そう、もひとつ “7(Seven)” とゆー数霊に関して重要なモノを忘れていました。 それは、私の人生を大きく変え、飛躍させてくれ、また助けてくれている ”姓名学” です。
姓名学は “五格部(天格・地格・人格・外格・総格)” と ”二つの五行の流れ(成功運と基礎運)” を用いた占いですが、こちらも7つのファクター(要素)を用いてその人の現在・過去・未来を読み取るツールです。
世の中には様々な種類の “占い” と呼ばれている運命学がありますが、果たしてドレがいちばん正確か?というのは非常に難しい質問です。
この問題は私のアメリカの占星学の先生とも議論しました。 その結果、どの運命学(人相、手相、占星学、紫微斗数、姓名学、カバラ数秘学、オーラなどなど)を用いようと、最後はその鑑定者の力量による、との結論になりました。
どういういことかと申しますと、解り易く申しますと、TVのchannel(チャンネル)と同じニュアンスになります。 その扱う人の得意とする方法(占い方)でチューニングしてチャンネルを合わす事ができるなら、どんな種類の売らない方でも、正確に運命を読み取る事ができる、とゆーニュアンスでしょうか。
ただ、やはり、得意とする方向性があるのもまた事実です。 恋愛方面に向く占いもありますし、職業方面を得意とするのもありますし、国の命運といった大きな方面に向く占いもあります。 そして、やはり最後は直感(Intution)が重要なカギを握ります。
私は現在、占星学に没頭して研究していますが、手相と望診法に関しては大森先生からその基本となる理論だけは教わっています。 あとは姓名学のように膨大な統計をとるだけです。
ですが、こちらはあまり長期的なモノは見通しにくい運命学でもあります。 と、ゆーのも手や顔の相は変わりやすく、現時点のままの心の持ちようや食べ物等で行くなら、こういう運命になる確率が高いけど、もし心変わりしたり、食べ物が変わると運命も大きく変わっていくからです。
この事は江戸時代の代表的な人相観「水野南北」の逸話によく顕れています。 そして、「水野南北」の名前もその事をよく表しています。 晩年に29画の特殊吉数が出てるぐらいで、他はほとんど五大凶数(9、14、20画)のオンパレードです。
とくに主格に家族別れの20画が出ているので、天涯孤独になりやすい傾向が付き纏っています。
ですが、手相の最大のメリットはと申しますと、ズバリ “美人の手を堂々と、いくらでも握りながら、頬ずりしながら…(コレはムリ)、じっくり、ゆっくり見つめるコトができる” コトに尽きる!、でしょうか。 姓名学である程度信用を得ると、どんな美人でも向こうから喜んで手を差し出してくれます。 いつも姓名学でTake Careしていた美人四姉妹も、いつも向こうからすすんで手を差し出してくれていました♪
あー大森先生ありがとーございます、と心の中でいつも感謝していました。
う、イカン! つい煩悩が。
こんな事をやっていると、いつか 「中年エロ占い師猥褻容疑で逮捕!」 という三文記事の対象になってしまうので、神聖な運命学を邪な事に使わないように、コレも地球の輪廻転生を終えるための精神修行と考えて取り扱ってゆきたいモノです。
さて、本題に入ろうと思いましたが、本日は占星学の研究があるのでコレにて失礼します。 最後に、ケイシー・リーディングの述べる ”手相(Palmistry)” に関する見解をアップして失礼します。
ある意味、運命学というモノ全体を簡潔にうまく表現していると思います。
オヤスミなさいZz…
【(R481-2) Palmistry】
28. (Q) What value is there in palmistry? To what extent may it be relied upon?
(A) As we have given in regard to any and every omen, it is an indication - yes. As to whether or not it will come to pass depends upon what the body, the mind of such an one does ABOUT that it knows in relationship to itself. It may be depended upon, then, about twenty percent as being absolute - and about eighty percent "chance" or what a body does with its opportunities. The same as may be said about an individual that has prepared himself to be a medium through which there may be expressed in excellent executive. How much does the preparation have to do with the body being an excellent executive? About twenty percent, and the application is the rest! It is just so with all activities. For, the will of a soul, of a body, is supreme - even as to whether it makes of itself a channel for the spiritual influences in its experience or for the selfish desires of its own body and its aggrandizing of those influences.
O if souls, bodies, everywhere, would gain that knowledge that the abilities to be sons of God or of the devil lie within self's own individual will! For, as has been given of old, "I am persuaded that neither principalities nor souls, individuals nor conditions, may separate me from the love of God save myself." To be that He would have thee be, in all that thou doest and hast done from day to day, is being then a channel - and being used by Him, rather than using the blessings He has given thee for thine undoing.