陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

143.小沢治三郎海軍中将(3) ロシア文学、特にドストエフスキーを愛し、良寛和尚の資料は悉く集めた

2008年12月19日 | 小沢治三郎海軍中将
 小沢が取り組んでみると、相手は柔道の心得があるらしく、強い腰で小沢を投げようとした。小沢も宮崎中学で柔道をやっていたから、その手には乗らず、相手を上回る腕力で投げ飛ばした。相手はいさぎよく降参し、後でお互いに仲直りした。

 この小沢に投げ飛ばされた男は、後に日本一の柔道家になった三船久蔵十段であった。当時小沢は売られた喧嘩は買うが、自分から喧嘩をしかけることはなかった。

 明治39年、小沢は鹿児島の第七高等学校の工科と海軍兵学校の両方を受験した。小沢は兵学校を落ちたら海軍造兵官になろうと思っていた。

 「最後の連合艦隊司令長官」(光人社NF文庫)によると、海軍兵学校の合格発表は秋にある。第七高等学校に合格した小沢は、とりあえず、七高に入学した。

 秋になり、小沢は海軍兵学校の合格通知を受け取ったので、七高を退学して、明治39年11月、江田島の海軍兵学校に入学した。

 歴史学者の平泉澄博士によると、十代で手のつけられないような乱暴者が、何かの動機でひとたび志を立て、何ごとか始めると、偉大な業績を上げ、人間的にも大成するという。

 第二次大戦中のイギリスの指導者チャーチルも、青少年時代は札付きの不良だった。少しも勉強しないで親や先生を泣かせ、陸軍士官学校へ入るのに、三度も受験した。

 大蔵大臣だった父がたまりかねて叱りつけた。「おまえはチャーチル家の名をけがすものである。しっかり勉強せよ」。

 チャーチルは平然と答えた。

 「父上、ご安心ください。父上は、将来、ウインストン・チャーチルの父であることによって、世界に名を知られるでしょう」。

 「最後の連合艦隊司令長官」(光人社NF文庫)の序文で、小沢中将と兵学校同期の元海軍中将・草鹿任一氏(海兵37・海大19)が小沢中将の人柄を次のように述べている。

 「小沢はわれわれ兵学校同期の中の傑物である。若い頃は、中学校を退学処分にされるほどのきかん坊であったが、大きな度量を持ち、物事を深く考え、大局を誤らなかった。これは彼の天性であるとともに修練の賜といえる」

 「鬼がわらのような顔をしておりながら酒に強く、なかなか美声の持ち主で、酔余の歌や踊りなど隅におけぬものがあった。それでいて、ロシア文学、特にドストエフスキーを愛し、良寛和尚の資料は悉く集めた」

 小沢中将と兵学校37期の同期生には、井上成美中将(海大22・海軍次官)、大川内伝七中将(海大20・南西方面艦隊司令長官)、草鹿任一中将(海大19・南東方面艦隊司令長官)、小松輝久中将(海大20・海軍兵学校長)、鮫島具重中将(海大21・第八艦隊司令長官)、高須三二郎中将(艦政本部七部長)らがいる。

 「小澤治三郎」(PHP文庫)によると、大正8年、小沢は甲種学生19期として海軍大学校に入学した。当時の校長は佐藤鉄太郎校長(海兵14)だった。口八丁、手八丁で、戦史や戦術が得意だった。定評のある戦術家の講義だから、学生たちは一言一句聞き漏らすまいとノートをとった。

 だが、小沢はノートは全くとらなかった。後年、小沢はその頃を回想して言った。「校長から、いろいろな話を聞いたが何も覚えていない。頭に残っているのは、たった一言だけだ。それは、『いくさは人格なり』という言葉だ」。

 海軍大学校19期の同期には草鹿任一中将(海兵37・南東方面艦隊司令長官)、岩村清一中将(海兵37・第二南遣艦隊司令長官)、松崎伊織中将(海兵35・艦政本部大阪監督長)、杉山俊亮中将(海兵35・航空本部技術部長)、近藤英次郎中将(海兵36・第十一戦隊司令官)、堀江六郎中将(海兵36・第十一連合航空隊司令官)らがいる。

 大正15年、小沢少佐は連合艦隊参謀になった。あるとき、天皇陛下が、急に旗艦「長門」に行幸されることになり、艦内の大消毒が始まった。

 甲板士官の横井忠雄少尉(海兵43・海大26・のち少将)は、消毒の済んでいない幕僚室をノックした。中には参謀肩章をぶらさげた偉い連中がたむろしている。若い将校にはおっかないところであった。

 横井少尉は「消毒をいたしますから、しばらく立ち退いてください」とおそるおそる言った。

 だが、参謀たちは素知らぬ顔で、誰も見向きもしない。一種の意地悪は軍隊生活にはつきものだった。立ち去るわけにもいかず、横井少尉は、困惑していた。