昭和十九年六月三十日、高木惣吉海軍少将(海兵四三・海大二五首席)は、海軍の現役・予備役大将招待会の前に、米内光政海軍大将(海兵二九・海大一二)と自宅で面会した。そのとき、米内大将は次の様に言った。
「細かなことは知らぬが、戦争は敗けだ。確実に敗けだ。だれが出てもどうにもならぬ。老人は昼寝でもするほかはあるまい」
大将会では末次信正大将(海兵二七・海大七恩賜)からサイパン奪回に関し鋭い質問が出された。このため、海相兼総長・嶋田繁太郎大将(海兵三二・海大一三)と作戦部長・中沢佑少将(海兵四三・海大二六)は、答弁に大いに苦慮した。
そこで形勢不利と見た軍務局長・岡敬純中将(海兵三九・海大二一首席)は、食事の準備ができたことを口実に、助け舟を出した。
この様子を見ていた米内大将は、食事後、「あれ(嶋田)ではだめだな」ともらした。
それから海相更迭工作は表面では内閣強化のための改造工作と称しながら、裏面では内閣更迭の工作に変わっていた。そして海相の更迭、重臣の入閣が決定された。
海相としては野村直邦海軍大将(海兵三五・海大一八恩賜)がまず親任された。入閣する重臣には陸軍側は安部信行大将(陸士九・陸大一九恩賜)、海軍側は米内大将がほぼ決まり、安部大将は承諾したが、米内大将は就任を保留した。
こうなるとどうしても閣僚のポストが一つ不足してしまう。誰か閣僚を辞めてもらわなければならなくなった。そこで東條首相は国務大臣の岸信介に辞めてもらうことにした。
星野直樹官房長官が首相の命により使いに立ち、岸に「内閣を強化するため退いてくれ」と言った。岸は「返事は直接総理にする」と星野を返した。
岸は首相官邸に行くと、東條首相に対してキッパリと辞職勧告を断った。東京憲兵隊長・四方諒二大佐(陸士二九・東京帝国大学法学部)がやってきて、岸をおどしたが、岸は辞任を承諾せず、辞表を出すことを拒否した。
岸は木戸幸一内務大臣と同郷の長州出身者であり、相協力して、内々に東条内閣打倒を打ち合わせていた。当時は閣僚の中で一人でも辞表を出さぬ場合は首相が命ずることができず、内閣は総辞職することになっていた。
東京に事情に疎い呉鎮守府司令長官・野村直邦大将は、後任海軍大臣の交渉を受け、東條にだまされたような形で、七月十七日親任式に臨んだ。
だが、その日、平沼邸では重臣が集まり、重臣はひとりも入閣しないことを決め、東條内閣不信任の態度をはっきり表明した。
赤松秘書官は東條首相に「閣下! 強い手段をとって、国を救ってください。こんなことでは日本はだめになります。この国内での戦いに勝てなくて、どうして敵との戦争に勝てましょうか」と叫んだ。
さらに「決戦体制をつくることに邪魔する者は、断固厳しい処分で除いてゆかなければなりません」と、暗にクーデターをほのめかす発言をした。
涙を流して訴える赤松秘書官に、東條首相は優しく言葉をかけた。
「馬鹿、お前の考えは甘い。日本は天子様の国だ。すべて天子様のお考え通りにするのが、日本人の長所であり、本分ではないか」
木戸内大臣は、当初は東條英機を首相に推薦し、東條内閣に協力していたが、末期になると、木戸内大臣と重臣の間で早期和平を実現させようと、東條内閣の倒閣を画策していた。
東條は自分の意見が通らない時は、木戸内大臣に対しても脅迫的な言動をとった。さすがに、木戸は東條を快く思わなくなっていた。天皇に対しても、東條の批判を告げた。もう東條は辞めさせるべきだと思っていた。
昭和十九年七月十八日、木戸幸一内務大臣は、東條首相が天皇に拝謁を申し込んでおり、それが午前九時半の第一番に設定されていると聞いて、あわててその前に拝謁する手配をした。重臣会議の上奏を、東條より前に天皇に伝えておかなければならなかった。
「東條英機暗殺の夏」(吉松安弘・新潮社)によると、九時十五分に拝謁した木戸内大臣は天皇に平沼邸での重臣会議の結果を話し、次の様に述べた。
「首相がこれから上奏される内容は存じませんが、いま言上致しました重臣の動向によく御配慮の上、輿論のおもむく所と背反しないよう、お話されますように、特に御注意お願い申します」
木戸内大臣が天皇に述べた、この意味は、重臣たちが、あからさまな東條不信任の上奏を出した以上、天皇が東條支持の態度を明らかにした場合は、国家の重臣が上意と逆の見解を具申したとして、その地位や位階勲等などを拝辞するといった騒ぎにもなりかねないということだった。
