(パリ オペラ座の天井画 2004年12月撮影)
昨日は「愛のシャガール展」(美術館「えき」KYOTO 京都駅ビル内 10月2日まで開催中)に行ってきました。
展示は、油彩、水彩など約15点、版画、ポスターなどを合わせた約140点で構成されています。
専門的なことはわかりませんが、シャガールの絵が大好きで、近くで開催される時は必ず観に出掛けています。絵をみている。というより、色をみている。という方が私にとっては正しい表現かもしれません。
青、緑、赤、黄の使い方の鮮やかさに何度みても飽きないものです。
美術館は、特に惹かれる絵に出会わない限り、さら~っとスルーしてしまうのが私の日常です。「目を惹く」といっても、どういうところがどう素晴らしいのかを説明できるだけの絵心はありません。ただなんとなく…なんとなく好きになります。
今回の展示の中で私が一番好きな絵が「アネモネ」という作品。赤と青と黄の独特のバランスが何とも美しい作品でした。
また、今回の展示にはありませんでしたが、これまでに知っている中で一番好きな絵が「窓から見たパリ(ここでは、「開かれた窓」というタイトルになっていました)」という作品です。
窓から見たパリ
たまたま、美術館を出た通路でその複製画の予約販売会が行なわれていたので購入することにしました。受注生産ということで、私の手元に届くのは約1ヵ月後になるそうですが、どう考えても部屋の広さに不釣り合いな大きな絵をどこに飾ろうか。と今から楽しみで仕方ありません。
マルク・シャガールは、1887年ロシア系ユダヤ人として生まれ、長い間放浪生活を強いられてきました。
19歳で地元の画家のアトリエに通い始め、翌年にはわずかな所持金を手に、サンクトペテルブルクに上京。王立美術館に入学します。しかし、古典に終始する教育はシャガールを幻滅させ、翌年には、パリ画壇に精通した舞台美術家バクストの学校に移ります。
そこで初めて、モネやゴッホなどパリの近代画家の作品に触れ、次第にパリへの憧れを強めます。
パリに旅立ってから、4年後に帰国し、1915年28歳でベラと結婚。あふれる幸福感を「誕生日」という作品で表現しました。
二人でパリへ行こう---。
しかし第一次世界大戦が勃発。出国は許されませんでした。
さらに、戦争の混乱の中で起こった1917年のロシア革命が彼を苦しめました。
1918年に大戦は終結しますが、混乱を極めるロシア国内の社会状況と、芸術への無理解から、4年後の1923年妻ベラと娘イダと共にフランス亡命を決意します。
1930年代には、シャガールの評価はピカソやマティスと並ぶほどになっていました。しかし、1933年、ナチス・ドイツがユダヤ人の絵であるという理由で、マンハイム美術館所蔵のシャガールの作品を全て燃やしてしまったのです。
1939年には第二次世界大戦が勃発。ナチス軍の侵攻とユダヤ人への迫害は、周辺国に広がっていきました。シャガールは南仏のゴルドへ逃れ、パリ陥落後にはアメリカへの亡命を決意します。(54歳)彼は大西洋を渡って再び放浪の旅に出なければなりませんでした。
1944年8月、ニューヨーク近郊の別荘に滞在していたシャガールとベラはラジオから流れるパリ開放のパリ開放のニュースに歓喜の声をあげました。しかし、ベラが伝染病にかかり、わずが数日後、49歳で他界。その後9ヶ月間、彼は絵筆を握ることはありませんでした。
翌年、58歳のシャガールは、亡き妻に捧げる大作「華燭」「彼女をめぐって」を完成。
1948年61歳でついにフランスに帰国したシャガールは、パリ近郊のオルジュヴァルを経て1950年には南仏の町ヴァンスへ。そして最晩年は、ヴァンスの隣村サンポール・ド・ヴァンスに居を構えます。
南仏の自然に魅了されたシャガールは、この地でリトグラフや陶芸など新しい分野に果敢に挑戦していきます。
1952年65歳でロシア人女性ヴァヴァと再婚。
安らぎを取り戻した彼は3年後、「聖書のメッセージ」の連作に着手。欧米各国の教会のステンドグラスの製作にも心血を注ぎました。
1973年、ニースに誕生したシャガール美術館は、南仏で輝きを増した彼の芸術の集大成とも言えるものでした。
1985年、シャガールは、33年間連れ添ったヴァヴァに看取られ、サンポール・ド・ヴァンスの自宅で97歳の生涯を閉じました。2度の大戦、革命、迫害などを経験しながらも、二人の妻と愛を紡いだシャガール。
「色彩の魔術師」とも評されるシャガールが生涯を通じて絵画制作の拠り所としたのは、「愛」「故郷」「聖書」の3つのテーマでした。
(参考文献:講談社 週間世界の美術館 シャガール美術館 2000年9月12日発行)