「元帥 東郷平八郎」(伊東仁太郎・郁文社)によると、東郷平八郎の父、東郷吉左衛門(きちざえもん)は薩摩藩の郡奉行から御納戸奉行に抜擢されて、評判の良い人だった。武芸に無通じていたが、文事にも修養を積み、その精勤と吏才を認められて、出世の早い方だった。
御納戸奉行、いわゆる勘定奉行は、藩の財政を司り、出納の実務に当たっているので重要な職務だった。家老に比べれば、はるかに下役だったが、職務上藩の秘密にも携わるので、中枢の地位にいた。
平八郎の母、益子(ますこ)は、薩摩藩の堀與三左衛門の三女で、すごい美人だったと言われている。
東郷吉左衛門夫妻の間には、多くの子供が生まれた。長女と次男は早く死んだが、長男は四郎兵衛、三男が壮九郎、五男が四郎左衛門だった。東郷平八郎は、四男で、幼名は仲五郎だった。
東郷平八郎が生まれたのは、薩摩藩、鹿児島城下の鍛冶屋町だった。東郷家は、鍛冶屋町の中でも、上士の位で、屋敷も地所が三百坪以上あって、家屋も相當な大きさだった。
東郷平八郎が生まれた鍛冶屋町は、明治の大物を多数輩出している。東郷平八郎以外の鍛冶屋町出身の明治の大物は次の通り。
西郷隆盛(さいごう・たかもり・薩摩藩士・郡方書役助・戊辰戦争を主導し勝海舟と交渉し江戸無血開城に成功・明治政府参議・陸軍元帥兼参議・陸軍大将兼参議・近衛都督・征韓論で対立し辞職・鹿児島に帰郷・西南戦争で自刃・享年五十一歳)。
大久保利通(おおくぼ・としみち・薩摩藩士・藩校造士館・記録書役助・徒目付・御小納戸役・御小納戸頭取・御側役・王政復古・参与・太政官・参議・政変で西郷隆盛を失脚させる・初代内務卿・宮内卿・暗殺される・享年四十九歳・従一位・勲一等)。
黒木為禎(くろき・ためとも・薩摩藩士・戊辰戦争で四番隊半隊長・鳥羽伏見の戦い・一番隊小隊長・陸軍大尉・少佐・近衛歩兵第一大隊長・中佐・広島鎮台歩兵第一二連隊長・西南戦争・大佐・近衛歩兵第二連隊長・参謀本部管東局長・少将・歩兵第五旅団長・近衛歩兵第二旅団長・中将・第六師団長・日清戦争・男爵・近衛師団長・西部都督・大将・第一軍司令官・日露戦争・伯爵・枢密顧問官・従一位・功一級)。
西郷従道(さいごう・じゅうどう/つぐみち・薩摩藩士・西郷隆盛の弟・精忠組・明治維新・太政官・陸軍少将・陸軍中将・西南戦争・陸軍卿代行・近衛都督・参議・陸軍卿・農商務卿兼開拓使長官・伯爵・海軍大臣・内務大臣・枢密顧問官・海軍大将・侯爵・元帥・享年五十九歳・従一位・大勲位・功二級)。
大山巌(おおやま・いわお・薩摩藩士・西郷隆盛・従道と従兄弟・砲術を学ぶ・戊辰戦争で倒幕運動・会津戦争では砲兵隊長・明治維新・欧州留学・西南戦争で政府軍の攻城砲隊司令官・陸軍卿・陸軍大将・日清戦争で第二軍司令官・元帥・日露戦争で満州軍総司令官・陸軍大臣・内大臣・享年七十五歳・従一位・大勲位・功一級)。
<東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)元帥海軍大将プロフィル>
弘化四年十二月二十二日(一八四八年一月二十七日)生まれ。鹿児島県出身。薩摩国鹿児島城下の鍛冶屋町に薩摩藩士・東郷実友(吉左衛門)の四男として生まれる。母は益子。幼名は仲五郎。
安政元年(一八五四年)(六歳)この頃より習字、漢学、示現流の剣法を学ぶ。
