陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

148.小沢治三郎海軍中将(8) 裸で何ができる、カラの空母は出さないという約束だったじゃないか

2009年01月23日 | 小沢治三郎海軍中将
 昭和19年9月中旬から下旬にかけて、豊田大将と小沢中将の間で激論が闘わされた。小沢中将は、搭乗員養成の必要から頑としてリンガ泊地進出を拒否した。

 豊田大将は業を煮やして、軍令部に働きかけた。「豊田大将は次期作戦にはみずから戦場に出ることを望んでいる。そこで次席指揮官の小沢中将が最前線に出ることを求めている」と天皇の名によって、小沢中将を動かそうとした。

 だが、そんな激論をやっているうちに、戦況が猛スピードで動いた。9月中旬、ハルゼイ大将指揮の米機動部隊の空襲で、フィリピン中南部に展開していた決戦主力の基地航空部隊が大打撃を受けたのだ。

 そこで、10月12日から15日まで、連合艦隊は「捷号作戦」を発動した。基地航空部隊全力による航空撃滅戦を敢行したのだ。陸軍航空部隊も魚雷を抱いて出撃した。

 大戦果が報告された。「空母19、戦艦4など撃沈破45隻」と。

 豊田大将は、前線基地の視察と激励を兼ねて台湾の航空基地にいたが、この報告を聞いて、躍動した。当時の基地航空部隊参謀の証言がある。

 「豊田大将が風呂上りで、石鹸の匂いをプンプンさせながら、浴衣がけと草履ばきで作戦室に入ってきた。しばらく作戦図を見ていたが、やがて、『追撃だ、追撃』と独り言のように口走った」。

 この豊田大将の追撃命令が、レイテ湾突入の小沢、豊田論争に決着をつけた。連合艦隊は、各航空部隊に出撃を命じた。小沢中将指揮の航空戦隊に対しても航空機の出動を命じたのだ。

 小沢部隊の作戦参謀は、電話口で怒鳴った。「フィリピンに対する爾後の本格的上陸作戦が始まったとき、空母部隊の出撃を連合艦隊は断念しているのか確かめよ、と小沢長官は言っている。母艦発着訓練をやった航空隊を基地作戦で潰したくない」。

 すると相手の連合艦隊作戦参謀の神重徳大佐(海兵48・海大31首席)は「敵機動部隊を叩く好機は今だ。次の作戦には母艦部隊を使用しない」と答えた。

 こうして、小沢中将が丹精込めて練磨しつつあった、母艦の飛行機隊は沖縄に向けて飛び立った。だが、台湾沖航空戦の戦果はすべて誤報であった。冷静になって戦果を分析した結果、空母4隻程度の撃沈に過ぎないと連合艦隊は判断した。

 残された主要戦力は栗田中将の水上部隊のみである。連合艦隊は栗田部隊による敵の上陸地点突入を決定した。大和、武蔵による上陸地点への殴り込みである。

 小沢司令部の作戦室に、ふたたび神参謀から鹿児島弁の電話がかかった。「小沢部隊もただちに出動。栗田部隊のレイテ湾突入に策応して、作戦通り敵機動部隊を北方に牽制してもらいたい」

 小沢司令部の参謀の怒髪は天を突いた。「飛行機のほとんどいない空母部隊に、裸で何ができる、カラの空母は出さないという約束だったじゃないか」

 すると神参謀は言った。「新情勢に全力を尽くす必要がある。小沢部隊は、オトリになってもらう」

 小沢司令部の参謀たちは唖然とした。だが、小沢中将は言った。「それが必要というなら、やろうじゃないか」と。

 だが、栗田部隊は途中で反転して、レイテ湾突入を行わなかった。それにもかかわらず、小沢部隊は、オトリの役をこなし、ハルゼイの艦隊を混乱に陥れた。

 昭和19年10月、小沢中将は長期にわたっての艦隊の指揮官から、軍令部次長に補された。小沢次長がもっとも精力を傾けたのは、本土決戦に凝り固まっていた陸軍を、沖縄決戦に切り換えるよう説得することだった。

 小沢次官は前線でも、そう処していたのだが、かねてから、陸軍とか海軍とかの面子の前に、国や国家があることを考えなければならないと思っていた。

 井上成美は「陸軍と手を握るのは、強盗と手を結ぶが如し」と、陸軍を激しく憎悪したが、小沢のいた前線ではそのようなことに囚われてはいられなかったのである。