陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

137、宇垣一成陸軍大将(7) 陛下は時局重大の折から、深夜でも差し支えないと仰せられております 

2008年11月07日 | 宇垣一成陸軍大将
 「宇垣一成」(朝日新聞社)によると、宇垣は、首相の座に付くことに執着心があったことは事実である。昭和11年8月、宇垣は朝鮮総督を退いた。

 その理由は、宇垣自身の語るところによると、「2.26事件について、自分は現役ではないが、軍の首脳の一人として、責任をとるのと、あまりに長く在職したので、後進に座を譲りたい。そして自分は自由の身で大いに青年の教育にあたりたい」と述べている。

 ところが、それから一ヵ月後もたたない、9月12日の随想録には、「政界出馬の機到る」との心境を素直に書いている。

 昭和12年1月24日の夜、宇垣一成は伊豆長岡温泉の別荘で、いつものように、近くの旅館「さかなや」の主人池田春吉を相手にゆっくりと晩酌を楽しんでいた。

 この夜もそろそろ盃をおいて寝る支度にかかろうとしていたとき、「宮内庁から電話でございます」と家人がとりついだ。

 さては、と宇垣は緊張して座を立ち受話器をとった。相手は百武侍従長であった。

 「陛下のお召しであります。ただちに参内されますよう」

 午後8時45分、今日はもう東京行きの列車はない。沼津から10時発の横浜行きがあるだけだ。横浜から自動車でも東京着は深夜になる。

 宇垣はそのことを侍従長に告げ、

 「深夜の参内は恐れ多いので、明朝一番の列車で上京、参内したいと存じますが、いかがでございましょうか」と答えたという。

 侍従長は「それもやむをえないだろう」と言った。

 ところが午後9時過ぎ、再び侍従長から電話がかかってきた。

 「陛下は時局重大の折から、深夜でも差し支えないと仰せられております。10時の横浜行きで御上京できないでしょうか」

 宇垣はとっさに時間をはかって決断した。「かしこまりました。今夜中に参内いたします」

 実は宇垣はお召しの電話があることを予期して、それとなく身辺の用意をするのはもとより、列車の時刻表も頭に入れていたと言われている。

 広田内閣が総辞職をしたあとを受けて、後継首相の候補に宇垣が上がっているのを、西原亀三が東京から宇垣を訪ねてきて、詳しい事情を話していた。

 宇垣は西原亀三と池田春吉をともない、自動車を沼津駅に走らせた。長岡の町中がほとんど総出で「宇垣閣下万歳」とさけびながら見送った。