陸海軍けんか列伝

日本帝国陸海軍軍人のけんか人物伝。

302.本間雅晴陸軍中将(2)勇ましい少年雑誌に感激したのだ

2012年01月06日 | 本間雅晴陸軍中将
 「いっさい夢にござ候~本間雅晴中将伝」(角田房子・中央公論社)によると、本間雅晴は、新潟県佐渡郡畑野村大字後山(現在畑野町宮川)に、父・賢吉、母・マツの一人息子として生まれた。

 佐渡の本間家、本家から分家した二代目が本間賢吉である。分家したときに本家から分与された田畑は四町一反だった。

 雅晴の母・マツは分家の本間家より、はるかに豊かな家の跡取り娘だったが、その権利を放棄して賢吉と結婚した。マツが賢吉に惚れ込んで周囲の反対を押し切って結婚したのだった。

 マツは身長五尺二寸(一・六メートル)の当時としては大女で、骨格たくましく、男のような体つきだった。

 また、当時の農村の娘として珍しいことではないが、文盲だった。茶の湯、生け花などのたしなみもなかった。だが、男をしのぐ労働力の持ち主であった。

 このマツが情熱を傾けたのが賢吉で、身だしなみのいい、やさ男だった。おっとりと整った細面に微笑を浮かべて若々しかった。

 賢吉は趣味も豊かだった。賢吉が最も得意としたのも、幼少から稽古を積んだ能であった。そのほか茶の湯、生け花、囲碁、書道などみな一通り器用にこなした。

 結婚後も家業の農業を妻のマツにまかせて、村の収入役などを勤めたが、これも暇つぶし程度だった。賢吉は、マツのひたむきな恋情に押し切られて結婚したが、家庭に落ち着かず、小木港の遊郭に通って、女たちを相手に歌ったり、民謡、川柳、都都逸などをして、まさに明治のプレイボーイだった。

 こうした夫の放蕩を、マツは黙って耐えた。賢吉と争う声を聞いた者はなかった。「女と生まれて、他の女にもてないような男を亭主にしても張り合いがない」とマツは言っていたそうだが、負け惜しみでもあり、本音でもあったろう。

 マツは夫の気を引こうとする努力はしなかった。マツは質素倹約、一切の無駄を嫌い、身だしなみも構わず、垢じみた着物を平気で着続けた。破れた裾から糸を下げたまま人前に出た。

 このような両親の間に本間雅晴は生まれた。戸籍謄本によれば明治二十年十一月二十七日の誕生だが、これは陸軍士官学校入試受験のとき、年齢の不足をごまかした結果で、実際は父賢吉の謄本に記載されている通り、明治二十一年一月二十七日である。

 両親の仲の冷たさを示すように、雅晴には一人の弟妹もいない。一人息子だった。父のいない夜を、不機嫌な母と囲炉裏の前に座り、黙って箸を動かす本間少年の姿は寂しいものだった。その上家は不必要に広く、光の届かぬ暗がりが幾重にも彼を囲んでいた。

 本間は中学卒業までに、陸軍士官学校志望の決意を固めた。後年、妻・富士子が「どういうわけで軍人になる決心をしたのですか」と訊ねると、本間はテレ笑いを浮かべて「日露戦争の時だったので、勇ましい少年雑誌に感激したのだ」と答えている。

 少年時代から本間はものごとを斜めに見ることをしなかった。正座して正面から眺めるのだった。ひねった考え方もしなかった。

 常に表通りをまっすぐに歩こうとする人で、わき道、裏道を覗いてみようという気持ちさえ起こさない性格だった。

 本間は日露戦争が終わった明治三十八年九月五日の二ヵ月後、十二月に第十九期生として陸軍士官学校に入校した。

 明治三十八年は、日露戦争の火急の場に間に合わせるため、第十七期生が三月に、第十八期生が十一月に卒業した異例の年だった。

 日露戦争は終わったが、本間の第十九期の採用は一一八三名で、急増した第十八期の九六五名をさらに上回る採用人数だった。

 そして、幼年学校出身者と中学出身者の混成である十八期と、幼年学校出身者だけの二十期にはさまれた、本間たちの十九期は中学出身者だけを対象とする採用だった。

 同期生全員が中学卒業者だけというのは、陸軍士官学校の歴史を通して、十九期のただ一回だけのことだった。また十九期の採用人数が多かったことが、その後長く尾を引き、人事行政渋滞の原因となった。