ムンクは言っています。
「私は、見えるものを描くのではない。見えたものを描くのだ。」
見えるものではなく見えたもの、とは、目に見えるものではなく心の中に見えたもの、ということでしょう。
心の中に見えたとは、言い換えれば心で感じたものということでしょうか。
行ったことはありませんが、北欧のフィヨルドの夕景色は非常に美しいにちがいありません。
きっと私がそれを見たら
「まあ、なんて美しい!この世のものとは思えないわあ!!」
なんて感激することでしょう。
ところが、疲労と苦悩で死にそうなムンクが見ると、夕焼けの雲は血の色で、しかもいきなり、
大自然の、引き裂くようなばかでかい叫びが聞こえてしまう。
衝撃でゆがんだ人物像を見て、私たちもまた激しい衝撃を受けます。
だがこれで、ムンクも私たちも、目に見えないムンクの心の中、恐れや不安や苦悩や死にそうな疲労感に満ちた心の中を
見ることができるのです。
ムンクが「見た」もの=感じたものを私たちも「見る」。 絵画表現として。
つまりこの瞬間、見えない心の中の世界が可視化されるわけですね。
可視化されるとどうなるかというと、客観視できるということです。
客観視されることで、私たちはどれほど救われることでしょう。
わけのわからない、暗い嵐のような、あるいは底なし沼のような激しい感情に呑み込まれないですむのです。
私たちがこれほど「叫び」という作品に引きつけられるのは、私たちにも心の奥に、こういう恐るべき状態があるってことを
知っているからなんじゃないかな。
そして、これ以上無いほどの絵画表現に深く共鳴しているのだと思います
叫び君グッズやら、ケータイの絵文字やらになるほど「叫び」は愛されています。
本当ははるかに重い感情なのですが、それを知ってなお、叫び君キャラは今の私たちに必要な気がします。
「今こんな感じなのよ~」と叫び君を見せて自分の重苦しい内面を自他共に客観視し、
共感しあったり、ちょっと笑って冷静さを取り戻したりできるのですから。
私も、もうクリアファイルなんていっぱい持っているのに、ついつい「叫び」のクリアファイル買っちゃったし。
今のこの状態、「叫び」という内面告白の傑作が超人気キャラクターになっている状態を見たら、
ムンクはどう思うでしょうね。
たぶん驚愕するでしょうが、怒りはしないと思うんですよね。
むしろ「おお、みんなもそうなのか」とか「苦しい私の絵が役に立ってる」みたいに喜ぶんではないかと・・・ないかな??