今井大佐は、通常は戦闘間の命令は絶対服従だが、この命令は人間として「はいそうですか」というわけにはいかなかった。今井大佐は次の様に返答した。
「本命令はこと重大で、普通では考えられない問題だ。したがって口頭命令では実行しかねるから、正規の筆記命令で伝達せられたい」。
そして今井大佐は直ちに命令して、部隊が連れていた捕虜全員の武装を解除し、マニラ街道を北進するよう指示し、一斉に釈放した。
今井大佐のそばにいた、渡辺中尉や杉田主計中尉、その他の若い将校は、意外な指示に驚き、その時新しい捕虜数百人を連行していた兵隊たちは極めて不満気で、あっけにとられていた。
今井大佐は、兵団はたぶんこの非常識な筆記命令を交付することはないだろう。万一命令が交付されても手元に一人の捕虜もいなければ問題はないと判断していた。案の定筆記命令は来なかった。
戦後明らかになったが、このような不合理で残酷な命令が大本営から下されるわけはなかったし、本間中将もまったく関知していなかった。
松永参謀の話によると、たまたま、大本営から戦闘指導に派遣されていた参謀本部作戦課作戦班長・辻政信中佐(陸士三六首席・陸大四三恩賜・大佐・第一八方面軍作戦課長・戦後衆議院議員・参議院議員)が、口頭で伝達して歩いたとのことだった。
辻政信中佐は参謀総長・杉山元大将によりバターン攻撃の戦闘指導に派遣されて来た。杉山大将は本間中将の作戦指導に不満を持っていたからだ。
第一四二連隊の副官・藤田相吉大尉は真夜中に突然通信兵に揺り起こされた。「兵団の都渡参謀からの電話であります」。第六五旅団参謀・都渡正義(とわたり・まさよし)少佐(陸士三七)からの電話だった。
「都渡参謀ですがね、吉沢支隊の明日の行動について申しておきます。筆記しないでください」。何かはばかるものがあるような口ぶりだった。
「兵団命令の要旨を伝えます。吉沢支隊は明早朝、露営地を出発しレチナン河右岸に適宜陣地を占領し、後退し来る敵捕虜を捕捉殲滅すべし。細部は出発の時申します。以上です」。
藤田大尉は一瞬耳を疑った。奇怪な命令だった。驚くべき命令。藤田大尉はしばらく考えて「それはできません」とはっきり言い切った。
都渡少佐は、驚いた様子で「何ですか、その言葉は。貴官は支隊長に要旨命令を伝えればよいのだ」と言った。
藤田大尉は「それができないのであります」と答えると、「なぜできないのか。命令に反抗する気か」と都渡少佐は言った。そこで藤田大尉は次の様に述べた。
「都渡参謀殿、私は今日何千という捕虜を見ております。武器を捨ててわが軍の命令どおりに後退した捕虜をだまし討ちにすることは皇軍の道ではないと思います。だいいち、あの多数の捕虜を皆殺しにすることは、技術的には不可能です。後日必ず問題になります」。
「軍の命令だ。捕虜は認めない」と都渡少佐が言ったので、藤田大尉は「私を軍法会議にかけてください」と言い返した。このときのことを藤田大尉は次の様に述べている。
「そのとき、私はふと、T参謀を思い浮かべた。T参謀はマレー作戦の参謀だった。いま大本営から派遣参謀として本作戦に加わり、盛んに軍の参謀部をかき回していると聞いた。とかく問題の多い軍人で、この無謀な命令はT参謀の私物命令ではあるまいか」。
T参謀とは辻政信中佐のことだった。辻参謀のことは全軍に知れ渡っていた。この電話の一時間後に「さきほどの電話命令は取り消し」と訂正の電話が入った。辻参謀の私物命令は事実だった。
バターン半島での米比軍捕虜は約六万人。それに一般市民で米比軍と一緒に山に逃げ込んだのが約三万人いたから総計九万人。日本軍の想像をはるかに超えた数だった。
しかも、日本軍は、これら捕虜に与える食糧、収容施設をバターン半島に用意する暇も余力もなく、当然のこととして、食糧などの補給しやすい地域に移動させる必要に迫られた。
