鈴木侍従長は「政府が国家の大局上より回訓を決定したのであるから、これに対し国防上不安があるというなら、適切な手段を講じ、むしろ軍令部が率先して、最善の努力で不安をのぞくのが本務というものではないか」と言った。
「なおよく考えてみましょう」と言って、加藤軍令部長は侍従長感謝を辞去した。
加藤軍令部長は、後刻、「政府上奏前に、上奏することはやめにした」と鈴木侍従長に通知した。
四月一日、閣議は政府回訓案を了承し、午後二時過ぎ、浜口首相は参内、回訓案を上奏して天皇の裁可を得た。午後五時、外相から在ロンドンの全権団に回訓が発令された。
翌二日、加藤軍令部長は天皇に拝謁した。このとき、異例のことながら、奈良侍従武官長ではなく、海軍出身の鈴木侍従長が侍立した。
このためだろうか、加藤軍令部長の上奏は、「政府回訓に示された兵力量では大正十二年にご裁定になった国防方針に基づく作戦計画に重大な変更をきたしますので、慎重審議を要するものと信じます」というにとどめ、強硬な態度は示さなかった。
ロンドン条約は昭和五年四月二十二日に調印されることになった。万事は円満に終わるかに見えた。ところが、四月二十一日、海軍軍令部は条約に同意しないと表明した。
条約調印後、四月二十五日、第五十八特別議会で、野党である政友会の犬養毅、鳩山一郎らが突如、「ロンドンで締結した軍縮会議には、国防上の欠陥と統帥権干犯があるのではないか」と爆弾を投げかけた。
政友会は軍令部と暗黙の了解があり、軍令部は若い将校群から突き上げられていた。その勢いは東郷元帥と伏見宮のかつぎ出しまで発展した。
加藤大将に吹き込まれた東郷元帥は怒った。特にロンドン会議の全権の財部彪海相がロンドンに夫人を同伴したことに、「戦争に、かかあを連れて行くとは何事か」と激怒した。
ロンドンから帰国した財部海相が、東京駅に着く五月二十日、軍令部参謀・草刈英治少佐(海兵四一・海大二六)は東海道線車内で海相を暗殺しようとしたが、決行し得ずに、自決した。
条約反対派は、草刈少佐は死をもってロンドン条約に抗議したと、少佐の死を称え、反対の火の手はますます大きくなった。
六月十日、加藤軍令部長は、ついに政府を弾劾する上奏分を奏上し、直接に天皇に辞表を提出した。その思い切った行動で事態の重大化を期待したが、天皇はただ沈黙をもってそれにこたえた。
この頃、政府が軍令部長の反対を無視して回訓を決め、鈴木貫太郎侍従長が加藤軍令部長の上奏を阻止し、統帥権干犯をしたと攻撃する怪文書が、さかんにばらまかれた。
軍令部長ばかりでなく、鈴木侍従長は、ロンドン条約反対派の伏見宮が参内しようとするのまで邪魔したという事件までがささやかれた。
その事件は三月末の頃起きた。伏見宮が参内して拝謁の取次ぎを求めると、気骨の鈴木侍従長が、「兵力量はロンドン条約でさしつかえありません。条約に関する奏上はもってのほかであります」と諌言をした。
伏見宮は怒って、「お前らが奏上するときは直立不動だが、私は雑談的に陛下にお話しできるのだ」と反駁(はんばく)した。だが、結局拝謁は阻止された。
四月二日の軍令部長の奏上のとき鈴木侍従長が侍立したことも問題視された。これも統帥権干犯だというのだった。これは明らかに越権行為であると鈴木侍従長を非難した。
さらに草刈少佐の自刃に対する鈴木侍従長の見解が、右翼や青年将校らを激憤させた。それは次の様な内容だった。
「軍人は勅諭を奉戴し、一旦緩急あるとき戦場に屍をさらすのが本分である。故に、帝国軍人たる
矜持(きょうじ・誇り、自負)と名誉のため、ロンドン条約の経緯などで生命を捨てたものとは信じない。たしかに神経衰弱のせいだと思う」。
こうした鈴木侍従長の発言や行動は、一年近く前、田中義一首相の辞任の引き金をひいたと非難されたときと同様に、いや、それ以上に、“君側の奸”視され糾弾されることになった。
例えば右翼の日本国民党は、九月十日に「亡国的海軍条約を葬れ」と題する檄文を各方面に配布し、最後的決定行動をに入るべき決死隊を組織したと宣伝した。
