「評伝 真崎甚三郎」(田崎末松・芙蓉書房)によると、頭の回転のす早い聡明な昭和天皇は、青年将校の革新的思想、運動はどのようにして発展したものであるかということについては、あれこれ思索し、側近にも問いただしたことと思われる。
そして、その革新思想の源泉は一君万民の皇道精神であり、それを最も鮮烈に印象づけたものは士官学校の精神教育、とりわけそれを徹底的に鼓吹した時期は、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや・やすひとしんのう・昭和天皇の弟・陸士三四)の同期、三四期から四〇期までの士官候補生が在校した時期だ。
その時の責任者は誰であったか。ここに教育者としての真崎甚三郎が浮かび上がってくる。この時期(大正十一年~昭和二年)に、真崎少将は、陸軍士官学校の本科長、幹事、そして校長として、皇道教育に心血を注いだのだった。
だが、真崎少将は、皇道精神は説いたが、革新思想を鼓吹したのでは決してなかった。青年将校運動としての革新思想は、例えば、北一輝や大川周明らの思想を媒体として発展したものだった。
しかしながら、革新運動としての青年将校らの昭和維新の原点は鮮烈な皇道精神にあったことは確かである。このような革新運動の青年将校が最も多く集まったのが、昭和天皇の弟、秩父宮の原隊である歩兵第三連隊であった。
鋭敏な秩父宮は在学中から同期の西田税らによって影響を受けた。二・二六事件の前年、秩父宮は革命の教祖といわれた北一輝と秘密裡に会合している。その席には西田税らもいたといわれている。
昭和天皇の頭に、皇弟、秩父宮→青年将校→士官学校の皇道教育という図式の延長上に、校長・真崎甚三郎少将の姿が浮上したとき、昭和天皇は真崎甚三郎に対する、あるよからぬ感情、憎悪に似た感情が動き始めた。
革新思想の持ち主でない真崎が、革新思想の頭領のごとく一般に錯覚されたところに、真崎の致命的な不幸が芽生えたのだ。
昭和七年、真崎中将が参謀次長のとき、昭和天皇は、真崎中将が上奏した書類の決裁を、わざと二、三日遅らすという扱いをするようになった、という風評が立った。
参謀次長の要職にあった真崎中将もこれにはさすがに閉口した。思案に余って、東久邇宮稔彦王(ひがしくににみや・なるひこおう・陸士二〇・陸大二六・第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長・第二軍司令官・防衛総司令官・昭和十四年八月大将・首相)を訪ねて、次のように相談をした。
「近来、陛下には、参謀本部や陸軍からの上奏に対して、なかなか御裁可がない。外務や総理らの上奏に対するのとは、おのずからそこに違いがあるように思われる。どうかして、もう少し陛下が参謀本部からの申し上げることに対して御嘉納あらせられるよう、殿下のお力添いを願いたい」。
これに対して、東久邇宮少将(昭和八年八月中将・第二師団長)は、次のように答えて、きっぱり断った。
「それは、いかに次長の命令でも従うわけにはいかない。というのは、自分の如き責任の衝にない者からそういうことを陛下に申し上げては、まず第一に官紀を紊し、軍律を破壊することになるのではないか。また、その責任の衝にある人者にも迷惑を及ぼすのではないか」
「元来、陛下は、総理大臣を始め各大臣からの上奏に対して、全般から見ての判断を下されるのであって、ひとり陸軍のみに偏した御嘉納を期待するが如き申し条は、甚だけしからんと思う。そういう話には、自分は一切同意したり服従したりすることはできない」。
以上の言葉を聞いて、参謀次長・真崎中将は色をなして東久邇宮少将に次のように言った。
