昭和12年11月、小沢少将は、第八艦隊司令官に補された。「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、昭和13年初夏、第八戦隊は鹿児島県南端の枕崎に入港した。小沢司令官は宮崎中学校時代の同級生が、加世田市の農学校の校長をしているのを知って訪ねた。
その往きの自動車の中で、部下の藤田正路参謀(海兵52・海大35)は、小沢司令官から「君も参謀ばかりやっていると、人間が駄目になるぞ。来年は何か小さい艦の指揮官をやらせてもらえ」と言われた。
その後も藤田参謀は、太平洋戦争に突入するまでの間、第二水雷戦隊、第二艦隊と依然として参謀であった。小沢は藤田参謀に会うと、「まだ参謀をやっているのか。駄目だなあ」と言っていたという。
昭和14年11月、小沢は第一航空戦隊司令官として、旗艦の空母「赤城」に着任した。当時の小沢少将は、従来の体験と研究から航空艦隊(母艦群を中心とする機動艦隊)の創設を主張していた。
だが、連合艦隊司令部内では、消極論が多数を占めていた。第二艦隊司令長官・古賀峯一中将(海兵34・海大15)などは、これに強く反対した。その中で、山本五十六連合艦隊司令長官は小沢の意見に賛成していた。
ある日、軍令部の作戦部長室で、小沢少将が宇垣纏少将(海兵40・海大22)に航空艦隊実現について、意見を述べていた。そこに、山本五十六連合艦隊司令長官(海兵32・海大14)がひょっこり入ってきた。
「何を議論しているのか」
「航空艦隊創設について、意見を申し述べているところです」と小沢が答えると、山本長官は「それなら大いにやれ。後へ引くなよ」と言った。
「秘史・太平洋戦争の指揮官たち」(新人物王来社)によると、山本連合艦隊司令長官の後押しで、小沢の意見が採用されて、第一航空艦隊が編成されたのは昭和16年4月だった。
これが日本海軍初の空母機動部隊の誕生であり、小沢が「機動部隊生みの親」といわれる所以である。ちなみに同じ頃、アメリカ海軍でも、日本の小沢と同じ考えで、タスクフォース(空母の機動部隊)が編成されていた。
ところが、小沢の発案で誕生した第一航空艦隊の司令長官には、今まで航空にはあまりなじみのなかった南雲忠一中将が着任した。小沢は南遣艦隊司令長官に任命された。
この人事には小沢も納得がいかなかったようで、戦後になって、小沢は親しい人に何度も、「本当は俺が南雲さんの代わりに真珠湾をやるはずだった」と漏らしている。
「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、昭和16年10月22日、南遣艦隊司令長官に任命された小沢中将は、海軍大臣官邸で嶋田繁太郎海軍大臣(海兵32・海大13)と会食した後、南方に向かうことになった。
南遣艦隊の任務は陸軍の山下奉文中将(陸士18・陸大28)が指揮するマレー・シンガポール攻略の第二十五軍を上陸地点まで護衛して輸送することと、英国の東洋艦隊撃滅であった。
小沢中将は日本を離れる前に山本連合艦隊司令長官に会いたいと思った。汽車で九州の佐伯まで行き、佐伯湾に在泊中の旗艦「陸奥」に山本長官を訪ねた。
山本長官は、小沢中将の顔を見るなり「どうして井上(成美)を大臣にしないのかなあ」と憤懣やるかたない口吻で言った。小沢は一瞬、戸惑って、言葉が出なかった。
すると山本長官は重ねて「井上が海軍大臣でないとダメなんだ。井上なら東條(英機)と堂々と渡り合えるんだ」と激した口調で言った。
南遣艦隊司令長官という、難しい仕事を背負った小沢中将としては、山本長官から心構えやアドバイスを受けたいと思って訪ねたのだった。それなのに、話は中央の話だった。
おそらく山本長官としては、開戦必至となった以上、短期で勝負を決し、一刻も早く和平に導きたいと考えていた。そのために東條に屈せず、早期講和に導いてくれる海軍側の人材は、井上しかいなかった。
山本長官の思いは理解できたが、小沢中将の任務も重要だった。たまりかねて小沢中将は心構えを山本長官に尋ねた。