万延元年(一八六〇年)(十二歳)元服して平八郎と改め、薩摩藩出仕、書役となる。
文久三年(一八六三年)(十五歳)七月薩英戦争。父、二兄とともに薩摩藩士として初陣。
慶応二年(一八六六年)(十八歳)兄、弟とともに、薩摩藩の海軍に入る。
明治元年(一八六八年)(二十歳)戊辰戦争では、薩摩藩の軍艦「春日」に乗組み、阿波沖海戦に参戦。
明治二年(二十一歳)三月宮古湾海戦に参戦。五月函館戦争に参戦。
明治三年(二十二歳)十二月コルベット「龍驤」見習士官。
明治四年(二十三歳)二月兵部省より東郷見習士官は英国留学を命ぜられる。同僚十一名とともに、ポーツマスに官費留学。ダートマスの王立海軍兵学校入学は許されず、商船学校のウースター協会で学ぶ(海軍学術、技術、航海術、国際法)。
明治十年(二十九歳)西南戦争で東郷の一族は西郷隆盛軍につき、兄・小倉壮九郎自決。
明治十一年(三十歳)三月帰朝のため同僚と共に、装甲艦「比叡」に乗組み英国を出発。五月横浜着。七月海軍中尉に昇進。十月三日奈良県令・海江田信義の長女・海江田鉄子(十七歳)と結婚。十二月大尉。
明治十二年(三十一歳)十二月少佐。
明治十四年(三十三歳)十二月砲艦「天城」副長。
明治十六年(三十五歳)三月砲艦「第二丁卯」艦長。
明治十七年(歳)五月砲艦「天城」艦長。
明治十八年(三十七歳)六月中佐。
明治十九年(三十八歳)五月コルベット「大和」艦長、七月大佐、十一月コルベット「浅間」艦長。
明治二十年(三十九歳)七月装甲艦「比叡」艦長。
明治二十三年(四十二歳)五月呉鎮守府参謀長。
明治二十四年(四十三歳)十二月防護巡洋艦「浪速」艦長。
明治二十七年(四十六歳)四月呉鎮守府海兵団長、六月防護巡洋艦「浪速」艦長、七月日清戦争、豊島沖海戦(七月二十五日「高陞号」事件)、黄海海戦、威海衛海戦に参戦。
明治二十八年(四十七歳)二月少将、常備艦隊司令官。
明治二十九年(四十八歳)三月海軍大学校校長。
明治三十一年(五十歳)五月中将。
明治三十二年(五十一歳)一月佐世保鎮守府司令長官。
明治三十三年(五十二歳)五月常備艦隊司令長官。
明治三十四年(五十三歳)十月舞鶴鎮守府司令長官。
明治三十六年(五十五歳)十月常備艦隊司令長官、十二月第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官。
明治三十七年(五十六歳)二月日露戦争、艦隊を率いて出撃、六月大将、八月黄海海戦。
明治三十八年(五十七歳)一月旅順開戦、五月二十七日、二十八日日本海海戦で大勝利、十二月軍令部長。
明治三十九年(五十八歳)十二月大勲位菊花大綬章、功一級金鵄勲章、年金千五百円。
明治四十年(五十九歳)九月伯爵。
明治四十四年(六十三歳)英国皇帝戴冠式に参列する東伏見宮夫妻に、乃木希典陸軍大将とともに随行し訪英。
大正二年(六十五歳)四月元帥。
大正三年(六十六歳)四月東宮御学問所総裁。
大正十年(七十三歳)三月東宮御学問所総裁辞職。
大正十五年(七十八歳)十一月大勲位菊花章頸飾。
昭和五年(八十二歳)四月ロンドン軍縮条約に反対。統帥権干犯問題が起きる。
昭和八年(八十五歳)十二月喉頭ガンの疑いでラジウム治療開始。