「殿下が、責任を云々なさるというのは間違いである。皇族としてじきじき陛下にお仕えになる以上、普通の官吏のようなことをおっしゃるべきでない」。
真崎中将は、非常に憤慨して、帰って行った。その後日、真崎中将が突然、東久邇宮の事務官を訪ねてきて、「ここの宮さんは国家観念に乏しい」と言って憤慨していたという。それ以来、東久邇宮とは悪感情のままになっている。
<真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)陸軍大将プロフィル>
明治九年十一月二十七日、佐賀県神埼郡境野村(現・千代田町)生まれ。真崎要七(農業)の長男。弥市、勝次(海兵三四・海軍少将・衆議院議員)、イト、エイの四人の弟、妹がある。
明治二十八年(十九歳)佐賀中学校卒業後、十二月一日士官候補生として歩兵第二三連隊補充大隊へ入隊。
明治二十九年(二十歳)九月一日陸軍士官学校入校。
明治三十年(二十一歳)十一月二十九日陸軍士官学校卒業(士候九期)。見習士官。
明治三十一年(二十二歳)六月二十七日歩兵少尉。歩兵第四六連隊付。
明治三十三年(二十四歳)十一月二十一日歩兵中尉。歩兵第四二連隊付。十二月二十日陸軍士官学校付(区隊長)。
明治三十五年(二十六歳)八月九日陸軍大学校入校。
明治三十七年(二十八歳)二月五日日露戦争のため動員下令。二月十一日歩兵第四六連隊中隊長。六月二十九日歩兵大尉。
明治三十九年(三十歳)三月六日陸軍大学校復校。四月、中島仁之助の長女、信千代と結婚。
明治四十年(三十一歳)十一月二十八日陸軍大学校卒業(第一九期恩賜)。首席の荒木貞夫(陸士九・大将・陸軍大臣)、阿部信行(陸士九・大将・台湾軍司令官・総理大臣)、黒沢準(陸士一〇・中将・参謀本部総務部長)、原口初太郎(陸士八・中将・第五師団長)、小松慶也(陸士九・騎兵大尉・第八師団参謀・アルゼンチンへ渡り略農家)らと共に恩賜の軍刀組。恩賜ではないが本庄繁(陸士九・大将・侍従武官長)も同期。陸軍省軍務局出仕。軍事課・課員。
明治四十二年(三十三歳)一月二十八日歩兵少佐。
明治四十四年(三十五歳)五月一日軍事研究のためドイツ駐在。
大正三年(三十八歳)二月六日帰国。六月歩兵第四二連隊大隊長。十一月十九日歩兵中佐。歩兵第五三連隊付。
大正四年(三十九歳)五月二十五日久留米捕虜収容所長。
大正五年(四十歳)十一月十五日教育総監部第二課長。
大正七年(四十二歳)一月十八日歩兵大佐。
大正九年(四十四歳)八月十日陸軍省軍務局軍事課長。
大正十年(四十五歳)七月二十日近衛歩兵第一連隊長。
大正十一年(四十六歳)八月十五日陸軍少将、近衛歩兵第一旅団長。
大正十二年(四十七歳)八月六日陸軍士官学校本科長。
大正十三年(四十八歳)三月欧米出張(~九月)。
大正十四年(四十九歳)五月一日陸軍士官学校幹事兼教授部長。
大正十五年(五十歳)三月二日陸軍士官学校長。
昭和二年(五十一歳)三月五日陸軍中将。八月二十六日第八師団長。
昭和四年(五十三歳)七月一日第一師団長。
昭和六年(五十五歳)八月一日台湾軍司令官。
昭和七年(五十六歳)一月八日参謀次長。特に親任官の待遇を賜う。八月八日兼軍事参議官。
昭和八年(五十七歳)六月十九日陸軍大将、軍事参議官。
昭和九年(五十八歳)一月二十九日教育総監兼軍事参議官。
昭和十年(五十九歳)七月十六日教育総監を免ぜられ軍事参議官に補される。
昭和十一年(六十歳)三月六日待命。三月十日予備役。六月十一日、二・二六事件の反乱幇助で軍法会議に起訴され、七月五日代々木の陸軍衛戍刑務所に収監。
昭和十二年(六十一歳)九月二十五日軍法会議で無罪判決。
昭和十六年(六十五歳)佐賀県教育会長に就任。