日本軍の移動でさえ、徒歩が普通であったので、九万人の捕虜にトラックを用意する余力はなかった。
「本命令はこと重大で、普通では考えられない問題だ。したがって口頭命令では実行しかねるから、正規の筆記命令で伝達せられたい」。
そして今井大佐は直ちに命令して、部隊が連れていた捕虜全員の武装を解除し、マニラ街道を北進するよう指示し、一斉に釈放した。
今井大佐のそばにいた、渡辺中尉や杉田主計中尉、その他の若い将校は、意外な指示に驚き、その時新しい捕虜数百人を連行していた兵隊たちは極めて不満気で、あっけにとられていた。
今井大佐は、兵団はたぶんこの非常識な筆記命令を交付することはないだろう。万一命令が交付されても手元に一人の捕虜もいなければ問題はないと判断していた。案の定筆記命令は来なかった。
戦後明らかになったが、このような不合理で残酷な命令が大本営から下されるわけはなかったし、本間中将もまったく関知していなかった。
松永参謀の話によると、たまたま、大本営から戦闘指導に派遣されていた参謀本部作戦課作戦班長・辻政信中佐(陸士三六首席・陸大四三恩賜・大佐・第一八方面軍作戦課長・戦後衆議院議員・参議院議員)が、口頭で伝達して歩いたとのことだった。
辻政信中佐は参謀総長・杉山元大将によりバターン攻撃の戦闘指導に派遣されて来た。杉山大将は本間中将の作戦指導に不満を持っていたからだ。
第一四二連隊の副官・藤田相吉大尉は真夜中に突然通信兵に揺り起こされた。「兵団の都渡参謀からの電話であります」。第六五旅団参謀・都渡正義(とわたり・まさよし)少佐(陸士三七)からの電話だった。
「都渡参謀ですがね、吉沢支隊の明日の行動について申しておきます。筆記しないでください」。何かはばかるものがあるような口ぶりだった。
「兵団命令の要旨を伝えます。吉沢支隊は明早朝、露営地を出発しレチナン河右岸に適宜陣地を占領し、後退し来る敵捕虜を捕捉殲滅すべし。細部は出発の時申します。以上です」。
藤田大尉は一瞬耳を疑った。奇怪な命令だった。驚くべき命令。藤田大尉はしばらく考えて「それはできません」とはっきり言い切った。
都渡少佐は、驚いた様子で「何ですか、その言葉は。貴官は支隊長に要旨命令を伝えればよいのだ」と言った。
藤田大尉は「それができないのであります」と答えると、「なぜできないのか。命令に反抗する気か」と都渡少佐は言った。そこで藤田大尉は次の様に述べた。
「都渡参謀殿、私は今日何千という捕虜を見ております。武器を捨ててわが軍の命令どおりに後退した捕虜をだまし討ちにすることは皇軍の道ではないと思います。だいいち、あの多数の捕虜を皆殺しにすることは、技術的には不可能です。後日必ず問題になります」。
「軍の命令だ。捕虜は認めない」と都渡少佐が言ったので、藤田大尉は「私を軍法会議にかけてください」と言い返した。このときのことを藤田大尉は次の様に述べている。
「そのとき、私はふと、T参謀を思い浮かべた。T参謀はマレー作戦の参謀だった。いま大本営から派遣参謀として本作戦に加わり、盛んに軍の参謀部をかき回していると聞いた。とかく問題の多い軍人で、この無謀な命令はT参謀の私物命令ではあるまいか」。
T参謀とは辻政信中佐のことだった。辻参謀のことは全軍に知れ渡っていた。この電話の一時間後に「さきほどの電話命令は取り消し」と訂正の電話が入った。辻参謀の私物命令は事実だった。
バターン半島での米比軍捕虜は約六万人。それに一般市民で米比軍と一緒に山に逃げ込んだのが約三万人いたから総計九万人。日本軍の想像をはるかに超えた数だった。
しかも、日本軍は、これら捕虜に与える食糧、収容施設をバターン半島に用意する暇も余力もなく、当然のこととして、食糧などの補給しやすい地域に移動させる必要に迫られた。
日本軍の移動でさえ、徒歩が普通であったので、九万人の捕虜にトラックを用意する余力はなかった。