「井上成美」(井上成美伝記刊行会)によると、大正11年12月1日、井上は海軍大学校第二十二期甲種学生となった。
この時井上は少佐で32歳であった。
井上は大正7年からスイス国駐在、ドイツ、フランス国駐在と海外赴任が続き、大正11年2月に帰国した。
帰国後すぐに海軍大学校甲種学生の採用試験が行なわれた。当時海軍大学校甲種学生の受験資格は「海軍大尉任官後六ヵ年以内の者」という条件があった。
だが、井上は大正4年12月、26歳で大尉になり、大尉の三年目から海外駐在が始まり大正11年に帰国した時は少佐で大尉昇進から6年以上経過していた。
ところが井上の海外駐在中の大正9年4月29日、達七九号により、海軍大学校甲種学生の受験資格が「但し、駐在または外国出張のため、全く受験の機会なかりし者は前項の年限を七ヵ年となすことを得」と改正された。
帰国後、井上は同僚から
「井上、甲種入学の規則が変わったのは、貴様のためだって評判だよ」
と言われた。
では井上の甲種学生採用試験の成績はどうであったか。
井上は朝日ジャーナル昭和51年1月16日号「海軍の思い出」で次の様に語っている。
「二十人の学生を採る場合、まず、筆頭試験は及第として口頭試験に呼ぶのは四十人。ところが、私は、筆頭の試験が六十番だった」
「銓衡委員の一人が『おまえは六十番だった。けれども、外国へ行っていて勉強するひまがなかったのだろう。口頭試験に呼んでみようという会議の結果だったので、おまえ、呼ばれるよ』と教えてくれた」
「それで、学校当局もあてにしなかったのに、口頭試験は一番でした」
こうして井上の甲種学生の合格が決まった。
そのころ井上は
「もし海軍をやめたら、金をつくって自動車を買い、円タク屋になる」
と言っていた。
もし甲種学生が不合格だったら、海軍大将ではなく、円タク屋の井上が生まれていたかも知れない。
大正13年12月1日、第二十二期甲種学生卒業式で二十一名中、恩賜の軍刀をもらったのは井上ではなく、首席の岡新(兵学校40期)と次席の阿部勝雄(兵学校40期)であった。
岡新(おか・あらた)は海軍兵学校も首席の秀才であったが、将官になってからは中央勤務は少なく、上海在勤海軍駐在武官や第三南遣艦隊司令長官、大阪海軍警備府長官などで終戦を迎えた。
阿部勝雄は後に井上軍務局長の後任として軍務局長になった。
当時、井上軍務局長が、米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官とともに日独伊三国同盟に真っ向から反対し阻止しようとした。
だが後任の阿部勝雄軍務局長になると、その締結に一役買っている。
中沢祐海軍中将は戦後「海大トップが国を滅ぼした。教官にフォローするばかりで、独創性のないのが海軍を牛耳ったからだ」と批判的に述べている。
昭和2年11月、井上中佐はイタリア駐在武官としてイタリアに赴任した。イタリアは第一次大戦後経済が混乱し、失業者が続出、治安も悪かった。
このときムッソリーニがファシスト党を率いて立ち上がり、大正11年11月ムッソリーニ政権を樹立した。ムッソリーニは独裁政治で軍事力を強化、ファッショ的傾向を強めていた。
井上中佐が駐在武官として赴任したイタリアは、ムッソリーニ政権での軍事力も充実しつつあった。
ローマの井上中佐のところへイタリア海軍省発行の広報を、毎日、イタリア水兵が届けに来た。
その度にメイドから心付けを水兵に渡していた。すると、広報が二枚あると、一枚づつ、二度に分けて持ってきたりした。
また水兵たちの福祉のためといって、イタリア水兵が音楽会の切符を売りに来た。
井上中佐はメイドに命じて買ってやった。ところがあとで日付を見ると、すでに二日前に終っている切符だった。
ムッソリーニ配下の黒シャツ義勇軍の市中行進を見に行き、にわか雨に見舞われた。
日本の帝国海軍では雨が降っても「ゆっくり濡れて来い」だったが、義勇軍の兵士は我先に寺院や店の中に逃げ込んでしまった。
イタリア陸軍の演習の時、二、三の兵士が空に向けてポンポン撃っている。
「敵はどこ」と聞くと、
「知りません」と平気な顔。
その後ろのほうでは、十数人の兵士があぐらを組んで梨をかじっていたという。