「細かなことは知らぬが、戦争は敗けだ。確実に敗けだ。だれが出てもどうにもならぬ。老人は昼寝でもするほかはあるまい」
大将会では末次信正大将(海兵二七・海大七恩賜)からサイパン奪回に関し鋭い質問が出された。このため、海相兼総長・嶋田繁太郎大将(海兵三二・海大一三)と作戦部長・中沢佑少将(海兵四三・海大二六)は、答弁に大いに苦慮した。
そこで形勢不利と見た軍務局長・岡敬純中将(海兵三九・海大二一首席)は、食事の準備ができたことを口実に、助け舟を出した。
この様子を見ていた米内大将は、食事後、「あれ(嶋田)ではだめだな」ともらした。
それから海相更迭工作は表面では内閣強化のための改造工作と称しながら、裏面では内閣更迭の工作に変わっていた。そして海相の更迭、重臣の入閣が決定された。
海相としては野村直邦海軍大将(海兵三五・海大一八恩賜)がまず親任された。入閣する重臣には陸軍側は安部信行大将(陸士九・陸大一九恩賜)、海軍側は米内大将がほぼ決まり、安部大将は承諾したが、米内大将は就任を保留した。
こうなるとどうしても閣僚のポストが一つ不足してしまう。誰か閣僚を辞めてもらわなければならなくなった。そこで東條首相は国務大臣の岸信介に辞めてもらうことにした。
星野直樹官房長官が首相の命により使いに立ち、岸に「内閣を強化するため退いてくれ」と言った。岸は「返事は直接総理にする」と星野を返した。
岸は首相官邸に行くと、東條首相に対してキッパリと辞職勧告を断った。東京憲兵隊長・四方諒二大佐(陸士二九・東京帝国大学法学部)がやってきて、岸をおどしたが、岸は辞任を承諾せず、辞表を出すことを拒否した。
岸は木戸幸一内務大臣と同郷の長州出身者であり、相協力して、内々に東条内閣打倒を打ち合わせていた。当時は閣僚の中で一人でも辞表を出さぬ場合は首相が命ずることができず、内閣は総辞職することになっていた。
東京に事情に疎い呉鎮守府司令長官・野村直邦大将は、後任海軍大臣の交渉を受け、東條にだまされたような形で、七月十七日親任式に臨んだ。
だが、その日、平沼邸では重臣が集まり、重臣はひとりも入閣しないことを決め、東條内閣不信任の態度をはっきり表明した。
赤松秘書官は東條首相に「閣下! 強い手段をとって、国を救ってください。こんなことでは日本はだめになります。この国内での戦いに勝てなくて、どうして敵との戦争に勝てましょうか」と叫んだ。
さらに「決戦体制をつくることに邪魔する者は、断固厳しい処分で除いてゆかなければなりません」と、暗にクーデターをほのめかす発言をした。
涙を流して訴える赤松秘書官に、東條首相は優しく言葉をかけた。
「馬鹿、お前の考えは甘い。日本は天子様の国だ。すべて天子様のお考え通りにするのが、日本人の長所であり、本分ではないか」
木戸内大臣は、当初は東條英機を首相に推薦し、東條内閣に協力していたが、末期になると、木戸内大臣と重臣の間で早期和平を実現させようと、東條内閣の倒閣を画策していた。
東條は自分の意見が通らない時は、木戸内大臣に対しても脅迫的な言動をとった。さすがに、木戸は東條を快く思わなくなっていた。天皇に対しても、東條の批判を告げた。もう東條は辞めさせるべきだと思っていた。
昭和十九年七月十八日、木戸幸一内務大臣は、東條首相が天皇に拝謁を申し込んでおり、それが午前九時半の第一番に設定されていると聞いて、あわててその前に拝謁する手配をした。重臣会議の上奏を、東條より前に天皇に伝えておかなければならなかった。
「東條英機暗殺の夏」(吉松安弘・新潮社)によると、九時十五分に拝謁した木戸内大臣は天皇に平沼邸での重臣会議の結果を話し、次の様に述べた。
「首相がこれから上奏される内容は存じませんが、いま言上致しました重臣の動向によく御配慮の上、輿論のおもむく所と背反しないよう、お話されますように、特に御注意お願い申します」
木戸内大臣が天皇に述べた、この意味は、重臣たちが、あからさまな東條不信任の上奏を出した以上、天皇が東條支持の態度を明らかにした場合は、国家の重臣が上意と逆の見解を具申したとして、その地位や位階勲等などを拝辞するといった騒ぎにもなりかねないということだった。