少しばかり前回の主題である “半霊半物質” について様々な角度から考えてみたいと思います。 コレはこれから先の私たち地球人類の近未来を考える上でもかなり重要な情報だと思っています。
私の人生の “考え方” の中心をなしているケイシー・リーディング、ひふみ神示、神智学、ヒットラー預言、平井和正氏の小説等に出てくるのが、この第五根源人種がまとうであろう新しい肉体であるエーテル体(Ether)と肉体(Flesh)の中間体です。
コレがどういったモノか一般の方に解りやすく説明することは現在の私では不可能です。 ただ、各個人がそれぞれのレベルの心で汲み取るしかありません。
しかしホンの僅かですが、なんとか私たちのような限られた意識の人類に、理解ギリギリの言葉で説明してくれているものがあります。 そちらをピックアップしてみたいと思います。
まずは、ひふみ神示より、
【ひふみ神示 〔五葉之巻・第十五帖〕】
今に大き呼吸も出来んことになると知らせてあろうが、その時来たぞ、岩戸がひらけると言ふことは半分のところは天界となることぢや、天界の半分は地となることぢや、今の肉体、今の想念、今の宗教、今の科学のままでは岩戸はひらけんぞ、今の肉体のままでは、人民生きては行けんぞ、一度は仮死の状態にして魂も肉体も、半分のところは入れかえて、ミロク(666?)の世の人民としてよみがへらす仕組、心得なされよ、神様でさへ、この事判らん御方あるぞ、大地も転位、天も転位するぞ。
【ひふみ神示 〔五葉之巻・第十六帖〕】
マコトでもって洗濯すれば霊化される、半霊半物質の世界に移行するのであるから、半霊半物質の肉体とならねばならん、今のやり方ではどうにもならなくなるぞ、今の世は灰にするより他に方法のない所が沢山あるぞ、灰になる肉体であってはならん、原爆も水爆もビクともしない肉体となれるのであるぞ、今の物質でつくった何物にも影響されない新しい生命が生れつつあるのぞ。 岩戸ひらきとはそのことであるぞ、少し位は人民つらいであろうなれど勇んでやりて下されよ、大弥栄の仕組。
こんな感じです。
さて、拙ブログをご覧の皆様は、上の帖をお読みになってどう感じられましたか?
「アホ臭い。 私は家庭の夫婦関係と子供の事、この大不況下の会社でいつリストラになるかもしれないのに、そんな下らんオカルト的なことを考える時間なんかない。」
ぐらいが大多数の感想なのではないでしょうか。 別にそれはそれで良いと思います。 こんな事を日々書いている私自身も昔は “人生・世界はお金が総て!” 的な人間でしから否定も肯定も出来ませんし、する資格もありません。
私自身気が付いたら、こんなアヤシイ世界にドップリと頭まで浸かってしまっていた自身に気が付いたのですから。
まーそれはともかく、次にケイシー・リーディングより “半霊半物質” に関連すると思われる部分を抜粋してみたいと思います。
【キリストの秘密】
一方、復活をもっと専門用語を用いて説明しようとしたものもある。 復活の神秘は「人間の肉体を聖なる肉体へ変化させる」(R2533-8)ことにあるか、という質問に対して、眠れるケイシーはそれを否定して次のように言った。 「これは肉体の変化ではなく、創造である……」 と。
キリストの身体の変化について秘儀はありえない。 なぜなら、肉体の意識において、父であり母である神との合一を達成し、その合一が完全であったがゆえに、屍衣、外套、布の置かれた状態が示すように――体の腐敗が始まるとすぐに、肉体が形成されたのだ。 これこそがその様子だ。 これはあるものが別のものに変るという意味での変容ではない。
ドアを閉められた部屋の中に肉体が入って来たということは、肉体がドアを通り抜けたのではく、部屋の中に充満していたエーテル波から形造ったというこである。 というのも、その会合は信仰によって持たれたものだったからである。 そして 「上から力を授けられるまでは、エルサレムに――二階に――とどまっていなさい」 と主は与えられたのだ。(R2533-8)
このリーディングで重要なのは、たしかに霊というのは、物質(壁とか)を通り抜けることは可能ではあるようですが、しかし、この聖書でも有名な復活の場面では、そういった事は一切おこなわれず、部屋の中に充満していたエーテル波(Ether)から形造られたということです。
つまりこのケースでは、ひふみ神示に述べられている半霊半物質ではなく、完全な霊物質(Ether)からのみ形造られたということのようです。
まー今回、こちらに関して、私見は深く突っ込んで書きませんが、占星学の黄道十二宮の流れも併せて考えると更に興味深いモノが観えてきます。 神の経綸の一端と言ったトコでしょうか。
で、更に突っ込んで、と思いましたが、本日は疲れたので寝ます。 下に原文の関連する部分を抜粋しておきますので興味のある方は読んでみて下さい。
おやすみなさいZz…
Good Night~♪
~~~~(R2533-8)~~~~~~~~~~~~~~~~
(Q) Is the transmutation of human flesh to flesh divine the real mystery of the Crucifixion and Resurrection? Explain this mystery.
(A) There is no mystery to the transmutation of the body of the Christ. For having attained in the physical consciousness the at-onement with the Father-Mother-God, the completeness was such that with the disintegration of the body - as indicated in the manner in which the shroud, the robe, the napkin lay - there was then the taking of the body-physical form. This was the manner. It was not a transmutation, as of changing from one to another.
Just as indicated in the manner in which the body-physical entered the Upper Room with the doors closed, not by being a part of the wood through which the body passed but by forming from the ether waves that were within the room, because of a meeting prepared by faith. For as had been given, "Tarry ye in Jerusalem - in the upper chamber - until YE be endued with power from on high."
As indicated in the spoken word to Mary in the garden, "Touch me not, for I have not yet ascended to my Father." The body (flesh) that formed that seen by the normal or carnal eye of Mary was such that it could not be handled until there had been the conscious union with the sources of all power, of all force.
But afterward - when there had been the first, second, third, fourth and even the sixth meeting - He THEN said: "Put forth thy hand and touch the nail prints in my hands, in my feet. Thrust thy hand into my side and BELIEVE." This indicated the transformation.
For as indicated when the soul departs from a body (this is not being spoken of the Christ, you see), it has all of the form of the body from which it has passed - yet it is not visible to the carnal mind unless that mind has been, and is, attuned to the infinite. Then it appears, in the infinite, as that which may be handled, with all the attributes of the physical being; with the appetites, until these have been accorded to a unit of activity with universal consciousness.
Just as it was with the Christ-body: "Children, have ye anything here to eat?" This indicated to the disciples and the Apostles present that this was not transmutation but a regeneration, recreation of the atoms and cells of body that might, through desire, masticate material things - fish and honey (in the honeycomb) were given.
As also indicated later, when He stood by the sea and the disciples and Apostles who saw Him from the distance could not, in the early morning light, discern - but when He spoke, the voice made the impression upon the mind of the beloved disciple such that he spoke, "It is the Lord!" The body had prepared fire upon the earth - fire, water, the elements that make for creation. For as the spirit is the beginning, water combined of elements is the mother of creation.
Not transmutation of flesh but creation, in the pattern indicated.
Just as when there are those various realms about the solar system in which each entity may find itself when absent from the body, it takes on in those other realms not an earthly form but a pattern - conforming to the same dimensional elements of that individual planet or space.