その目標は、浜口雄幸首相、財部彪海相およびそれと通謀した牧野信顕(まきの・のぶあき)内大臣(東京帝大中退・外務省・外務大臣・伯爵)、鈴木貫太郎侍従長だった。
「なおよく考えてみましょう」と言って、加藤軍令部長は侍従長感謝を辞去した。
加藤軍令部長は、後刻、「政府上奏前に、上奏することはやめにした」と鈴木侍従長に通知した。
四月一日、閣議は政府回訓案を了承し、午後二時過ぎ、浜口首相は参内、回訓案を上奏して天皇の裁可を得た。午後五時、外相から在ロンドンの全権団に回訓が発令された。
翌二日、加藤軍令部長は天皇に拝謁した。このとき、異例のことながら、奈良侍従武官長ではなく、海軍出身の鈴木侍従長が侍立した。
このためだろうか、加藤軍令部長の上奏は、「政府回訓に示された兵力量では大正十二年にご裁定になった国防方針に基づく作戦計画に重大な変更をきたしますので、慎重審議を要するものと信じます」というにとどめ、強硬な態度は示さなかった。
ロンドン条約は昭和五年四月二十二日に調印されることになった。万事は円満に終わるかに見えた。ところが、四月二十一日、海軍軍令部は条約に同意しないと表明した。
条約調印後、四月二十五日、第五十八特別議会で、野党である政友会の犬養毅、鳩山一郎らが突如、「ロンドンで締結した軍縮会議には、国防上の欠陥と統帥権干犯があるのではないか」と爆弾を投げかけた。
政友会は軍令部と暗黙の了解があり、軍令部は若い将校群から突き上げられていた。その勢いは東郷元帥と伏見宮のかつぎ出しまで発展した。
加藤大将に吹き込まれた東郷元帥は怒った。特にロンドン会議の全権の財部彪海相がロンドンに夫人を同伴したことに、「戦争に、かかあを連れて行くとは何事か」と激怒した。
ロンドンから帰国した財部海相が、東京駅に着く五月二十日、軍令部参謀・草刈英治少佐(海兵四一・海大二六)は東海道線車内で海相を暗殺しようとしたが、決行し得ずに、自決した。
条約反対派は、草刈少佐は死をもってロンドン条約に抗議したと、少佐の死を称え、反対の火の手はますます大きくなった。
六月十日、加藤軍令部長は、ついに政府を弾劾する上奏分を奏上し、直接に天皇に辞表を提出した。その思い切った行動で事態の重大化を期待したが、天皇はただ沈黙をもってそれにこたえた。
この頃、政府が軍令部長の反対を無視して回訓を決め、鈴木貫太郎侍従長が加藤軍令部長の上奏を阻止し、統帥権干犯をしたと攻撃する怪文書が、さかんにばらまかれた。
軍令部長ばかりでなく、鈴木侍従長は、ロンドン条約反対派の伏見宮が参内しようとするのまで邪魔したという事件までがささやかれた。
その事件は三月末の頃起きた。伏見宮が参内して拝謁の取次ぎを求めると、気骨の鈴木侍従長が、「兵力量はロンドン条約でさしつかえありません。条約に関する奏上はもってのほかであります」と諌言をした。
伏見宮は怒って、「お前らが奏上するときは直立不動だが、私は雑談的に陛下にお話しできるのだ」と反駁(はんばく)した。だが、結局拝謁は阻止された。
四月二日の軍令部長の奏上のとき鈴木侍従長が侍立したことも問題視された。これも統帥権干犯だというのだった。これは明らかに越権行為であると鈴木侍従長を非難した。
さらに草刈少佐の自刃に対する鈴木侍従長の見解が、右翼や青年将校らを激憤させた。それは次の様な内容だった。
「軍人は勅諭を奉戴し、一旦緩急あるとき戦場に屍をさらすのが本分である。故に、帝国軍人たる
矜持(きょうじ・誇り、自負)と名誉のため、ロンドン条約の経緯などで生命を捨てたものとは信じない。たしかに神経衰弱のせいだと思う」。
こうした鈴木侍従長の発言や行動は、一年近く前、田中義一首相の辞任の引き金をひいたと非難されたときと同様に、いや、それ以上に、“君側の奸”視され糾弾されることになった。
例えば右翼の日本国民党は、九月十日に「亡国的海軍条約を葬れ」と題する檄文を各方面に配布し、最後的決定行動をに入るべき決死隊を組織したと宣伝した。
その目標は、浜口雄幸首相、財部彪海相およびそれと通謀した牧野信顕(まきの・のぶあき)内大臣(東京帝大中退・外務省・外務大臣・伯爵)、鈴木貫太郎侍従長だった。