昭和二十年(六十九歳)十一月十九日A級戦犯として巣鴨プリズンに収監。極東国際軍事裁判(東京裁判)で不起訴。
昭和三十一年八月三十一日死去。享年七十九歳。葬儀委員長は荒木貞夫。
そして、その革新思想の源泉は一君万民の皇道精神であり、それを最も鮮烈に印象づけたものは士官学校の精神教育、とりわけそれを徹底的に鼓吹した時期は、秩父宮雍仁親王(ちちぶのみや・やすひとしんのう・昭和天皇の弟・陸士三四)の同期、三四期から四〇期までの士官候補生が在校した時期だ。
その時の責任者は誰であったか。ここに教育者としての真崎甚三郎が浮かび上がってくる。この時期(大正十一年~昭和二年)に、真崎少将は、陸軍士官学校の本科長、幹事、そして校長として、皇道教育に心血を注いだのだった。
だが、真崎少将は、皇道精神は説いたが、革新思想を鼓吹したのでは決してなかった。青年将校運動としての革新思想は、例えば、北一輝や大川周明らの思想を媒体として発展したものだった。
しかしながら、革新運動としての青年将校らの昭和維新の原点は鮮烈な皇道精神にあったことは確かである。このような革新運動の青年将校が最も多く集まったのが、昭和天皇の弟、秩父宮の原隊である歩兵第三連隊であった。
鋭敏な秩父宮は在学中から同期の西田税らによって影響を受けた。二・二六事件の前年、秩父宮は革命の教祖といわれた北一輝と秘密裡に会合している。その席には西田税らもいたといわれている。
昭和天皇の頭に、皇弟、秩父宮→青年将校→士官学校の皇道教育という図式の延長上に、校長・真崎甚三郎少将の姿が浮上したとき、昭和天皇は真崎甚三郎に対する、あるよからぬ感情、憎悪に似た感情が動き始めた。
革新思想の持ち主でない真崎が、革新思想の頭領のごとく一般に錯覚されたところに、真崎の致命的な不幸が芽生えたのだ。
昭和七年、真崎中将が参謀次長のとき、昭和天皇は、真崎中将が上奏した書類の決裁を、わざと二、三日遅らすという扱いをするようになった、という風評が立った。
参謀次長の要職にあった真崎中将もこれにはさすがに閉口した。思案に余って、東久邇宮稔彦王(ひがしくににみや・なるひこおう・陸士二〇・陸大二六・第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長・第二軍司令官・防衛総司令官・昭和十四年八月大将・首相)を訪ねて、次のように相談をした。
「近来、陛下には、参謀本部や陸軍からの上奏に対して、なかなか御裁可がない。外務や総理らの上奏に対するのとは、おのずからそこに違いがあるように思われる。どうかして、もう少し陛下が参謀本部からの申し上げることに対して御嘉納あらせられるよう、殿下のお力添いを願いたい」。
これに対して、東久邇宮少将(昭和八年八月中将・第二師団長)は、次のように答えて、きっぱり断った。
「それは、いかに次長の命令でも従うわけにはいかない。というのは、自分の如き責任の衝にない者からそういうことを陛下に申し上げては、まず第一に官紀を紊し、軍律を破壊することになるのではないか。また、その責任の衝にある人者にも迷惑を及ぼすのではないか」
「元来、陛下は、総理大臣を始め各大臣からの上奏に対して、全般から見ての判断を下されるのであって、ひとり陸軍のみに偏した御嘉納を期待するが如き申し条は、甚だけしからんと思う。そういう話には、自分は一切同意したり服従したりすることはできない」。
以上の言葉を聞いて、参謀次長・真崎中将は色をなして東久邇宮少将に次のように言った。
「殿下が、責任を云々なさるというのは間違いである。皇族としてじきじき陛下にお仕えになる以上、普通の官吏のようなことをおっしゃるべきでない」。
