陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

147.小沢治三郎海軍中将(7)長官をだれもかまう者がいなかった。そばにチェリー(タバコ)を置いた

2009年01月16日 | 小沢治三郎海軍中将
 「丸・戦争と人物19連合艦隊司令長官」(潮書房)によると、昭和19年6月15日、アメリカ軍はサイパンに上陸した。豊田連合艦隊司令長官は、あ号作戦を発動、6月19日から20日にかけて、マリアナ沖海戦が行われた。

 日米大機動部隊同士が戦ったマリアナ沖海戦では、アメリカ機動部隊から380海里も離れたところから攻撃機を発進させた小沢中将発案のアウトレンジ戦法は、結果的に大敗した。

 マリアナ沖海戦が終わった翌日、小沢中将は、部下の参謀の前で「部下にむずかしい戦法をやらせて戦死させ、まことに申し訳ないことをした」と言った。

 そうは言ったものの、当時、このアウトレンジ戦法は強力なアメリカ空母群に対して、小沢が考え抜いた戦法であることは間違いなかった。

 戦後の話だが、小沢の周囲の戦史研究家が、アウトレンジ戦法について、疑問に思うことを質問したことがあった。それに対して小沢は「それなら、ほかにどんな方法がある」と答えたという。

 「勝負と決断」(光人社)によると、マリアナ沖海戦では、小沢中将の第一機動艦隊の旗艦「大鳳」も、敵潜水艦の魚雷攻撃で大爆発し、基準排水量29300トンの空母はマリアナ沖の海底に沈没した。

 爆発して沈みかけている「大鳳」の艦上では、参謀長の吉村啓蔵少将((海兵45)が小沢司令長官に旗艦変更を進言した。

 だが、小沢司令長官は、聞き入れなかった。ともに沈むつもりである。艦長の菊池朝三少将(兵学校45期)や先任参謀の大前敏一大佐((海兵50・海大32恩賜)らも代わる代わる進言した。

 大前参謀は言った。「母艦に帰投した機数は少ないですが、そうとうロタやグアムに行っているはずです。戦果も相当あったに違いありません」

 小沢司令長官は、ようやく旗艦変更を承諾した。小沢司令長官らは駆逐艦「若月」に移乗した。艦橋が狭いので、小沢司令長官は艦橋うしろの、旗甲板の椅子に腰を下ろした。

 そのときの様子を、「若月」の操舵長であった小倉正高氏は戦後次のように述べている。

 「長官をだれもかまう者がいなかった。そばにチェリー(タバコ)を置いた。喫ってもらうつもりだった。だが長官がなんべん火をつけても、すぐ消えてしまった。そうとうショックをうけているように見受けられた」。

 「あのときが小沢さんの気持ちの転機だったのではないだろうか」。小倉氏が戦後、会ったとき、そのときのことを話したら、小沢長官は「感無量だな」と一言だけ言ったという。

 「日本海軍の興亡」(PHP文庫)によると、あ号作戦で連合艦隊は大敗をした。航空戦に敗れた第一機動艦隊司令長官・小沢中将は、最後の手段として、第二艦隊に夜戦を命じた。だが、栗田部隊はきわめて消極的だった。

 後に、小沢中将は、痛烈きわまる皮肉を放ったという。
「もし自分が連合艦隊司令長官として現場に来ていたのであったとすれば、二十日夜、全部隊を率いて徹底的に夜戦をやったであろう」

 消極的である栗田健男中将(海兵38)に対する不満であるとともに、決戦の陣頭に立たぬ連合艦隊司令長官・豊田副武大将(海兵33・海大15首席)に対する批判でもあった。

 最後の決戦として、豊田大将は、一日も早く空母部隊を再編成して、海軍随一の戦略家である小沢中将の指揮でリンガは泊地に送り込みたいのであった。

 だが、小沢中将は、あ号作戦以来、豊田司令長官の陣頭に立たぬ作戦指導に大いなる不満を持っていた。真の最後の決戦なら、空母部隊の、搭乗員を養成してからでなければならない。