黒島大佐が連合艦隊先任参謀に着任した当時、連合艦隊は日米開戦を予期して、準備体制に入りつつあり、参謀部は猛烈な忙しさのなかにあった。
黒島大佐は着任と同時にその多忙の渦に巻き込まれていったが、山本五十六中将が真珠湾攻撃を構想したのは昭和十五年秋頃で、まだ黒島大佐は目前の作戦に取り組んでいた。
黒島大佐は山本五十六長官が自分を先任参謀抜擢したことに感激していた。人は己を知るもののためには、死ぬという。
後に、山本長官から真珠湾奇襲攻撃構想をきかされて依頼、この構想のとりこになった。文字通り、心身をささげた。
山本五十六中将が、いつ頃、真珠湾攻撃を着想したか、はっきりとは分かっていない。
「山本五十六・上」(阿川弘之・新潮文庫)によると、昭和二、三年頃、海軍大学校を出たばかりの、霞ヶ浦航空隊教官・兼海軍大学校教官・草鹿龍之介少佐(石川・海兵四一・海大二四・空母「鳳翔」<九三三〇トン>艦長・軍令部作戦課長・空母「赤城」<三三八二一トン>艦長・少将・第二四航空戦隊司令官・横須賀空司令・連合艦隊参謀長・中将・第五航空艦隊司令長官)がハワイの真珠湾を飛行機で叩くという案を一度文書にしたことがあった。
当時、草鹿少佐は、海軍大学校で航空戦術を講義していたが、同時に霞ヶ浦航空隊の教官もしていた。
ところが、霞ヶ浦航空隊に永野修身中将(高知・海兵二八次席・海大八・米国駐在武官・少将・練習艦隊司令官・中将・海軍兵学校長・軍令部次長・大将・海相・連合艦隊司令長官・軍令部総長・元帥)、寺島健少将(和歌山・海兵三一恩賜・海大一二・大佐・戦艦「山城」艦長・少将・連合艦隊参謀長・軍務局長・中将・練習艦隊司令官・予備役・逓信大臣・鉄道大臣・貴族院議員)らお偉方が十人ばかり、実地講習を受けに来た。
そのとき、指導官を命ぜられた草鹿少佐が彼らの講義の為に執筆したのが、この真珠湾攻撃の文書だった。
この文書の趣旨は、アメリカ太平洋艦隊を西太平洋におびき出して日本海海戦のような艦隊決戦を挑むというのが帝国海軍の対米戦略の基本だが、相手がもし出てこなかったら、真珠湾軍港を飛行機で攻撃して、出て来ざるを得ないようにするというものだった。
当時、山本五十六大佐は霞ヶ浦空副長から米国駐在武官に補され米国にいたから、帰朝して、この草鹿少佐の文書を見たのではないかといわれており、面白い着想として山本大佐の頭の中に残ったであろう。
昭和十五年三月の連合艦隊飛行作業は昼間雷撃だった。「指揮官と参謀」(吉田俊雄・光人社NF文庫)によると、山本長官が艦隊を率いて進む。それを艦攻(艦上攻撃機)と中攻(陸上攻撃機)が魚雷攻撃を行い、艦爆(艦上爆撃機)急降下爆撃を加えるという訓練だった。
この攻撃は大成功をおさめた。いかに回避しても戦艦が飛行機にやられるのを、旗艦の戦艦「長門」の艦橋から見ていて、山本長官は「ウーム」とうなった。
そして、山本長官は、そばにいた連合艦隊参謀長・福留繁少将に次のように言った。
「あれで、真珠湾をやれないかな?」。
福留繁少将は、話にもならん思いつきだといわんばかりに、即座に反対の意見を述べた。
「航空攻撃をやれるくらいなら、全艦隊がハワイ近海に押し出した全力決戦がいいでしょう」。
この時のことについて、福留繁少将は戦後出版した著書、「史観真珠湾攻撃」(福留繁・自由アジア社)の中で、次のように記している。
「前後六年間、軍令部に勤務して作戦研究に没頭してきた私としては、航空機によるハワイ攻撃などてんで問題にしておらず、かかる遠隔の地に対する攻撃は、ひたすら潜水艦による方策以外にあるまいと考えていた」。
福留繁は当時の心境を述べている訳だが、これが、当時の海軍トップの作戦家たちの伝統的な考え方だった。
福留繁は「前後六年間軍令部に勤務して」と記しているが、これに対し山本五十六長官は、軍令部に正式に席を置いたことは、一度もなく、軍令部ふうの「作戦研究」には没頭しなかったのだ。
昭和十六年一月、大西瀧治郎少将(兵庫・海兵四〇・航空本部教育部長・第二連合航空隊司令官・少将・第一連合航空隊司令官・航空本部総務部長・中将・第一航空艦隊司令長官・軍令部次長・自決)は第十一航空艦隊参謀長を命ぜられ、台湾の高雄に着任した。
「海軍中将・大西瀧治郎」(秋永芳郎・光人社NF文庫)によると、着任したばかりのとき、大西少将は連合艦隊司令長官・山本五十六大将から「ひそかに面談したし」と極秘電を受け取った。
