さらに、木戸自身もすでに重臣見解支持の態度を打ち出している以上、内大臣は辞任しなければならないということだった。
木戸内大臣の忠告に天皇は「よくわかった」とうなずいた。
オープンカーで宮城入りした東條首相が、宮殿に入り、拝謁室に向うと、取次ぎの侍従が少し待ってくれと止めた。今、内大臣が拝謁中だというのである。
東條首相は「こっちは約束の時間通りに来たのに、どういうことか。また木戸が~」と思った。休所でひとり、案内を待っていると、政務室から退出してきた木戸内大臣が前を通りかかった。
木戸内大臣は、挨拶すると東條に、これから上奏する内容を聞いた。東條はぶっきらぼうに言った。「内閣総辞職を決意し、内奏に参ったのです」。
木戸は大変喜ばしかったが、そんな様子はおくびにも出さなかった。木戸はつとめて事務的にきいた。
「円満に政変を収拾するため、私のふくみとしてお尋ねしておきますが、後継首相についてお考えがありましょうか?」
東條は、自分の暗躍をとぼけている木戸に、皮肉をぶつけた。
「今回の政変には重臣の責任が重いと考えます。従って、重臣に既に腹案がおありのことと思うので、あえて自分の意見は述べません。ただ、皇族内閣などを考えられる場合には、陸軍の皇族をお考えなきよう願います」
これは、陸軍としては含むところがあるぞ、という凄みをきかせた、捨てぜりふであった。陸軍の皇族と東條が言ったのは、東久邇宮のことである。重臣たちが東久邇宮を首相に奏請して陸軍を押さえ、親しい近衛と組ませて和平にもっていく危険を東條は感じていた。
木戸に釘をさすと東條首相は拝謁室に向った。天皇のご意見次第で、まだわからんぞ。東條首相は自分に言い聞かせた。天皇は東條に首相を続行させるかもしれない。
いつものように、天皇は無表情で現れた。
「諸般の実情にかんがみ、総理大臣の辞職をお許し願いたいと考えて参りました」
東條首相が言うと、天皇はちょっと思案する様子だったが、すぐに天皇は「そうか」と言った。その一言だけだった。東條首相は、しばらく次の言葉を待ったが、天皇はなにも言わなかった。
東條には訴えたいことが沢山あったが、この日は「椅子」の声もかからなかった。東條首相はじっと立っている天皇を見ていた。そこからはなんの感情も読み取れなかった。
やがて、東條首相はうやうやしく最敬礼をし、天皇は、静かに退室して行った。東條の思惑は実現しなかった。東條首相は総辞職するもやむなしと決心した。東條内閣は昭和十九年七月十八日に総辞職した。
この日七月十八日午後五時、サイパンの日本軍玉砕が、大本営から発表された。東條内閣総辞職が国民に発表されたのは七月二十日であった。
一切の地位から退いた東條英機は、以来、終戦の昭和二十年八月十五日まで、東京世田谷区用賀の自宅に引きこもっていた。
昭和二十年九月初めから、連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーは、日本人戦争犯罪人の呼び出しを始めた。大日本帝国最後の陸軍大臣・下村定大将(陸士二〇・陸大二八首席)は、東條英機が自決を決意していると耳に挟んだ。
九月十日、下村大臣は東條に陸軍省へ来るように要請した。東條はやって来た。下村大臣が「閣下は自決を決意されていると聞きましたが」と言うと、東條は「自分は国民と皇室に重大な責任がある。死をもってお詫びする以外ない」と答えた。
下村大臣が「いや、閣下にはぜひ東京裁判に出てもらわなければなりません」と言うと、
東條は「自分には自決しなければならないもう一つの理由がある。それは戦争中に公布した戦陣訓の中に「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉がある。これを守って多くの将兵が死んだ。これを自ら破ることはできぬ」と答えた。
だが、下村大臣は一時間以上に渡って東條を説得した。東條は「一応考え直してみる」と言って帰っていった。
翌九月十一日午後四時、米軍の憲兵が東條の自宅にやって来た。東條はピストルで胸を打って自決を図るが失敗した。
回復した東條は東京裁判では、開戦の責任が天皇にないことを主張した。昭和二十三年十一月に東條英機は絞首刑の判決を受け、その年の十二月二十三日未明、巣鴨刑務所で処刑された。六十四歳だった。