真崎中将は、非常に憤慨して、帰って行った。その後日、真崎中将が突然、東久邇宮の事務官を訪ねてきて、「ここの宮さんは国家観念に乏しい」と言って憤慨していたという。それ以来、東久邇宮とは悪感情のままになっている。
<真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)陸軍大将プロフィル>
明治九年十一月二十七日、佐賀県神埼郡境野村(現・千代田町)生まれ。真崎要七(農業)の長男。弥市、勝次(海兵三四・海軍少将・衆議院議員)、イト、エイの四人の弟、妹がある。
明治二十八年(十九歳)佐賀中学校卒業後、十二月一日士官候補生として歩兵第二三連隊補充大隊へ入隊。
明治二十九年(二十歳)九月一日陸軍士官学校入校。
明治三十年(二十一歳)十一月二十九日陸軍士官学校卒業(士候九期)。見習士官。
明治三十一年(二十二歳)六月二十七日歩兵少尉。歩兵第四六連隊付。
明治三十三年(二十四歳)十一月二十一日歩兵中尉。歩兵第四二連隊付。十二月二十日陸軍士官学校付(区隊長)。
明治三十五年(二十六歳)八月九日陸軍大学校入校。
明治三十七年(二十八歳)二月五日日露戦争のため動員下令。二月十一日歩兵第四六連隊中隊長。六月二十九日歩兵大尉。
明治三十九年(三十歳)三月六日陸軍大学校復校。四月、中島仁之助の長女、信千代と結婚。
明治四十年(三十一歳)十一月二十八日陸軍大学校卒業(第一九期恩賜)。首席の荒木貞夫(陸士九・大将・陸軍大臣)、阿部信行(陸士九・大将・台湾軍司令官・総理大臣)、黒沢準(陸士一〇・中将・参謀本部総務部長)、原口初太郎(陸士八・中将・第五師団長)、小松慶也(陸士九・騎兵大尉・第八師団参謀・アルゼンチンへ渡り略農家)らと共に恩賜の軍刀組。恩賜ではないが本庄繁(陸士九・大将・侍従武官長)も同期。陸軍省軍務局出仕。軍事課・課員。
明治四十二年(三十三歳)一月二十八日歩兵少佐。
明治四十四年(三十五歳)五月一日軍事研究のためドイツ駐在。
大正三年(三十八歳)二月六日帰国。六月歩兵第四二連隊大隊長。十一月十九日歩兵中佐。歩兵第五三連隊付。
大正四年(三十九歳)五月二十五日久留米捕虜収容所長。
大正五年(四十歳)十一月十五日教育総監部第二課長。
大正七年(四十二歳)一月十八日歩兵大佐。
大正九年(四十四歳)八月十日陸軍省軍務局軍事課長。
大正十年(四十五歳)七月二十日近衛歩兵第一連隊長。
大正十一年(四十六歳)八月十五日陸軍少将、近衛歩兵第一旅団長。
大正十二年(四十七歳)八月六日陸軍士官学校本科長。
大正十三年(四十八歳)三月欧米出張(~九月)。
大正十四年(四十九歳)五月一日陸軍士官学校幹事兼教授部長。
大正十五年(五十歳)三月二日陸軍士官学校長。
昭和二年(五十一歳)三月五日陸軍中将。八月二十六日第八師団長。
昭和四年(五十三歳)七月一日第一師団長。
昭和六年(五十五歳)八月一日台湾軍司令官。
昭和七年(五十六歳)一月八日参謀次長。特に親任官の待遇を賜う。八月八日兼軍事参議官。
昭和八年(五十七歳)六月十九日陸軍大将、軍事参議官。
昭和九年(五十八歳)一月二十九日教育総監兼軍事参議官。
昭和十年(五十九歳)七月十六日教育総監を免ぜられ軍事参議官に補される。
昭和十一年(六十歳)三月六日待命。三月十日予備役。六月十一日、二・二六事件の反乱幇助で軍法会議に起訴され、七月五日代々木の陸軍衛戍刑務所に収監。
昭和十二年(六十一歳)九月二十五日軍法会議で無罪判決。
昭和十六年(六十五歳)佐賀県教育会長に就任。
昭和二十年(六十九歳)十一月十九日A級戦犯として巣鴨プリズンに収監。極東国際軍事裁判(東京裁判)で不起訴。
昭和三十一年八月三十一日死去。享年七十九歳。葬儀委員長は荒木貞夫。