黒島大佐は着任と同時にその多忙の渦に巻き込まれていったが、山本五十六中将が真珠湾攻撃を構想したのは昭和十五年秋頃で、まだ黒島大佐は目前の作戦に取り組んでいた。
黒島大佐は山本五十六長官が自分を先任参謀抜擢したことに感激していた。人は己を知るもののためには、死ぬという。
後に、山本長官から真珠湾奇襲攻撃構想をきかされて依頼、この構想のとりこになった。文字通り、心身をささげた。
山本五十六中将が、いつ頃、真珠湾攻撃を着想したか、はっきりとは分かっていない。
「山本五十六・上」(阿川弘之・新潮文庫)によると、昭和二、三年頃、海軍大学校を出たばかりの、霞ヶ浦航空隊教官・兼海軍大学校教官・草鹿龍之介少佐(石川・海兵四一・海大二四・空母「鳳翔」<九三三〇トン>艦長・軍令部作戦課長・空母「赤城」<三三八二一トン>艦長・少将・第二四航空戦隊司令官・横須賀空司令・連合艦隊参謀長・中将・第五航空艦隊司令長官)がハワイの真珠湾を飛行機で叩くという案を一度文書にしたことがあった。
当時、草鹿少佐は、海軍大学校で航空戦術を講義していたが、同時に霞ヶ浦航空隊の教官もしていた。
ところが、霞ヶ浦航空隊に永野修身中将(高知・海兵二八次席・海大八・米国駐在武官・少将・練習艦隊司令官・中将・海軍兵学校長・軍令部次長・大将・海相・連合艦隊司令長官・軍令部総長・元帥)、寺島健少将(和歌山・海兵三一恩賜・海大一二・大佐・戦艦「山城」艦長・少将・連合艦隊参謀長・軍務局長・中将・練習艦隊司令官・予備役・逓信大臣・鉄道大臣・貴族院議員)らお偉方が十人ばかり、実地講習を受けに来た。
そのとき、指導官を命ぜられた草鹿少佐が彼らの講義の為に執筆したのが、この真珠湾攻撃の文書だった。
この文書の趣旨は、アメリカ太平洋艦隊を西太平洋におびき出して日本海海戦のような艦隊決戦を挑むというのが帝国海軍の対米戦略の基本だが、相手がもし出てこなかったら、真珠湾軍港を飛行機で攻撃して、出て来ざるを得ないようにするというものだった。
当時、山本五十六大佐は霞ヶ浦空副長から米国駐在武官に補され米国にいたから、帰朝して、この草鹿少佐の文書を見たのではないかといわれており、面白い着想として山本大佐の頭の中に残ったであろう。
昭和十五年三月の連合艦隊飛行作業は昼間雷撃だった。「指揮官と参謀」(吉田俊雄・光人社NF文庫)によると、山本長官が艦隊を率いて進む。それを艦攻(艦上攻撃機)と中攻(陸上攻撃機)が魚雷攻撃を行い、艦爆(艦上爆撃機)急降下爆撃を加えるという訓練だった。
この攻撃は大成功をおさめた。いかに回避しても戦艦が飛行機にやられるのを、旗艦の戦艦「長門」の艦橋から見ていて、山本長官は「ウーム」とうなった。
そして、山本長官は、そばにいた連合艦隊参謀長・福留繁少将に次のように言った。
「あれで、真珠湾をやれないかな?」。
福留繁少将は、話にもならん思いつきだといわんばかりに、即座に反対の意見を述べた。
「航空攻撃をやれるくらいなら、全艦隊がハワイ近海に押し出した全力決戦がいいでしょう」。
この時のことについて、福留繁少将は戦後出版した著書、「史観真珠湾攻撃」(福留繁・自由アジア社)の中で、次のように記している。
「前後六年間、軍令部に勤務して作戦研究に没頭してきた私としては、航空機によるハワイ攻撃などてんで問題にしておらず、かかる遠隔の地に対する攻撃は、ひたすら潜水艦による方策以外にあるまいと考えていた」。
福留繁は当時の心境を述べている訳だが、これが、当時の海軍トップの作戦家たちの伝統的な考え方だった。
福留繁は「前後六年間軍令部に勤務して」と記しているが、これに対し山本五十六長官は、軍令部に正式に席を置いたことは、一度もなく、軍令部ふうの「作戦研究」には没頭しなかったのだ。
昭和十六年一月、大西瀧治郎少将(兵庫・海兵四〇・航空本部教育部長・第二連合航空隊司令官・少将・第一連合航空隊司令官・航空本部総務部長・中将・第一航空艦隊司令長官・軍令部次長・自決)は第十一航空艦隊参謀長を命ぜられ、台湾の高雄に着任した。
「海軍中将・大西瀧治郎」(秋永芳郎・光人社NF文庫)によると、着任したばかりのとき、大西少将は連合艦隊司令長官・山本五十六大将から「ひそかに面談したし」と極秘電を受け取った。