった。

 山下中将は七月一日、旅行を終えて帰ると、その夜、寺内司令官を主賓とする盛大な宴会を迎賓館で開いた。すでに内命を承知している山下中将としては、別離の宴のつもりだった。

 軍司令官は本来なら東京に帰ってきて、親任式で天皇に戦況報告をして、お言葉を頂いてから次の赴任地に行く。だが、山下中将はマレー作戦の功労者であるにもかかわらず、日本に帰ることは許されず直接満州に飛んだ。

 理由は「防諜のため」ということだった。いわゆる覆面将軍として赴任し、適当な時期に着任を発表するためだが、仮にもシンガポール攻略の英雄将軍である。

 その軍司令官が天皇に会えないという事態は異常なことだった。このように偶像視され、迷信的に信頼された将軍が大将に昇進したことだけは判ったが、再び覆面して満州の第一方面軍司令官になってソ満国境防衛に当たっていたことを知っている人は少なかった。

 また、知っている人も中央から敬遠されているのではないかと疑った。シンガポール陥落後、山下中将は総理大臣になるという噂も巷に伝わった。

 東條首相が山下中将を内地に帰らせなかったとも言われている。東條よりも陸士一期下の十八期生である山下中将は、東條の次の首相に予想されたのも無理は無かった。

 その山下中将が突然覆面に戻って消息を絶ったのだから、東條とソリが合わず、東條が山下中将の総理就任を恐れて左遷したのではないかと、暗黒政治に有識者は眉をひそめた。

 第一方面軍司令部は満州の首都、新京の東北方、小興安嶺の麓の牡丹江に置かれていた。この第一方面軍約三十万人の軍司令官に山下奉文中将(陸士一八・陸大二八恩賜)は就任した。

 また、新設された第二方面軍の軍司令官は阿南惟幾中将(陸士一八・陸大三〇)だった。そして満州を統督する関東軍司令官は梅津美治郎大将(陸士一五・陸大二三首席)だった。

 山下中将がシンガポール攻略後の処遇、特に天皇拝謁の機会を得られなかった不満を、満州の空に吹き散らしたかの如く晴れ晴れと赴任したのは、この満州における人的配置にあった。

 梅津大将、山下中将、阿南中将の三将を比較すれば、見事に三者三様である。梅津大将はその冷智をうたわれ、山下中将は政治的手腕を評価され、阿南中将は篤実さを強調される。