井上中佐はこのような感心できない国民性と、ムッソリーニのファッショ政治が肌に合わず、ストレスを感じた。またがっかりしたといわれている。
この時井上は少佐で32歳であった。
井上は大正7年からスイス国駐在、ドイツ、フランス国駐在と海外赴任が続き、大正11年2月に帰国した。
帰国後すぐに海軍大学校甲種学生の採用試験が行なわれた。当時海軍大学校甲種学生の受験資格は「海軍大尉任官後六ヵ年以内の者」という条件があった。
だが、井上は大正4年12月、26歳で大尉になり、大尉の三年目から海外駐在が始まり大正11年に帰国した時は少佐で大尉昇進から6年以上経過していた。
ところが井上の海外駐在中の大正9年4月29日、達七九号により、海軍大学校甲種学生の受験資格が「但し、駐在または外国出張のため、全く受験の機会なかりし者は前項の年限を七ヵ年となすことを得」と改正された。
帰国後、井上は同僚から
「井上、甲種入学の規則が変わったのは、貴様のためだって評判だよ」
と言われた。
では井上の甲種学生採用試験の成績はどうであったか。
井上は朝日ジャーナル昭和51年1月16日号「海軍の思い出」で次の様に語っている。
「二十人の学生を採る場合、まず、筆頭試験は及第として口頭試験に呼ぶのは四十人。ところが、私は、筆頭の試験が六十番だった」
「銓衡委員の一人が『おまえは六十番だった。けれども、外国へ行っていて勉強するひまがなかったのだろう。口頭試験に呼んでみようという会議の結果だったので、おまえ、呼ばれるよ』と教えてくれた」
「それで、学校当局もあてにしなかったのに、口頭試験は一番でした」
こうして井上の甲種学生の合格が決まった。
そのころ井上は
「もし海軍をやめたら、金をつくって自動車を買い、円タク屋になる」
と言っていた。
もし甲種学生が不合格だったら、海軍大将ではなく、円タク屋の井上が生まれていたかも知れない。
大正13年12月1日、第二十二期甲種学生卒業式で二十一名中、恩賜の軍刀をもらったのは井上ではなく、首席の岡新(兵学校40期)と次席の阿部勝雄(兵学校40期)であった。
岡新(おか・あらた)は海軍兵学校も首席の秀才であったが、将官になってからは中央勤務は少なく、上海在勤海軍駐在武官や第三南遣艦隊司令長官、大阪海軍警備府長官などで終戦を迎えた。
阿部勝雄は後に井上軍務局長の後任として軍務局長になった。
当時、井上軍務局長が、米内光政海軍大臣、山本五十六海軍次官とともに日独伊三国同盟に真っ向から反対し阻止しようとした。
だが後任の阿部勝雄軍務局長になると、その締結に一役買っている。
中沢祐海軍中将は戦後「海大トップが国を滅ぼした。教官にフォローするばかりで、独創性のないのが海軍を牛耳ったからだ」と批判的に述べている。
昭和2年11月、井上中佐はイタリア駐在武官としてイタリアに赴任した。イタリアは第一次大戦後経済が混乱し、失業者が続出、治安も悪かった。
このときムッソリーニがファシスト党を率いて立ち上がり、大正11年11月ムッソリーニ政権を樹立した。ムッソリーニは独裁政治で軍事力を強化、ファッショ的傾向を強めていた。
井上中佐が駐在武官として赴任したイタリアは、ムッソリーニ政権での軍事力も充実しつつあった。
ローマの井上中佐のところへイタリア海軍省発行の広報を、毎日、イタリア水兵が届けに来た。
その度にメイドから心付けを水兵に渡していた。すると、広報が二枚あると、一枚づつ、二度に分けて持ってきたりした。
また水兵たちの福祉のためといって、イタリア水兵が音楽会の切符を売りに来た。
井上中佐はメイドに命じて買ってやった。ところがあとで日付を見ると、すでに二日前に終っている切符だった。
ムッソリーニ配下の黒シャツ義勇軍の市中行進を見に行き、にわか雨に見舞われた。
日本の帝国海軍では雨が降っても「ゆっくり濡れて来い」だったが、義勇軍の兵士は我先に寺院や店の中に逃げ込んでしまった。
イタリア陸軍の演習の時、二、三の兵士が空に向けてポンポン撃っている。
「敵はどこ」と聞くと、
「知りません」と平気な顔。
その後ろのほうでは、十数人の兵士があぐらを組んで梨をかじっていたという。
井上中佐はこのような感心できない国民性と、ムッソリーニのファッショ政治が肌に合わず、ストレスを感じた。またがっかりしたといわれている。