「宇垣一成」(朝日新聞社)によると、宇垣一成は1868年(明治元年)、岡山県の東部、吉井川のほとり、赤磐郡潟瀬村の農家の末っ子(五男)に生まれた。
親がつけた名前は「杢次」であったが、宇垣はこの百姓らしい名前が気に入らす、28歳の、陸軍中尉で最初の結婚をしたとき、「精神一到何事か成さざらん」の意味からとって「一成」と自ら改名したと言われている。
もう一つ説があり、「日本一に成る」という心意気からつけたという説もある。
宇垣一成陸軍大将の生家は、宇垣纏海軍中将の隣である。宇垣姓は多いが、両者は血の繋がりは無く親戚ではない。だが宇垣纏海軍中将は、終生宇垣一成陸軍大将を尊敬していたと言われている。
宇垣一成は明治23年、陸軍士官学校(一期)を百五十人中十一番で卒業した。
陸士は良い成績で卒業したが、将校になってからの昇進は遅かった。宇垣は無頓着な性格で俸給を貰っても金が有る間は酒を飲み、なくなれば本ばかり読んでいた。
軍隊の規律も一応守ることは守るが、内務などをきちんとせず、ずぼらであった。交際は下手で、上官におもねることはせず、とかく我流を押し通したので、傲慢な男であると思われた。だから三十歳まで中尉のままであった。
当時は大尉になるまでは進級や陸軍大学校受験者の選定は連隊の将校団が中心に行われ、連隊長から毎年その結果を本省に進達する慣わしであった。
宇垣は将校団の受けが悪く、進級も遅れた。陸軍大学校受験もなかなか認めて貰えず、明治30年、二十九歳の中尉でやっと陸大に入学できた。
当時陸士四期で大尉になる者もいたというのに、一期の宇垣はまだ中尉で、陸大に入った翌年やっと大尉になった。宇垣自身この当時のことを後に「剛穀不屈の気性がわざわいした」と述べている。
だが陸大の卒業成績は三十九人中三番で、天皇から恩賜の軍刀を授かった。卒業後中隊長を勤め、それ以後参謀本部、ドイツ駐在と陸軍中枢を駆け登って行った。
そして、その駆け行く宇垣一成の周囲では、常に敵と味方が出現し、重要局面では陸軍を揺るがすほどの大紛争が湧き起こったのである。
<宇垣一成陸軍大将プロフィル>
明治1年6月21日岡山県赤磐郡瀬戸町大内に生まれる。
明治15年郷里の小学校代用教員。
明治17年御休村小学校校長。
明治23年7月陸軍士官学校卒(陸士第一期生)。成績は150人中11番。
明治24年3月陸軍歩兵少尉。歩10連隊付。
明治27年9月陸軍歩兵中尉。
明治28年陸軍士官学校生徒隊区隊長。
明治30年12月陸軍大学校入校。
明治31年10月陸軍歩兵大尉。
明治33年12月陸軍大学校卒業。成績は39人中3番で恩賜の軍刀拝受。歩33連隊中隊長。
明治34年6月参謀本部出仕。
明治35年2月参謀本部部員。8月軍事研究のためドイツ駐在。
明治37年1月陸軍歩兵少佐。
明治38年1月鴨緑江軍参謀。5月第一軍参謀。12月参謀本部部員。
明治39年2月軍事研究のためドイツ駐在。
明治40年11月陸軍歩兵中佐。
明治41年2月参謀本部部員、帰国。
明治42年8月教育総監部第一課長。
明治43年11月陸軍歩兵大佐。
明治44年9月陸軍省軍務局軍事課長。
大正2年8月歩兵第6連隊長。
大正4年1月再び陸軍省軍事課長。8月陸軍少将。陸軍歩兵学校校長。
大正5年3月参謀本部第一(作戦)部長(田中義一参謀次長の推挙)。参謀総長は上原勇作。
大正8年4月陸軍大学校長。7月陸軍中将。
大正10年3月第10師団長。
大正11年5月教育総監部本部長。
大正12年10月陸軍次官(陸相田中義一・第二次山本権兵衛内閣)。
大正13年1月陸軍大臣(清浦奎吾内閣)。6月陸軍大臣留任(第一次加藤高明内閣)。
大正14年8月陸軍大将。陸軍大臣留任(第二次加藤高明内閣)。
大正15年1月陸軍大臣留任(第一次若槻礼次郎内閣)。
昭和3年軍事参議官。
昭和4年7月陸軍大臣(浜口雄幸内閣)。
昭和6年3月、三月事件。4月陸相辞任。6月朝鮮総督。
昭和11年8月朝鮮総督辞任。
昭和12年1月組閣の大命を受けるが、五日後に拝辞。
昭和13年5月外務大臣、6月拓務大臣を兼任。9月外務大臣・拓務大臣を辞任。
昭和19年9月日支和平工作調査のため中国旅行。
昭和28年4月参議院選挙では全国区最高点で当選。緑風会入会。
