テロと言う正体不明の言葉同様に、エコと言う言葉が無条件で市民権を得ているように見える。「エコ」と言えば、それだけで免罪符が与えられているようである。
その典型が、レジ袋である。我が家にはエコバックがいくつもある。一年前までには見当たらなかったしなものである。買ったものは一つもない。何かのプレゼントだったり、家内がポイントを集めたりしてもらったりしたものばかりである。
レジ袋作成にかかわるCO2排出なんて、たかが知れている。確かにレジ袋は、ゴミにもなるし無駄だとは思う。しかし、エコバックが10個も生産するなら、幾つのレジ袋になるか知らない が、相当な数になるはずである。それよりレジ袋はゴミ捨てなど、に結構重宝して使っている。すっかりなくなると、それもまた厄介でないか。
商売人もこの「エコ」にすっかり便乗している。電球をエコに買い換えよう。電気冷蔵庫やテレビなどの電化製品も、エコにすると10年でこれだけCO2排泄が減るというのである。なにせエコは正義の免罪符を頂いている。言いたい放題である。
燃費が良くてエコな車に買い換えるよりも、買い替えない方がよっぽでエコである。車生産や冷蔵庫生産にかかわる、エネルギー消費量は換算されていない。維持にかかるエネルギーの多さばかりが宣伝される。
住宅などは相当いい加減である。ログハウスを地元の木材で立てた場合と、北欧から輸入した木材だけで建てた場合とでは、ウッドマイレージは約1000倍も異なる。CO2の排出量もこれに比例する。エコ住宅を建てるより、古くなった住宅をせいぜい手直しする方がよっぽど、エコなのである。
勿体(TONNAINAI)ないと思えばいいのである。耐用年数を全うすることが何よりである。宣伝にごまかされるでない。