陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

48.石川信吾海軍少将(8) 及川大将では駄目だと言ったら、選考しなおすと言う事なのですか

2007年02月16日 | 石川信吾海軍少将
 喜多少将が尋問口調で口を差し挟んできたので、石川大佐は「青島海軍戸特務部は第四艦隊長官の完全な指揮下にあるのだから、ご意見は海軍特務部と第四艦隊長官に言って頂きたい」と答えた。

 そして「ついでながら、ご参考のため意見を申し上げると、支那事変をどう始末するかの根本問題で、国家の腹が本当に決まっていないから、現地で色々ごたつくのだと思う」と言った。

 続いて第二次大戦に進む危険性、陸軍の北支の統治体制への批判などを述べたら、それでその場の話は終わってしまった。

 帰り際に、武藤大佐が今夜一席設けてあるから、是非出てくれと言った。

 石川大佐が「おい、毒殺されるんじゃあるまいね」と冗談を飛ばしたら、武藤大佐も「ばかをいうなよ」ということで、その夜は大いに飲み、歓談した。

 昭和14年9月、石川大佐は東京の興亜院本庁の政務部第一課長に転任になった。

 特務部長は陸軍の鈴木貞一中将で、石川大佐と鈴木中将は満州事変以来の知り合いだった。

 第二次近衛内閣が組閣されて間もない頃、三国同盟に関する海軍の態度がはっきりしないので、政府は当惑していた。

 ある日鈴木特務部長から「海軍大臣の腹はどうなのだろうか」といった打診があった。

 石川大佐は個人的に9月3日、吉田海軍大臣に面会した。

 石川大佐は吉田大臣に「もし大臣の腹が三国同盟に反対と決定しているのなら、陸軍を向こうに回して大喧嘩をやりましょう」と言った。

 吉田大臣は「この際、陸軍と喧嘩をするのはまずい」と洩らした。

 石川大佐は、「それでは三国同盟に同意するのですか」と尋ねた。

 すると吉田大臣は「しかし、対米戦争の準備がないからなあ」と言った。

 石川大佐がさらに「ここまでくれば、理屈ではなくて、いずれをとるかという大臣の腹一つだと思います」と言うと

 吉田大臣は「困ったなあ」と言った。

 たまたま、軍令部第三部長の岡敬純少将が傍にいて、石川大佐にもう帰れと目配せしたので、石川大佐は退出した。

 その夜、吉田大将は疲労も加わって、倒れた。

 その後日、内閣書記官長から石川大佐に「海軍大臣に及川大将という話があるのだが、及川大将で海軍は大丈夫か」と電話があった。

 近衛首相の内意を受けて電話したとのことだった。

 このころ新聞等によく海軍の派閥争いを取材した記事が掲載され、軍政派と艦隊派というように書き分けられ、世間にはやしたてられていた。

 石川大佐も加藤・末次直系の青年将校ということで、何度もリストに載せられた事があった。

 確かに海軍には重要な問題をはさんで、軍政上の立場と、用兵上の立場とがあり、ずい分激烈な議論や、時には闘争的な場面さえ展開したことがあるが、組織的な派閥というものはなかった。

 石川大佐自身そういう雰囲気を感じたことはなかった。石川大佐は米内大将、及川大将とか、世間のリストでは軍政派であるべき先輩のところへも気軽に出入りしていた。

 そういう背景があるから、首相が海軍大臣の後任について、そういう問題に関与すべきでない立場の石川大佐の意見を、書記官長に電話できかせるなどとは、海軍の統制を乱す軽率な振る舞いであると思った。

 そこで石川大佐は「もし、私が、及川大将では駄目だと言ったら、選考しなおすと言う事なのですか。それを先に承りたい」と答えた。

 そしたら「ちょっと待って下さい」と、しばらく待たされてから「それではよろしいですから」と言って電話が切れた。

 石川大佐は及川大将が大臣候補に確定していることを知ったので、横須賀鎮守府に電話した。

 及川大将に「明日近衛総理から呼ばれておいでになるようですが、問題は三国同盟をどうするかにあるので、それについて海軍の腹をお決めになった上でないと、大臣をお引き受けになってもまずい事になると思います」と言った。

 さらに「近衛総理にお会いになる前に、二十分で結構ですから、私の知っている事の限りをお話した方がよいかと思います」と言った。

 及川大将は「それでは明朝東京へ着いたら電話するから、海軍省へ来てくれたまえ」ということであった。

 翌朝興亜院で電話を待っていたが、ようやく正午頃に電話で「海軍省に来てくれ」とのことだった。

 石川大佐は及川大将に会うと「大臣を引き受けておいでになったのでしょう」と言うと、肯定的なジェスチャーであった。

 石川大佐は「それでは別に申し上げる事もございません」と言って引き下がった。

 大臣を引き受けたと言う事は三国同盟に同意したという事に了解すべきであったからである。こうしてその後三国同盟は締結されるに至った。