すると山本長官は「まあ、適当にやってくれよ」の一言だけであった。平素の山本長官からはうかがえ知れない言葉だった。小沢中将は自分の所信通りにやろうと、心に決めた。
その往きの自動車の中で、部下の藤田正路参謀(海兵52・海大35)は、小沢司令官から「君も参謀ばかりやっていると、人間が駄目になるぞ。来年は何か小さい艦の指揮官をやらせてもらえ」と言われた。
その後も藤田参謀は、太平洋戦争に突入するまでの間、第二水雷戦隊、第二艦隊と依然として参謀であった。小沢は藤田参謀に会うと、「まだ参謀をやっているのか。駄目だなあ」と言っていたという。
昭和14年11月、小沢は第一航空戦隊司令官として、旗艦の空母「赤城」に着任した。当時の小沢少将は、従来の体験と研究から航空艦隊(母艦群を中心とする機動艦隊)の創設を主張していた。
だが、連合艦隊司令部内では、消極論が多数を占めていた。第二艦隊司令長官・古賀峯一中将(海兵34・海大15)などは、これに強く反対した。その中で、山本五十六連合艦隊司令長官は小沢の意見に賛成していた。
ある日、軍令部の作戦部長室で、小沢少将が宇垣纏少将(海兵40・海大22)に航空艦隊実現について、意見を述べていた。そこに、山本五十六連合艦隊司令長官(海兵32・海大14)がひょっこり入ってきた。
「何を議論しているのか」
「航空艦隊創設について、意見を申し述べているところです」と小沢が答えると、山本長官は「それなら大いにやれ。後へ引くなよ」と言った。
「秘史・太平洋戦争の指揮官たち」(新人物王来社)によると、山本連合艦隊司令長官の後押しで、小沢の意見が採用されて、第一航空艦隊が編成されたのは昭和16年4月だった。
これが日本海軍初の空母機動部隊の誕生であり、小沢が「機動部隊生みの親」といわれる所以である。ちなみに同じ頃、アメリカ海軍でも、日本の小沢と同じ考えで、タスクフォース(空母の機動部隊)が編成されていた。
ところが、小沢の発案で誕生した第一航空艦隊の司令長官には、今まで航空にはあまりなじみのなかった南雲忠一中将が着任した。小沢は南遣艦隊司令長官に任命された。
この人事には小沢も納得がいかなかったようで、戦後になって、小沢は親しい人に何度も、「本当は俺が南雲さんの代わりに真珠湾をやるはずだった」と漏らしている。
「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、昭和16年10月22日、南遣艦隊司令長官に任命された小沢中将は、海軍大臣官邸で嶋田繁太郎海軍大臣(海兵32・海大13)と会食した後、南方に向かうことになった。
南遣艦隊の任務は陸軍の山下奉文中将(陸士18・陸大28)が指揮するマレー・シンガポール攻略の第二十五軍を上陸地点まで護衛して輸送することと、英国の東洋艦隊撃滅であった。
小沢中将は日本を離れる前に山本連合艦隊司令長官に会いたいと思った。汽車で九州の佐伯まで行き、佐伯湾に在泊中の旗艦「陸奥」に山本長官を訪ねた。
山本長官は、小沢中将の顔を見るなり「どうして井上(成美)を大臣にしないのかなあ」と憤懣やるかたない口吻で言った。小沢は一瞬、戸惑って、言葉が出なかった。
すると山本長官は重ねて「井上が海軍大臣でないとダメなんだ。井上なら東條(英機)と堂々と渡り合えるんだ」と激した口調で言った。
南遣艦隊司令長官という、難しい仕事を背負った小沢中将としては、山本長官から心構えやアドバイスを受けたいと思って訪ねたのだった。それなのに、話は中央の話だった。
おそらく山本長官としては、開戦必至となった以上、短期で勝負を決し、一刻も早く和平に導きたいと考えていた。そのために東條に屈せず、早期講和に導いてくれる海軍側の人材は、井上しかいなかった。
山本長官の思いは理解できたが、小沢中将の任務も重要だった。たまりかねて小沢中将は心構えを山本長官に尋ねた。
すると山本長官は「まあ、適当にやってくれよ」の一言だけであった。平素の山本長官からはうかがえ知れない言葉だった。小沢中将は自分の所信通りにやろうと、心に決めた。