昭和31年4月30日東京の自宅にて病死。享年87歳。
親がつけた名前は「杢次」であったが、宇垣はこの百姓らしい名前が気に入らす、28歳の、陸軍中尉で最初の結婚をしたとき、「精神一到何事か成さざらん」の意味からとって「一成」と自ら改名したと言われている。
もう一つ説があり、「日本一に成る」という心意気からつけたという説もある。
宇垣一成陸軍大将の生家は、宇垣纏海軍中将の隣である。宇垣姓は多いが、両者は血の繋がりは無く親戚ではない。だが宇垣纏海軍中将は、終生宇垣一成陸軍大将を尊敬していたと言われている。
宇垣一成は明治23年、陸軍士官学校(一期)を百五十人中十一番で卒業した。
陸士は良い成績で卒業したが、将校になってからの昇進は遅かった。宇垣は無頓着な性格で俸給を貰っても金が有る間は酒を飲み、なくなれば本ばかり読んでいた。
軍隊の規律も一応守ることは守るが、内務などをきちんとせず、ずぼらであった。交際は下手で、上官におもねることはせず、とかく我流を押し通したので、傲慢な男であると思われた。だから三十歳まで中尉のままであった。
当時は大尉になるまでは進級や陸軍大学校受験者の選定は連隊の将校団が中心に行われ、連隊長から毎年その結果を本省に進達する慣わしであった。
宇垣は将校団の受けが悪く、進級も遅れた。陸軍大学校受験もなかなか認めて貰えず、明治30年、二十九歳の中尉でやっと陸大に入学できた。
当時陸士四期で大尉になる者もいたというのに、一期の宇垣はまだ中尉で、陸大に入った翌年やっと大尉になった。宇垣自身この当時のことを後に「剛穀不屈の気性がわざわいした」と述べている。
だが陸大の卒業成績は三十九人中三番で、天皇から恩賜の軍刀を授かった。卒業後中隊長を勤め、それ以後参謀本部、ドイツ駐在と陸軍中枢を駆け登って行った。
そして、その駆け行く宇垣一成の周囲では、常に敵と味方が出現し、重要局面では陸軍を揺るがすほどの大紛争が湧き起こったのである。
<宇垣一成陸軍大将プロフィル>
明治1年6月21日岡山県赤磐郡瀬戸町大内に生まれる。
明治15年郷里の小学校代用教員。
明治17年御休村小学校校長。
明治23年7月陸軍士官学校卒(陸士第一期生)。成績は150人中11番。
明治24年3月陸軍歩兵少尉。歩10連隊付。
明治27年9月陸軍歩兵中尉。
明治28年陸軍士官学校生徒隊区隊長。
明治30年12月陸軍大学校入校。
明治31年10月陸軍歩兵大尉。
明治33年12月陸軍大学校卒業。成績は39人中3番で恩賜の軍刀拝受。歩33連隊中隊長。
明治34年6月参謀本部出仕。
明治35年2月参謀本部部員。8月軍事研究のためドイツ駐在。
明治37年1月陸軍歩兵少佐。
明治38年1月鴨緑江軍参謀。5月第一軍参謀。12月参謀本部部員。
明治39年2月軍事研究のためドイツ駐在。
明治40年11月陸軍歩兵中佐。
明治41年2月参謀本部部員、帰国。
明治42年8月教育総監部第一課長。
明治43年11月陸軍歩兵大佐。
明治44年9月陸軍省軍務局軍事課長。
大正2年8月歩兵第6連隊長。
大正4年1月再び陸軍省軍事課長。8月陸軍少将。陸軍歩兵学校校長。
大正5年3月参謀本部第一(作戦)部長(田中義一参謀次長の推挙)。参謀総長は上原勇作。
大正8年4月陸軍大学校長。7月陸軍中将。
大正10年3月第10師団長。
大正11年5月教育総監部本部長。
大正12年10月陸軍次官(陸相田中義一・第二次山本権兵衛内閣)。
大正13年1月陸軍大臣(清浦奎吾内閣)。6月陸軍大臣留任(第一次加藤高明内閣)。
大正14年8月陸軍大将。陸軍大臣留任(第二次加藤高明内閣)。
大正15年1月陸軍大臣留任(第一次若槻礼次郎内閣)。
昭和3年軍事参議官。
昭和4年7月陸軍大臣(浜口雄幸内閣)。
昭和6年3月、三月事件。4月陸相辞任。6月朝鮮総督。
昭和11年8月朝鮮総督辞任。
昭和12年1月組閣の大命を受けるが、五日後に拝辞。
昭和13年5月外務大臣、6月拓務大臣を兼任。9月外務大臣・拓務大臣を辞任。
昭和19年9月日支和平工作調査のため中国旅行。
昭和28年4月参議院選挙では全国区最高点で当選。緑風会入会。
昭和31年4月30日東京の自宅にて病死。享年87歳。