昭和九年三月病状悪化、五月二十九日侯爵、従一位、五月三十日膀胱ガンのため死去、六月五日国葬(葬儀委員長・有馬良橘海軍大将)、多磨墓地に葬られる。享年八十六歳。
昭和十五年東郷神社建立(東京都渋谷区と福岡県福津市)。
御納戸奉行、いわゆる勘定奉行は、藩の財政を司り、出納の実務に当たっているので重要な職務だった。家老に比べれば、はるかに下役だったが、職務上藩の秘密にも携わるので、中枢の地位にいた。
平八郎の母、益子(ますこ)は、薩摩藩の堀與三左衛門の三女で、すごい美人だったと言われている。
東郷吉左衛門夫妻の間には、多くの子供が生まれた。長女と次男は早く死んだが、長男は四郎兵衛、三男が壮九郎、五男が四郎左衛門だった。東郷平八郎は、四男で、幼名は仲五郎だった。
東郷平八郎が生まれたのは、薩摩藩、鹿児島城下の鍛冶屋町だった。東郷家は、鍛冶屋町の中でも、上士の位で、屋敷も地所が三百坪以上あって、家屋も相當な大きさだった。
東郷平八郎が生まれた鍛冶屋町は、明治の大物を多数輩出している。東郷平八郎以外の鍛冶屋町出身の明治の大物は次の通り。
西郷隆盛(さいごう・たかもり・薩摩藩士・郡方書役助・戊辰戦争を主導し勝海舟と交渉し江戸無血開城に成功・明治政府参議・陸軍元帥兼参議・陸軍大将兼参議・近衛都督・征韓論で対立し辞職・鹿児島に帰郷・西南戦争で自刃・享年五十一歳)。
大久保利通(おおくぼ・としみち・薩摩藩士・藩校造士館・記録書役助・徒目付・御小納戸役・御小納戸頭取・御側役・王政復古・参与・太政官・参議・政変で西郷隆盛を失脚させる・初代内務卿・宮内卿・暗殺される・享年四十九歳・従一位・勲一等)。
黒木為禎(くろき・ためとも・薩摩藩士・戊辰戦争で四番隊半隊長・鳥羽伏見の戦い・一番隊小隊長・陸軍大尉・少佐・近衛歩兵第一大隊長・中佐・広島鎮台歩兵第一二連隊長・西南戦争・大佐・近衛歩兵第二連隊長・参謀本部管東局長・少将・歩兵第五旅団長・近衛歩兵第二旅団長・中将・第六師団長・日清戦争・男爵・近衛師団長・西部都督・大将・第一軍司令官・日露戦争・伯爵・枢密顧問官・従一位・功一級)。
西郷従道(さいごう・じゅうどう/つぐみち・薩摩藩士・西郷隆盛の弟・精忠組・明治維新・太政官・陸軍少将・陸軍中将・西南戦争・陸軍卿代行・近衛都督・参議・陸軍卿・農商務卿兼開拓使長官・伯爵・海軍大臣・内務大臣・枢密顧問官・海軍大将・侯爵・元帥・享年五十九歳・従一位・大勲位・功二級)。
大山巌(おおやま・いわお・薩摩藩士・西郷隆盛・従道と従兄弟・砲術を学ぶ・戊辰戦争で倒幕運動・会津戦争では砲兵隊長・明治維新・欧州留学・西南戦争で政府軍の攻城砲隊司令官・陸軍卿・陸軍大将・日清戦争で第二軍司令官・元帥・日露戦争で満州軍総司令官・陸軍大臣・内大臣・享年七十五歳・従一位・大勲位・功一級)。
<東郷平八郎(とうごう・へいはちろう)元帥海軍大将プロフィル>
弘化四年十二月二十二日(一八四八年一月二十七日)生まれ。鹿児島県出身。薩摩国鹿児島城下の鍛冶屋町に薩摩藩士・東郷実友(吉左衛門)の四男として生まれる。母は益子。幼名は仲五郎。
安政元年(一八五四年)(六歳)この頃より習字、漢学、示現流の剣法を学ぶ。
万延元年(一八六〇年)(十二歳)元服して平八郎と改め、薩摩藩出仕、書役となる。
