人生何でもあり!

日々の思い付きを書いてゆきたいと思っていますので、ヒマな方はお付き合い下さい。

本日の呟き(Feb/27/'12)

2012-02-27 20:53:28 | ひふみ神示系

 ここんトコの世の中を眺めていると、今の子供たちって大きな夢なんて見るのは難しいだろうなーと思います。

 先日の東北大震災による原発問題、地球温暖化(捏造でしょうが)問題、環境問題、エネルギー問題、金融問題、倫理観の低落、戦争etc...

 どう頑張っても、美しい、平和な世界を夢見ることは出来そうにありません。 

 私たちは、果たしてどう生きれば良いのでしょう?  

 ここで少しばかり、あまり慰めにはならないかも知れませんが、ひふみ神示より未来に夢の持てない世界に、夢(光)の方向へ行く道を指し示してくれているような帖をアップしたいと思います。

【ひふみ神示 〔春の巻・五十二帖〕】

 まことの光の道に行き、進めよ。 ここぞと見極めたら、理解に向つてひたすらに進まねばならん。 理屈いらん。 宇宙は個の方の中にあるのぢや。 このほうぢや。 世が段々せまつて悪くなるように申してゐるが、それは局部的のこと。 大局から見れば、よきに向つて弥栄えてゐるぞ。 夏が暑いと申してブツブツ申すでないぞ。 秋になるぞ。 冬もあるぞ。 冬ばかりと考えるでないぞ。 やがては春が訪れるのぢや。 いづれも嬉し嬉しとなる仕組。

 と、書かれていますが、現状から見たらとてもそう考えるのは難しいのは、私自身よく理解できます。  

 私の場合、この世の中にあってもただ単純に心が行きたい方向に行っているので、それだけは感謝です。 それがなかったら、”今” の時代を生きている意味は、ほとんど見い出せなかったでしょう。

 ここで、話は変わりますが、ひとつ興味深い事に気がつきました。 ひふみ神示に出てくる 『太神』 という表現です。 ここから先は私の推論になりますが、そのおつもりでお読み下さい。

 今までひふみ神示を30回以上通読した感じから、この “太神” というのは八百万の神の更に上に立つ存在ではないのか? つまり、この世を創造された ”唯一神” を指し、ケイシー・リーディングは 『First Principle(第一原因)』 とか、Creative Energy(創造の諸力)とかいう表現を用いて、その存在を表現しています。

 ですから、ケイシー・リーディングもひふみ神示も、“神” という存在を考える際、 “絶対神” と ”汎神論”を併せて考えるように注意しています。

 噛み砕いて表現しますと、八百万の神々は “大神”であり、それらを創り出したのが ”太神”。 イエス・キリストやクリッシュナ、ムー、ムハンマド等は大神であり、それらの地球に現れた優れた指導者すら創り出したのが、太神。 そう理解してもらえば解りやすいかも知れません。  ですから、イエス・キリストもFather(父)という表現でその存在を言い表しています。

 聖書やケイシー・リーディング、ひふみ神示等を読み解く際には、カギとなる重要な考え方です。 

 ここからがキモとなります。 この ‘太神’ の画数は興味深い事に喜怒哀楽の激しい家族縁の薄い大凶数の14画なのです。 そして、この物質世界をを表現するのによく使われる ‘宇宙’ というのも同じく14画なのです。

 これは何故???

 絶対神ともあろう存在の数霊がなぜ大凶数なの?

 と考えました。 ですがそのヒントは14画の数霊の解釈に隠されていました。 

 それは 「喜怒哀楽」 です。

 怒り、悲しみ、歓び、楽しみ、といった人間の様々な感情を簡潔に言い表した四字熟語です。 つまり、変化・落差があってこそ、人間はその意味を深く知ることができる。 そこにこそ、生きている意味を見出す事ができる。 

 極論すれば、「生きるとは喜怒哀楽を味合うこと」。

 そう考えれば、この謎も多少解けるような気がします。 もちろん、独断と偏見ですが。

 さて、本日のつぶやきの最後に、“今” を考える上で参考となりそうな言霊を抜粋しておきたいと思います。

     

「闇がなければ星は光ることができぬもの。 輝かしい太陽の光が世界に満ち満ちている時、人は闇の恐怖を忘れよう。 光のありがたみも忘れ果てる。 闇夜の恐ろしさなぞ考えることもせぬ。 苦悩と絶望の中にこそまこと真実があるものよ。 されど、太陽の光が満ち溢れる真昼に、真実を求め、探す者がおろうか・・・・・・」

『その真実とは、”希望” のことではありませんか?』

「 “希望” とな? おお、呼びたければそう呼ぶがよい。 それはかぼそい灯ぢゃ。 じゃが、太陽を失った暗夜にはまたとない希みの灯ぢゃ。 萎えた心を奮い起たせ、絶望の闇に閉じかけていた眼を再び見開かせるのぢや。 

 ぢゃが、‘希み’ とはまた、むごたらしく意地悪いものかも知れぬぞ。 力尽き果てて、倒れ伏した者を再び引きずり起こし、萎え果てた体に鞭打つのが ‘希み’ というものぢゃわい。 いっそ死んでしもうた方がどれほど楽かも知れぬ……しかし、‘希み’ とはそれを許さぬ。 人間にはこれほど残酷な責め苦を与えるものは他にまたとあるまい……

 覚えておくがよい、娘御よ。 物事には何事にも全て相反する二つの貌があるということをな……それは一枚の金貨に表裏があるのと同じこと。 人の心もまた同ぢゃ。 人の世の苦しみと悲しみを知らぬ者がどうして人生に通じることができようか。

 生きる歓びを知るためには、人間はそれ相応の対価として苦悩を支払わねばならぬのぢゃよ。 さすれば、よりよく生きることができよう。 お前様が歓びを得るに至らぬのは、対価をまだ支払っておらぬからぢゃ