(「東條英機陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「山本五十六海軍大将」が始まります)
木戸内大臣の忠告に天皇は「よくわかった」とうなずいた。
オープンカーで宮城入りした東條首相が、宮殿に入り、拝謁室に向うと、取次ぎの侍従が少し待ってくれと止めた。今、内大臣が拝謁中だというのである。
東條首相は「こっちは約束の時間通りに来たのに、どういうことか。また木戸が~」と思った。休所でひとり、案内を待っていると、政務室から退出してきた木戸内大臣が前を通りかかった。
木戸内大臣は、挨拶すると東條に、これから上奏する内容を聞いた。東條はぶっきらぼうに言った。「内閣総辞職を決意し、内奏に参ったのです」。
木戸は大変喜ばしかったが、そんな様子はおくびにも出さなかった。木戸はつとめて事務的にきいた。
「円満に政変を収拾するため、私のふくみとしてお尋ねしておきますが、後継首相についてお考えがありましょうか?」
東條は、自分の暗躍をとぼけている木戸に、皮肉をぶつけた。
「今回の政変には重臣の責任が重いと考えます。従って、重臣に既に腹案がおありのことと思うので、あえて自分の意見は述べません。ただ、皇族内閣などを考えられる場合には、陸軍の皇族をお考えなきよう願います」
これは、陸軍としては含むところがあるぞ、という凄みをきかせた、捨てぜりふであった。陸軍の皇族と東條が言ったのは、東久邇宮のことである。重臣たちが東久邇宮を首相に奏請して陸軍を押さえ、親しい近衛と組ませて和平にもっていく危険を東條は感じていた。
木戸に釘をさすと東條首相は拝謁室に向った。天皇のご意見次第で、まだわからんぞ。東條首相は自分に言い聞かせた。天皇は東條に首相を続行させるかもしれない。
いつものように、天皇は無表情で現れた。
「諸般の実情にかんがみ、総理大臣の辞職をお許し願いたいと考えて参りました」
東條首相が言うと、天皇はちょっと思案する様子だったが、すぐに天皇は「そうか」と言った。その一言だけだった。東條首相は、しばらく次の言葉を待ったが、天皇はなにも言わなかった。
東條には訴えたいことが沢山あったが、この日は「椅子」の声もかからなかった。東條首相はじっと立っている天皇を見ていた。そこからはなんの感情も読み取れなかった。
やがて、東條首相はうやうやしく最敬礼をし、天皇は、静かに退室して行った。東條の思惑は実現しなかった。東條首相は総辞職するもやむなしと決心した。東條内閣は昭和十九年七月十八日に総辞職した。
この日七月十八日午後五時、サイパンの日本軍玉砕が、大本営から発表された。東條内閣総辞職が国民に発表されたのは七月二十日であった。
一切の地位から退いた東條英機は、以来、終戦の昭和二十年八月十五日まで、東京世田谷区用賀の自宅に引きこもっていた。
昭和二十年九月初めから、連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーは、日本人戦争犯罪人の呼び出しを始めた。大日本帝国最後の陸軍大臣・下村定大将(陸士二〇・陸大二八首席)は、東條英機が自決を決意していると耳に挟んだ。
九月十日、下村大臣は東條に陸軍省へ来るように要請した。東條はやって来た。下村大臣が「閣下は自決を決意されていると聞きましたが」と言うと、東條は「自分は国民と皇室に重大な責任がある。死をもってお詫びする以外ない」と答えた。
下村大臣が「いや、閣下にはぜひ東京裁判に出てもらわなければなりません」と言うと、
東條は「自分には自決しなければならないもう一つの理由がある。それは戦争中に公布した戦陣訓の中に「生きて虜囚の辱めを受けず」という言葉がある。これを守って多くの将兵が死んだ。これを自ら破ることはできぬ」と答えた。
だが、下村大臣は一時間以上に渡って東條を説得した。東條は「一応考え直してみる」と言って帰っていった。
翌九月十一日午後四時、米軍の憲兵が東條の自宅にやって来た。東條はピストルで胸を打って自決を図るが失敗した。
回復した東條は東京裁判では、開戦の責任が天皇にないことを主張した。昭和二十三年十一月に東條英機は絞首刑の判決を受け、その年の十二月二十三日未明、巣鴨刑務所で処刑された。六十四歳だった。
(「東條英機陸軍大将」は今回で終わりです。次回からは「山本五十六海軍大将」が始まります)