文久三年(一八六三年)(十五歳)七月薩英戦争。父、二兄とともに薩摩藩士として初陣。
慶応二年(一八六六年)(十八歳)兄、弟とともに、薩摩藩の海軍に入る。
明治元年(一八六八年)(二十歳)戊辰戦争では、薩摩藩の軍艦「春日」に乗組み、阿波沖海戦に参戦。
明治二年(二十一歳)三月宮古湾海戦に参戦。五月函館戦争に参戦。
明治三年(二十二歳)十二月コルベット「龍驤」見習士官。
明治四年(二十三歳)二月兵部省より東郷見習士官は英国留学を命ぜられる。同僚十一名とともに、ポーツマスに官費留学。ダートマスの王立海軍兵学校入学は許されず、商船学校のウースター協会で学ぶ(海軍学術、技術、航海術、国際法)。
明治十年(二十九歳)西南戦争で東郷の一族は西郷隆盛軍につき、兄・小倉壮九郎自決。
明治十一年(三十歳)三月帰朝のため同僚と共に、装甲艦「比叡」に乗組み英国を出発。五月横浜着。七月海軍中尉に昇進。十月三日奈良県令・海江田信義の長女・海江田鉄子(十七歳)と結婚。十二月大尉。
明治十二年(三十一歳)十二月少佐。
明治十四年(三十三歳)十二月砲艦「天城」副長。
明治十六年(三十五歳)三月砲艦「第二丁卯」艦長。
明治十七年(歳)五月砲艦「天城」艦長。
明治十八年(三十七歳)六月中佐。
明治十九年(三十八歳)五月コルベット「大和」艦長、七月大佐、十一月コルベット「浅間」艦長。
明治二十年(三十九歳)七月装甲艦「比叡」艦長。
明治二十三年(四十二歳)五月呉鎮守府参謀長。
明治二十四年(四十三歳)十二月防護巡洋艦「浪速」艦長。
明治二十七年(四十六歳)四月呉鎮守府海兵団長、六月防護巡洋艦「浪速」艦長、七月日清戦争、豊島沖海戦(七月二十五日「高陞号」事件)、黄海海戦、威海衛海戦に参戦。
明治二十八年(四十七歳)二月少将、常備艦隊司令官。
明治二十九年(四十八歳)三月海軍大学校校長。
明治三十一年(五十歳)五月中将。
明治三十二年(五十一歳)一月佐世保鎮守府司令長官。
明治三十三年(五十二歳)五月常備艦隊司令長官。
明治三十四年(五十三歳)十月舞鶴鎮守府司令長官。
明治三十六年(五十五歳)十月常備艦隊司令長官、十二月第一艦隊司令長官兼連合艦隊司令長官。
明治三十七年(五十六歳)二月日露戦争、艦隊を率いて出撃、六月大将、八月黄海海戦。
明治三十八年(五十七歳)一月旅順開戦、五月二十七日、二十八日日本海海戦で大勝利、十二月軍令部長。
明治三十九年(五十八歳)十二月大勲位菊花大綬章、功一級金鵄勲章、年金千五百円。
明治四十年(五十九歳)九月伯爵。
明治四十四年(六十三歳)英国皇帝戴冠式に参列する東伏見宮夫妻に、乃木希典陸軍大将とともに随行し訪英。
大正二年(六十五歳)四月元帥。
大正三年(六十六歳)四月東宮御学問所総裁。
大正十年(七十三歳)三月東宮御学問所総裁辞職。
大正十五年(七十八歳)十一月大勲位菊花章頸飾。
昭和五年(八十二歳)四月ロンドン軍縮条約に反対。統帥権干犯問題が起きる。
昭和八年(八十五歳)十二月喉頭ガンの疑いでラジウム治療開始。
昭和九年三月病状悪化、五月二十九日侯爵、従一位、五月三十日膀胱ガンのため死去、六月五日国葬(葬儀委員長・有馬良橘海軍大将)、多磨墓地に葬られる。享年八十六歳。
昭和十五年東郷神社建立(東京都渋谷区と福岡県福津市)。